第二話 航海中

「今日も一日なにごともなく無事に航海できますように!」


 部屋から出て食堂に向かう途中、まつってある神棚の前で手を合わせる。


 ここに配属されてきた当初、最新鋭の護衛艦の中に神棚があるなんてと驚いたものだ。だが、意外なことに乗艦している人間も、ゲン担ぎなどを信じる者が多く、俺のように毎日ここで手を合わせている隊員も少なくない。


「お、なんだ、波多野はたの。朝から熱心だな、ずいぶんと信心深いじゃないか」


 手を合わせていると、先任伍長の清原きよはら海曹長に声をかけられた。


「おはようございます!」


 その声に姿勢を正して敬礼をする。上官の顔を見たら、なにはともあれ敬礼だ。このことは今ではすっかり体にしみこんでいて、意識しなくても勝手に体が動いた。そんな俺を見て清原海曹長はニヤッと笑う。


「おう、おはよう。敬礼もさまになってきたな」

「ありがとうございます!」


 みむろは歴代艦長の影響もあってか、なぜか他より乗組員の間で家族的な空気が流れているふねだった。だがそこは海上自衛隊の護衛艦、それはそれ、これはこれ、だ。相手が艦内の規律に目を光らせている先任伍長ならなおのこと。しかも、清原曹長の口癖は『みむろ歴代艦長に恥をかかせるつもりか』なのだ。


―― きっと前に乗っていた護衛艦でも、同じこと言ってたんだろうなあ…… ――


 それだけ清原曹長が、それぞれの護衛艦の艦長に敬意をはらっているということなんだろう。


「毎日ちゃんと神棚に手を合わせることはいいことだ」

「祖父の家にも神棚があるんですよ。遊びに行ったらいつも手を合わせて拝んでいるせいか、やらないと気持ちが落ち着かないんです。おがみ忘れた時になにか起きたら、ずっと気に病みそうですし」

「なんだそりゃ。えらく神経質だな」


 俺の言葉に清原曹長は笑った。


「そうでしょうか。そういう曹長はどうなんですか?」

「俺? 俺はまあ、そうだな、やっぱり朝一ここで手を合わせないと落ち着かないかもな」


 そう言って俺の横に立つと、パンパンと大きな音をさせて柏手をうつ。そして神棚に向かって一礼する。


「人のこと言えませんよね?」

「ま、護衛艦乗りなら全員そうなんじゃないか?」

「たしかに」


 たいていの護衛艦と潜水艦では、艦長と先任伍長、それぞれの分隊の責任者が年に一度、神社で航海安全を祈祷きとうしてもらいお札をいただいていた。そしてそのお札を神棚にまつっているのだ。宇宙軍を設立するなんて話がある時代になんて古風なしきたりなんだろう。だがそんな習慣も、今では実に海上自衛隊らしいと思えるようになっていた。


 食堂に行くと、自分と同じ時期に教育訓練でみむろに配属されてきた海士長が、朝飯を前に青い顔をして固まっているのに気がついた。


「おはよう。大丈夫か?」


 食事をトレーに盛りつけると、そいつの前に座る。


「おはようございます。ぜんぜん大丈夫じゃないっすよ、もー死にそうです」


 俺の問いかけに顔を上げたのは、砲雷科に所属している比良ひら海士長。階級は同じだったが、俺が一つ年上なせいか律儀りちぎに敬語を使ってくる生真面目きまじめなヤツだ。


「もしかして船酔い?」

「もしかしなくても船酔いです」


 青い顔をしながらうなづく。


「昨晩はちょっと波が高かったもんなあ」

「ちょっとなんてもんじゃないっすよ。当直中に吐きそうになりました……」

「大丈夫なのかよ、今も吐きそうな顔してるぞ?」


 俺の指摘に、力なく比良はアハハと笑った。


「酔い止めをもらって飲んだので、随分とマシなんです、これでも」

「そうなのか? まあでも酔い止めの薬が飲めてラッキーじゃないか」

「砲雷長の藤原三佐が優しい人で助かりましたよ。そうでなかったら、今頃どうなっていたことやら。考えたくありません」


 そう言いながらチビチビとパックの牛乳を飲んでいる。


「かなりまいってるみたいだな。こういう時って、牛乳より炭酸系の飲み物のほうが良いらしいぞ?」

「そうなんですか? 逆に胃が刺激されて、とんでもないことになりそうな気がするけど」

「胃がスキッとしてムカムカが消えるらしい」

「そうなんですか。いま自販機で買って飲んでも大丈夫っすかね」


 その質問に、少し離れたテーブルに座った清原曹長の顔をうかがった。どうせ地獄耳の先任伍長のことだ、今の俺達の会話もしっかり聞いていたに違いない。俺と目が合うと案の定だったようで、かすかにうなづいてみせた。


「問題ないだろ。今は飯を食ってる時間だし、そのまま吐きそうになりながら一日すごすよりマシなんじゃないか?」

「ですよねえ……ちょっと買ってきます」

「おう、行ってら」


 比良が席を立ったところで朝飯に取りかかった。


―― しかし、護衛艦乗りを目指しているのに船酔いだなんて大変だな、比良のやつ…… ――


 今の状態であれなのだ。これが本格的に時化しけた時はどうするつもりなんだろう。そりゃまあ、悪天候の中を出航するなんてことはそうそうあることではないんだが。


―― あいつのためにも当分はいだ状態だと良いんだけどな…… ――


 そして牛乳を飲んでいるところで、出港時に感じた足の甲になにかが乗る感触を感じた。


「?」


 テーブルの下をのぞく。今このテーブルについているのは俺だけだ。だから誰かが悪ふざけして足を踏んでいるということもない。床にはなにも転がっていないし、なにかが足の上に落ちたわけでもなさそうだ。


