第77話

「えっ?」

 短い声が喉を突いて出る。

 香川はそんな俺の疑問を察して補足に入った。


「とにかくイジメをやっていた男は怖いぐらい人間の心を掌握するのが上手いヤツで外向きの評価と内向きにやっていることが全然違う――悪魔のような男子だった」


 香川の全身がブルッと震えた。

 それは体温の低下によるものだけじゃなく、記憶を読み返したことで恐怖を思い出したからに見えた。


「言っておくけど結衣と付き合っていた彼氏はあーしの幼馴染で小学生のときに付き合っていたっていうだけだから。泥沼の愛憎劇があったわけでもないし、ましてやそれが自殺の原因や私がイジメの加害者の言いなりになったわけでもないから。それだけは絶対に勘違いしないでよ」


「……わかった」

「異物に容赦なく攻撃を加える排他性って言うの? まあ難しい言葉はよくわかんないけど、友人を庇うという正しい行いをしたはずの幼馴染はAの標的になってしまったわけ」

「いわゆる空気による支配ってやつか。俺はそれが読めずにいつも浮いていたからよくわからないけど、イジメがタチの悪い性質を帯びていることは、まあわかるよ」


「あんたほんっっっっといつも浮いてたもんね」

 そんな溜めるほど浮いてたのかよ。まあ学生生活ほとんどボッチだったことが何よりの証拠だろう。今こうしてリア充である香川とまともに会話できていること自体、奇跡だとも言える。


「イジメの標的が元カレ――当時は結衣の彼氏に移ったとき、あーしが一番焦ったことはなんだと思う?」


「大原とその幼馴染が付き合っていることが明るみに出て、彼女にもイジメの矢が立つことか?」


「そっ。結衣のことを本当にマブダチだと思っていたからさ、絶対に飛び火させたくなかったわけ。かといってイジメていた男は教師からの信頼も厚くて、彼が真犯人だとたどり着くまでに何枚もの壁があったように見えた。あーしの幼馴染はあの結衣が惹かれるだけあって、結構頭がキレるやつでさ。抵抗すれば抵抗するだけAを楽しませるだけだってわかってた。幼馴染とは隠れて色々策を一緒に考えてたんだけど、結局良い案も思い浮かばないまま。あーしじゃ全然脳みそが足りなかったみたい。そうこうしているうちに、Aからあいつを無視するよう指示が出たわ。男子だけじゃなく女子もそうしろと。緘口令ってやつね。それをこっそり幼馴染に相談したらビックリするような提案が返ってきた」


「……Aの命令通り、女子ヒエラルキーの上に立つお前に緘口令を引かせたわけか」

「そっ。今思い返してみてもゾッとするけど、当時のクラスは異様な雰囲気に包まれてたわ。Aの言うことは絶対。逆らえば死。ただの中学生なのに悪い王様みたい。だからあいつはその命令に逆らうことを是と承認しなかった。無視すれば今度はあーしに飛び火するからって」


「……」

 なんて声をかければいいか分からなかった。

 ただAという人物に底知れぬ恐怖を覚える自分がいたことだけは事実だった。

 おそらくこの事件が大原結衣という女を変貌させるきっかけとなったのだろうが、それにしても彼女を差し置いてクラスを支配したというAの掌握術が怖くて仕方がなかった。


「幼馴染なのに――結衣の初めてできた彼氏なのに、それを聞いて私、どう思ったと思う田村?」


 そう言って俺を見つめてくる香川は複雑な感情を目の奥に滲ませていた。


「安心したの。Aの命令に逆らわなくていいんだ。これであーしも結衣もイジメられることはなくなったんだって。だってそう願ったのは他ならぬ幼馴染なんだからって。最低。弱い人間だよねあーしって」

 

 そんなことはない。とは言えなかった。

 言ってはならない気がした。

 それが過ちであったことは他らならぬ香川自身がすでに理解しているからだ。


 イジメというタチの悪い犯罪は傍観者も同罪だと思う。

 俺もクラスメイトから露骨な嫌がらせを受けてきた。

 だからこう思わずにはいられなかった。どうして誰も手を差し伸べてくれないんだって。


 自力で這い上がれないお前が悪い?

