帝国海軍の猫大佐

鏡野ゆう

第一部 航海その1

第一話 出港

 出港合図のラッパが鳴り響く中、力強い『出港用意』の声が艦内放送で流れた。岸壁で見送っている人達は「いってらっしゃい」「体に気をつけて」など思い思いの言葉を投げかけながら、岸から離れていくふねに手を振っている。


波多野はたの、見送りをしている人に手をふらなくても良いのか? 今なら特別にその場を離れる許可をやるぞ?」


 離岸作業を監視していた副長の藤原ふじわら三佐に声をかけられた。


「え? うちの親、今日は来てませんよ、遠方ですし」

「そうじゃなくて、カノジョの見送りはないのかってことだよ」

「カノジョがいたら、夜中まで野郎同士でこそこそゲームなんてしてないでしょ」

「あー、そうだった、こりゃ失礼」


 前を向いたままの副長の口元がニヤッとなる。どうやら、わかってて質問をしたらしい。


「わかってるなら言わないでくださいよ、性格わるいんだから、まったく」

「いや。もしかしたら、出港前に奇跡的にカノジョができたんじゃないかと期待していたんだよ」

「ほとんどの時間を艦内ですごしているのにどうやってつくれと?」

「そりゃそうだ」


「副長、もやい、すべてとかれました」


 船務長の小野おの一尉が副長に知らせてきた。


「了解した。艦長?」


 副長が艦橋横に出ていた艦長の大友おおとも一佐に声をかける。その声に艦長が中に戻ってくると、無線マイクを手にとった。話す相手はふね曳航えいこうしているタグボードだ。


皆本みなもとさん、いつもながら素晴らしいかじとりだな、ありがとう」

『これぐらい俺達にとっては朝飯前ですよ、大友艦長。今回の航海は少し長くなるようですね、航海お気をつけて』


 タグボートから返事が返ってくると、艦長が船務長に目で合図を送る。それに合わせて次の指示が出された。


「タグボートの使用終了。タグのもやいをとけ」


 船務長の指示でタグボートとこちらをつないでいたもやいがとかれた。いよいよ出港だ。


 俺の名前は波多野はたの ゆずる


 海上自衛隊、護衛艦みむろに乗艦している教育訓練中の海士長。今この艦橋の中にいる自衛官の中では最年少で、階級も一番下のヒヨッコ海上自衛官だ。


「いよいよだぞ、波多野海士長。訓練航海中しっかり学ぶように」

「はい!」


 今回の航海訓練は、俺が航海員として参加する初めての航海だった。艦長の言葉にあらためて気持ちを引き締める。




 そんな俺が海上自衛隊に入隊するきっかけになったのは、三年ほど時間をさかのぼったある日のことだった。



+++++



「あ、カレーの匂いがする……」


 そろそろ昼だなと思いつつ、どこか適当な店はないかとキョロキョロしながら自転車のペダルをこいでいると、どこからともなくいい匂いが漂ってきた。これは間違いなくカレーの匂いだ。


 交差点の信号で止まったところで、通りの向こう側に『海上自衛隊☆みむろカレー』のノボリが立っている店を見つけた。匂いのもとはあそこに違いない。


「そうか、ここ、海上自衛隊の基地が近くにあるんだっけ」


 そのノボリの文字を見て自分がどこを走っていたか思い出す。特に自衛隊に興味のない俺でも、海自カレーの存在は知っていた。


「いらっしゃーい」


 店に入ると奥の厨房ちゅうぼうからおばちゃんが出てきた。おお、店中にカレーの匂いが充満している!


「お一人さま?」

「はい。あの、店の横に自転車を止めさせてもらったんですが大丈夫ですか?」


 店の横には三台ほど車が止められるスペースがあった。そこの隅に自転車をとめさせてもらったんだが、荷物を乗せた自転車があると車のに邪魔になるだろうか?と心配になる。


「今日は平日だから大丈夫だと思うけどね。だけど、ねんのために通用口につながる路地に移動してもらおうかな。あそこなら夕方まで私以外は出入りしないから」


 そう言われておばちゃんと一緒に一旦店を出た。荷物がガッツリ積まれた自転車を見て、おばちゃんは目を丸くした。


「もしかして家出中?」

「いえ。高校卒業の記念に自転車で日本縦断中なんです」

「いわゆる自分探しの旅ってやつ?」

「そんなカッコいいもんじゃないですよ。大学受験に失敗したので、浪人生活を開始する前にちょっと本州を回ってみようかなって思いついたもので」


 それを聞いておばちゃんは少しだけ気の毒そうな顔をする。まあ大学受験を失敗したと聞けば、たいていの人間はその反応だよなと思う。


「泊まるところはどうしてるの? もしかしてテントはって野宿でもするの?」

「最近は警察がうるさいので、ちゃんとビジネスホテルや民泊に泊ってます。貯めたバイト代から出してるので、あまり贅沢ぜいたくはできないですけどね」


 それと不審がられて自宅に電話されることもたまにあった。親からすると息子の安否確認ができてちょうど良いと考えているらしく、そのことで文句を言われたことはなかったが。