―― なんだろうな、この前から…… ――


 プラプラと自分の足を振ってみる。痙攣けいれんをおこしているわけでも、しびれているわけでもなさそうだ。そこへ比良がサイダーの缶を手に戻ってきた。


「どうだ?」

「少なくともムカムカは消えました。炭酸がきつすぎて胃がふくれそうですけど」

「ムカムカが消えただけでもよかったじゃないか」

「そうですね。っていうか、波多野さん。なんで平気な顔してるんですか、今だってこんなに揺れてるじゃないっすか」


 比良が指さしたのはテーブルに置かれたコップ。その水面はパッと見てもわかる程度にゆっくりと揺れていた。つまりそれだけ船体が揺れているということだ。


 ここはすでに外洋。天候がおだやかな日でも、湾内とは比べ物にならないぐらい波が高いのは当然のことだった。それでも今日はまだ穏やかなほうだと思うんだがな。


「そうかな」

「そうかなって……」 

「俺はこういう状態で寝ると、天然のゆりかごで揺られている気分になれて気持ちよく寝られるんだけどな」


 俺としては心地よい毎日なんだが、比良にとってはそうではないらしく、ありえないという顔をされた。


「うらやましいっすよ、そのミラクルな三半規管さんはんきかん持ちの波多野さんが」

「別に俺が特別ってわけじゃないと思うけどなあ……」

「もしかして三半規管さんはんきかんが頭の中で浮いてるとか?」

「俺を宇宙人みたいに言うなよ。普通だろ? これぐらい」

「いやいやいや……どうしたんです? 下になにか?」


 俺がテーブルの下を気にしているのに気づいたのか、首をかしげた。


「んー? なんか出港の時から足に変な違和感を感じてさ」


 とたんに心配そうな顔をする。


「それって俺の船酔いより深刻じゃないですか。医官には診てもらったんですか?」

「いや、痛みとかそういうのじゃなくて、なんいうか……」

「なんていうか?」

「踏まれてる気が」

「は? 俺、踏んでませんよ?」

「そんなことわかってるよ」


 二人でテーブルの下をのぞいた。もちろんそこには床と俺達の足しかない。


「なんだろうな。船酔いほどじゃないけど慣れない環境で緊張してるのかな」

「そんなふうには見えませんけどね」

「それってどういう……?」


 どのへんがそう見えないってことなんだ?


「波多野さんって、何年か前のみむろの先任伍長さん達に会ったのがきっかけで、自衛官になったって話してたじゃないですか。それまでは海自かいじの『か』の字も人生の選択肢には存在しなかったって。とてもそうは見えないってことですよ」

「ずっと目指していたふうに見えるって?」


 比良がうなづく。そして溜め息をついた。


「そうです。それに比べて俺ときたら。小さい頃から護衛艦乗りになりたいって思っていたのに、ただいま船酔いの真っ最中で、人生の目標の危機ってやつですよ」


 その言葉に思わず笑ってしまった。


「笑いごとじゃないっすよ。このまま俺の三半規管さんはんきかんがフラフラしっぱなしだったら本当に人生の目標の危機なんですからね」

「慣れるといいな、お前の三半規管さんはんきかん。神棚に毎日おがんでおくよ、比良海士長が船酔いをしなくなりますようって」

「航海安全の神様にお願いして聞き入れてもらえるといいんですけどねえ……」


 つま先をなにかに押されたような感触に思わず顔をしかめる。


「またですか?」

「まただよ。今度はつま先。あ、いまふくらはぎをなんかこすれた。なんだろうな、この感覚異常。やっぱりストレス?」


 笑いごとじゃないかもしれない。やはり医官に診てもらうべきだろうか?


「踏まれるのは足だけなんですか? たとえば寝ている時に頭を踏まれるとか、お腹を踏まれるとか、耳にフガフガされるとか」

「なんだよ、それ。怖いじゃないか……」


 やけに具体的な例をあげてきたので顔をしかめる。しかも耳にフガフガってなんだよ。


「話を聞いていたら何となく実家の猫を思い出しちゃって。俺が寝ていたら、容赦なくタンスの上からダイブしてきたり、平気で人の上を踏み越えていくんですよ。あと鼻先を耳にくっつけてきてフガフガしたり」

「それは猫だろ? ここには猫なんていないじゃないか」

「じゃあ護衛艦に住みついている幽霊とか?」

「やめろよー、そんな話。今まで一度も聞いたことないだろ、このふねに出るって」


 言っちゃなんだが、俺はその手の話は苦手だ。


「歴史ある海自なんです、一護衛艦に一幽霊ぐらいいてそうじゃないですか」

いてるとか言うなよ。それに、それって学校の怪談系の話じゃ? 一学校に一幽霊ってやつ」


 そう言ったとたんにズボンのすそが引っ張られたような気がした。


「?!」


思わず下を見る。


「どうしました?」

「え……いや……なんでもない」


 なにもあるはずがない足元。


 だが、チラッとだが視界の隅で、ふらふらと揺れているグレーのトラジマの尻尾と、黒い靴のつま先が見えたような気がした。


―― やっぱり疲れてるのかな、俺。それとも寝ぼけてる? ――


 それとも、まさか本当に一護衛艦に一幽霊、なのか?

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