第三話 航海中 2
「どうした、波多野。浮かない顔をしてるな」
通路を歩いていると声をかけられた。そこにいたのは
「あの、お尋ねしますが、こんな場所で、なにをなさっているのでしょうか」
伊勢曹長は、なぜかそこで
「見てのとおり、筋トレだ。知っているか? ここ最近、海自隊員の体力低下が問題になっているそうだ」
「自分が聞きたいのはそこではなくて、どうしてそんな場所で、
みむろには、狭いながらも隊員のためのトレーニングルームが確保されていた。この手のことをするのであれば、あの部屋が適しているはずなのだ。こんな場所で筋トレだなんて、どう考えてもおかしい。
「今、あそこは部下達が使っている。頭の俺がいたら、リラックスしてトレーニングができないだろ?」
この場合の〝部下〟とは砲雷科に所属している隊員のことではなく、
だからと言って、階段下で筋トレをするのはどうなんだって話だが。
「だからって筋トレをそこでしますか、普通。それと曹長は今、夜時間で就寝しているはずの時間では?」
「勤務時間中に、こんなところでこんなことをしていたら、それこそ大問題だろ」
少なくとも〝こんなところで〟〝こんなこと〟は曹長も自覚しているらしい。
「場所については甲板に出たいんだがな。今夜は波が高いから、暗いうちは甲板に出ないでくれと言われた。だからここで筋トレ中というわけだ。艦内あっちこっちで試してみたが、ここの階段の高さがちょうどいいんだ」
「いろんな場所で試したんですか」
「ああ、試してみた。艦長からは、往来の邪魔にならない限り、問題ないと言われているから心配無用だ」
そう言うとニヤリと笑う。
「まさかの艦長公認……」
あの艦長のことだ、伊勢曹長の言い分を聞いて、笑いながら許可を出したんだろうなと想像がついた。本当にここは、あきれるぐらい自由度の高い
「それで? 俺のことはともかく、お前が浮かない顔をしているのはどうしてなんだ? もしかして、艦橋でなにかやらかしたのか?」
「いえ、別になにもやらかしていないですよ。……今のところは」
指導教官の
「だったら、どうしてそんな顔をしている?」
「そんな顔とはどんな顔でしょうか」
「そうだな、しいて言えば……海にいきなり放り込まれた
「どんな顔ですか、それ……」
伊勢曹長は俺の言葉に笑った。だが、ここまで言われるということは、よっぽど俺はひどい顔をしているらしい。
「悩みを解決してやれるかどうかはわからんが、話ぐらいなら筋トレしながらでも聞いてやれるぞ?」
「筋トレをやめて聞くという選択肢は……」
「ない」
キッパリと即答されてしまった。
「ないんですか」
「ああ、ない」
「……」
話をしたら、熱でもあるんじゃないかって笑われるかもしれないな。
だが、一人でずっと抱えこんでいるのも考えものだ。ここは誰かに話して、スッキリしておくべきなのかもしれない。たとえ頭がおかしくなったのかと笑われたとしても。
「……あの、伊勢曹長は海自生活、長いんですよね?」
「長いと言ってもまだ十年ぐらいだぞ。海自の歴史を知りたいなら、俺より
「自分に比べたら、十年だってじゅうぶんに長いですよ」
「それで? 聞きたいことというのは? 俺の隊歴を知りたいわけじゃないんだよな?」
「ああ、そうでした。護衛艦にですね、猫をこっそり飼っていたという話を、聞いたことありますか?」
「は? なにを飼ってるって?」
「猫です」
伊勢曹長は俺の顔を見て、
「昔の船乗りは、航海の守り神として猫を乗せていたという話は聞いたことがある。始まりは、
「それは俺も聞いたことがあります」
「あとは、南極観測船に猫を乗せたとかな。民間の商船がどうかは知らんが、少なくとも今の護衛艦で、そんな話は聞いたことがないな」
「ですよねえ……」
艦内への私物の持ち込みは、厳しく制限されている。そんな状態で猫をつれこめるはずがない。万が一そんなことがあったとして、今の今まで誰も気がつかないわけがないのだ。
「まさか、誰かが猫をつれこんでいるのか?」