「それを聞いて安心した。自転車、こっちに移動させてくれる?」

「はい」


 自転車を店の裏口に通じる細い路地に移動させると店にもどった。


「ここ、海上自衛隊の基地に近いんですよね? もっとマニアさん達でごたごたしてると思ってました」

「休日はそんな感じよ。今日は平日だからね、来るのは御近所の常連さんぐらいかな。お兄さんみたいなお客さんのほうが珍しいぐらい。なににする?」

「カレーのいい匂いにつられて立ち寄ったので、このみむろカレーで」

「わかった。好きなところに座ってて。あ、お水は申し訳ないけどセルフサービスね」


 おばちゃんが厨房ちゅうぼうに引っ込むと、給水器の水をグラスにいれて席につく。店内には海自基地近くのお店らしく、護衛艦や潜水艦の写真がところせましと貼られていた。


「はい、どうぞ!」


 しばらくしてトレーが目の前に置かれた。カレーとサラダ、それからフルーツとなぜか紙パックの牛乳。山盛りのごはんには、カレールーがお皿からこぼれそうなぐらいかかっている。


「めっちゃ多くないですか? これで一人前?」

「今日は空いてるからね。自転車こいで走るならたくさん食べて力をつけないと!」


 つまりこの超メガ盛り状態はサービスということらしい。


「いただきます!」


 一口食べた。最初は自分の好みからすると甘口かなと思ったが、後からジワジワと辛さが口の中に広がっていく。これはなかなか癖になりそうな味だ。


「どう?」

「うまいです! 俺、実は海自カレーを食べるの初めてなんです」

「そうなの? かなり名が知れてきたと思ってたけど、そんな人もまだいるんだね」


 おばちゃんが笑った。


「もちろん名前は聞いたことありますよ。だけどこうやって実際に食べるのは初めてです。護衛艦みむろって、ここの近くの基地にいるんですか?」

「そうよ。基本的に地元基地所属の護衛艦や潜水艦のカレーを出すのが決まりなの」

「お店で勝手に出すことができるんですか?」


 俺の質問にとんでもないと首を横にふる。


「もちろん申請はしなくちゃいけないのよ。ほら、ちゃんとみむろで作られているカレーと同じ味にしなきゃいけないでしょ?」

「レシピを教えてもらうんですか?」


 おばちゃんは俺が座っている席の、隣のテーブルのイスに座った。


「それだけじゃないわよ。ちゃんと護衛艦から給養員さんがきて、作り方を指導してくれるの」

「きゅうよういん?」

ふねの中でご飯作りをしている人ね。それから艦長さん達に味見をしてもらって合格したら認定完了。晴れて海自カレーを出すお店になれるというわけ」


 そう言うと、おばちゃんは壁にかけられている額を指さした。そこには認定書と書かれたものが入っている。そしてその隣には、海上自衛隊の制服を着た人と、おばちゃんが写っている写真も飾られていた。どうやらそこに写っている人が護衛艦みむろの艦長らしい。


「へえ……」

「ま、身近なカレーをきっかけに、海上自衛隊のことを知りたいって思う人が増えて、さらには海上自衛官になりたいって人が増えれば、大成功ってことなのかしらね。どう? 大学に行くだけが人生じゃないわよ? それに入隊したらいろんな資格もとれるし」

「いやあ、どうかな……俺、そこまで体力に自信ないし」


「お? おばちゃん、店がヒマだからってナンパの最中?」


 店のドアが開いて客が何人か入ってきた。入ってきたのは自衛隊の制服を着た人達だった。


「なんてこと言うの。あんた達のかわりにリクルート活動をしてるところよ。ねえ、入隊したらいろんな資格、とれるのよね?」


 おばちゃんの質問に一番先に入ってきた人がニカッと笑ってうなづく。


「陸自ほどじゃないがそれなりにとれるぞー」


 なぜかその人達はニコニコしながら俺を取り囲むと、海上自衛隊に入隊したら取得できるらしい資格をあげはじめた。


 そして後に、この中の一人が当時の護衛艦みむろの先任伍長だったと知ることになる。



+++++



 まあ入隊するきっかけとしては、かなりいい加減な話だというのは自覚している。


 そして入隊した俺を想像以上に厳しい訓練生活が待っていた。今までの生活とは違う、初めてのことばかりで戸惑うことも多かった。だが今は入隊したことを後悔していない。




 陸地がどんどん離れていくのを横目に、俺は指導教官である航海長の山部やまべ一尉の横で双眼鏡をのぞいていた。


 この基地は湾内の奥まった場所にあるせいで、外洋に出るまで様々な船とすれ違うことが多い。進路上に他の船がいないかどうかの確認は、航海士として大事な任務の一つだった。そして今、このふねの目を担っているのが山部一尉と俺だ。教育訓練中とはいえ、ゆるい気持ちで任務のぞむことは許されない……んだが。


「ん?」


 なにかが足の上に乗った気がして、思わず足元を見おろした。


「どうした?」


 横に立っていた航海長が双眼鏡でまっすぐ前を見据えたまま声をかけてくる。


「いえ。今なにか足の上に乗った気が」

「俺は踏んでないぞ」

「ですよね」

「待て。それは俺の足が短いと言いたいのか?」

「そんなこと言ってません。……?」


 さらに足の甲を押されたような気がして下をのぞきこむ。


「気のせいかな……」

「おい、よそ見をするな。ちゃんと前方を見ろ。もちろん前だけじゃないぞ、見える範囲はしっかりカバーすることを心掛けろ。ふねは急には止まれないんだからな」

「はい、すみません」


 その間も足元で妙な感覚が続いていたが、無理やりその感覚を頭から追い出すと前方の監視にもどった。

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