第十三話 紅の大軍に砲声が燃え上がる
森一面を覆っている禍々しいけれど、切ない気持ちになる磁場のようなものはなんだろうか……。
息をするだけで感受し、涙が出そうになる。多くの人々の悲しみを濃縮したようで、胸が苦しくなる。ガーフは涙を流していた。どうして、こんなに悲しいのだろう……。
心が痛むのだろう。この森には沢山の悲しみが溢れていた。
共に痛みを分かち合いたいと思った。
自分に何かできるのなら、してやりたいと思った。
けれど、今はブルーを見つけなければならない。
空気を黒く染め上げるかのような、禍々しいオーラが近くから漂ってくる。このオーラの持ち主は、どれほどの憎しみを身に宿しているのだろうか。
ガーフは哀れでならなかった。
強い想いが消えることもなく、薄れることもなく、森を彷徨い歩いている。草木をかき分け、ガーフは鬱蒼とした森を突き進んだ。
樹々が明けた刹那、ガーフの全身から血の気が一気に引いた。
ブルーが尻もちをつき、黒いローブを目深にかぶった魔物が剣を振り上げていた。ブルーはこれから自分に降りかかるであろう、運命に目を見開き絶望する。
ガーフは一瞬で悟った。自分がどれだけ急いだところで、剣がブルーを切り裂くまでに、たどり着くことができないと。
自分はブルーが切り裂かれるのをただ見ているだけしか、できないのか。ギロチンの如く魔物の剣が、ブルーの頭に向かって振り下ろされた。
ガーフは目を見開いた。ブルーの眼の前で、振り下ろされるはずの剣が止まっていた。ガーフは時間が止まったのだろうか、と本気で思った。
けれど、風が吹き木の葉を揺らしている。
雲が流れている。
鳥が空を飛んでいる。
自分は動いている。
今起きている現象を、ガーフは飲み込めていなかった。
ブルーの口が動いていた。魔物と何かを話している……?
いや、違う耳を澄ませ、ガーフはブルーの口を読んだ。
間違いなかった。パセリ、セージ、ローズマリーとタイムと唱えていた。祖母から教わったという、呪文を唱えていた。
けれど、どうして、魔物の動きが止まっているのだろうか……。考えられる可能性はただ一つ。ブルーが唱える、呪文が魔物の動きを止めているのだ。
魔物は苦しむように、体をのけぞらせもがいた。その姿は、もう一人の自分と戦っているかのように見えた。剣を振りまわし、魔物は戦っていた。
けれど、長くは続かなかった。魔物は何事もなかったように、ブルーに再び向き直る。神が自分に与えてくれた、奇跡に感謝しガーフは駆けだした。
魔物は今までの葛藤が嘘だったかのように、平然と剣を振り上げた。
ガーフは剣を抜いた。
魔物が剣を振り下ろした。
刹那――。
稲妻にも似た閃光が、薄暗い森を一瞬昼間のように照らし出した。遅れて、雷鳴にも似た轟音が空気を震わせ、鼓膜をゆする。魔物の一撃を、ガーフは受け止めた。
とてつもない力だった。両手で支えなければ、地面に埋め込まれてしまいそうだ。魔物の剣が目の前で輝き、血を欲するように乾いていた。
ガーフは柄を握りしめ、二の腕の筋力を酷使する。大木に斧を振りかぶるように、ガーフは魔物の剣を弾き飛ばす。魔物は危険を察知し、背後に飛びのく。
「ガーフ……どうして……ここに……?」
背後から、ブルーの怯え切った声が聞こえた。
声がつっかえ、途切れ途切れのくぐもった声。
ガーフは安心させるように、優しく微笑み、慈悲に満ちた声で答えた。
「助けに参りました」
まだ信じられないと言うように、ブルーはずんぐり目でガーフを見上げる。
「どうして、ここがわかったの……?」
「ラックくんとジニアくんが教えてくれました」
魔物が剣をだらんと垂らし、ゆっくりと確かな足取りで近づいて来る。
「ブルーくん。私の背後から動かないでください」
「どうするつもり……逃げなきゃダメだ。ガーフでも……奴に敵うはずないよ……。殺されちゃうよ……」
ブルーは必死に逃げるように説いた。けれど頑としてガーフは逃げ出さない。このままでは、ガーフまで殺されてしまう……。自分のせいで、ガーフを危険な眼に遭わせてしまった……。
ブルーは後悔の念で押しつぶされそうだった。
大地をも揺るがしかねないほどに緊張した、
ガーフは魔物の剣を柔らかく受け止め、威力を削いだ。
ガーフの動作には一片も無駄がなく、洗礼されていた。
魔物が剣を右へ左へ、切りかかる。
ガーフは押されながらも、剣をすべて弾いていた。
鉄の重い剣をまるで小枝のように、扱っていた。剣同士がぶつかり、閃光が薄暗い森にほとばしる。ガーフは隙とも取れない、些細な隙をつき足蹴りで魔物の足を払う。
魔物の黒いマントがひらりとなびき、手ごたえはない。紙一重で魔物は背後に飛びのいていた。ガーフは押されてなどいなかった。くるりと小さな満月を描くように、剣を回転させて今度はガーフが切りかかる。
残像が残るほどの速度で、ガーフは剣を四方八方から、繰り出した。
包帯が巻かれている、魔物の腕の筋肉が盛り上がる。
ガーフが繰り出した、剣の残像が十字を描き魔物の黒いローブを切り裂く。
ブルーは自分が見ている光景が、現実だとは思えなかった。
魔物をガーフが押している。ガーフはいったい何者なのだろうか。二人の戦いは人間の域を超えた領域にまで達していた。
「将軍は兵士に殺せと命じる――。将軍は私に殺せと命じる――」
これだけ激しく動きながらも、魔物の声は平坦で疲労の色どころか、生命すら感じさせない。
「将軍?」
魔物とガーフはつばぜり合いの恰好で、硬直した。
「あなたは戦争で亡くなった方ですか?」
ガーフは問うた。けれど、言葉の通じぬ獣のように、魔物は一方的に、呪文のように繰り返す。
「紅の大軍に砲声が燃え上がる。将軍は兵士に殺せと命じる」
魔物は、とうに忘れ去られた、大義の下で戦っているのだ。
もう、戦争はとうに終わったのに……。
「もう、戦争は終わりました……。もう、戦わなくていいのですッ」
目深にかぶったフードが濃い影をつくり、魔物の顔は見えなかった。
「もう、争わなくていいのですっ。やめましょう……。もう、解放されたのです……」
魔物は護るべき者のために戦っている。
つばぜり合いのさなか、ガーフは魔物の左手薬指にキラリと光るものを見た。指輪だ。ガーフは魔物が付けている、エンゲージリングと似たものをどこかで見ていた。
「紅の大軍に砲声が燃え上がる」
魔物は一歩身を引いた。
何かに気を取られていたのか、力んでいたガーフの体は、支えるものを失った棒っ切れのように、前によろめいた。その隙をつき、魔物は剣を翻し、突きを放つ。時間が止まったかのように、その光景はゆっくりと、けれど確実に、動いている――。
魔物の剣が、ガーフの懐にもぐる。
今の体勢では、いかなガーフでも回避することはできない……。
世界から色が失ったように、ほとばしる流血は灰色だった。
ガーフの腹に魔物の剣が深々と、突き刺さる。
「ガーフッ――――!」
ブルーの悲鳴にも似た叫びが、森の大気を裂くように響き渡った――。
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