「いえ、そうじゃなくて……その、猫を見たような気がしたんですよ」
「誰が?」
「俺が、です。最初は艦橋で足を踏まれて、今日は食堂で朝飯を食ってる時に足を踏まれました。それと、灰色のトラジマの尻尾が見えたような気が……」
あと、人間の靴先も見えたような気がしたが、それは言わないほうが良いような気がしてやめておく。
「つまり、誰かが猫をつれこんだ可能性があるということなんだろ?」
「いえ、その、ちょっと違うんですよ……だいたい艦橋に猫がいたら大騒ぎじゃないですか」
「まあ、たしかに。じゃあなんなんだ」
「ですから、なんて言うか……現われたり消えたりできる猫なんですよ。えっと、透明人間ならぬ透明猫?」
伊勢曹長の手が俺のおでこにあてられた。
「熱なんてないですよ」
「本人が気がつかないまま、高熱を出しているということもある。そのせいで幻覚でも見た可能性を考えた」
当然のことながら、今の俺は熱なんて出していないし、健康体そのものだ。
「俺は健康そのものですよ」
「だが幻覚が見えたんだろ? かなりはっきり」
「それだけじゃないんですよ。足になにかがまとわりつくのを感じたり、ズボンの
曹長が頭の上の階段を見あげたので、思わずツッコミを入れる。
「人の五感は、不可解なことが起きることも多いらしい。たとえば、失くしたはずの腕や足に痛みやかゆみを感じたりな」
「
「つまり、この
「というより
あの靴のことを考えると、
「自衛隊がらみの怪談はよく耳にするが、
「俺だって初耳ですよ」
曹長はもう一度、俺のおでこに手をあてる。
「ですから熱なんてありませんて」
「だよなあ……」
うなづきながら、今度は自分のおでこに手をあてた。
「俺は曹長の幻覚じゃありませんよ」
「だよなあ……」
+++++
笑われることはなかったが、結局その猫の正体はわからずじまいで、モヤモヤが晴れることはなかった。
モヤモヤを抱えたままその日の業務を終え部屋に戻ると、同室の
「ワッチ、お疲れ様です、先輩」
「おう。波多野もお疲れ。今夜は勉強会は良いのか?」
「さっき終わったところです。何人かが当直に入るので、今日は早めに店じまいしました」
みむろには、俺と同じように訓練中の海士長が何名かいた。部署はそれぞれ違うのだが、一日の終わりに可能な限り集まって、その日のことを全員で話し合い、教官に言われたことなどの情報を共有しているのだ。
今日は早く終わって正直ホッとしていた。というのも、足を踏まれる感覚が
「お前は早朝からなんだよな、うっかり寝すごすなよ?」
「先輩が帰ってきたら、ベッドを蹴って起こしてくれるんですよね?」
「俺をあてにしてどうするんだよ。さっさと寝てさっさと起きろ。じゃあ行ってくる」
「行ってらっしゃい」
艦橋に向かう三曹を見送ってから部屋に入った。今夜は、少なくとも数時間は一人でゆっくり寝られる日だ。紀野三曹が苦手というわけではなかったが、寝るだけでも、一人ですごす時間ができたのはありがたかった。
「?!」
部屋に入ってから目の前の光景を見て、慌てて外に出る。ドアを閉めてから、自分に落ち着けと言い聞かせた。
「……いま、なにかいたよな」
どう考えても、部屋にいるはずのないものがいた。しかも俺のベッドの上に。
「まさか俺、もう部屋で寝ているとか?」
自分の頬を思いっ切りはたいてみる。もちろん痛い。当然だ、俺は寝てなんていないんだから。念のためにおでこに手をあててみる。もちろん平熱だった。
「ってことは見えたものは現実ってことだ。落ち着け、俺。もしかしたら、枕を見間違えたのかもしれないじゃないか」
……灰色のトラジマ枕なんて一度も見たことないけどな。
深呼吸をすると、覚悟を決めてドアを開けて部屋に入る。
「……いる」
あれはどう考えても枕じゃない。俺が寝るはずの場所に、灰色のトラジマ模様の猫がちんまりとすわり、こっちをジッと見詰めていた。
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