 本当にそうだろうか。

 困った人間、虐げられている人間が目の前にいるにも拘らず見て見ぬふりをする。

 それを平然と、簡単にやってのけてしまう人間の気持ちが俺には分からない。理解できない。もちろんイジメという火の粉が自分に降りかかってしまうんじゃないと恐怖を覚えるのはわかる。けれど我が身だけなのか。人間の思いやりや繋がりなんてしょせんそんなものなのか。俺にはいまだにその答えを導き出せないでいた。


 きっとそれは医者になってから、一生かけて問い詰めていくことになるんだろう。


「それを大原には――いや、あれだけの殺意だ。明かしてはいないか。それとも明かせなかったのか?」


「あいつは自分がイジメられているのに最後まで幼馴染のあーしと彼女の結衣のことを心配してた。だから結衣に別れを告げることも、女子に無視するよう緘口令を引かせるのもすっごく苦しそうで。でも結衣にだけは絶対に隠し通してくれと、それだけは絶対に守り通してくれとお願いされたわ。多分、田村が最初に抱いていた結衣の印象って気弱な一歩引いた感じの女の子だったんじゃない?」


「ああ」と俺。

 全くその通りだ。それがよもやあんな本性を隠し持っているなんて誰が想像できる。


「けど結衣はああ見えて小さいころからちゃんと芯がある女の子だった。だから幼馴染の思惑を知ったら絶対に止めにかかるってわかっていた。彼もそれを理解していたからこそ絶対に隠し通すように念を何回も押されたわ。不登校になって籠城するから――結衣とは会えなくなるから。後は任せたぞって、言われて。彼が自ら命をたったのはそれからすぐのことだったわ。あまりに突然だった。強がっていたのか、孤独だったのか、未来に希望が持てなかったのか、取り返しのつかない事態に眠れない夜が続いた末の決断だったのか。今となっては彼以外に分からない」


 聞かなければ良かったと、真相を知らなければよかったと、香川が目に涙を浮かべながら――鼻声混じりに言う姿も見て俺はそう思った。


 どうして明確な悪が存在しないのか。

 どうしてこいつだけが悪い、と思わせてくれないのか。

 そんな思考がぐるぐると脳内を駆け回る。


「当然だけと目覚めは最悪だったわ。後悔に罪悪感、情けなさや弱さ、最低な自分に対する嫌悪と失望、喪失感。私は悪くないという現実逃避に親友を守るためだったという自己防衛。そういうものがごちゃ混ぜになった。気分が悪くて何度も吐いたわ。けど人間ってそういう一言では表現できない感情にさえ慣れてしまう。時間が経てば薄れていってしまう。気が付けばあーしはやっぱり空気に逆らわない、何一つ反省していない生活を送ってた、それを結衣に殺されかけてようやく思い知ったわ。あのとき本当に死ぬべきだったのはあーしだったのかも」


「……それだけか?」

「えっ?」

「言いたいことはそれだけかって聞いたんだ」


 気が付けば俺は胸に怒りを抱いていた。

 そのベクトルはさまざまだ。

 秘密を暴露し、楽になろうとしている香川、何も知らずに彼女を殺そうとした大原、その当時、イジメをしていたAはもちろん、傍観者を含めて関係者全員、さらに自ら命をたった彼を守れなかった友人をはじめ、両親や教師、みんな全員クソッたればっかだ!


 けれどこれではっきりしたことも一つあった。

 それは香川と大原にはもう一つの命があるということ。香川の幼馴染で大原の彼氏だった彼の命が二人の肩に乗っている。

 自ら命を絶つことを弱い人間だと馬鹿にする心許ない大人がいるが、医者を目指す俺はそうは思わない。


 この世界との接点を自分で断線するにはとてつもない勇気がいる。まして、二人の女の子を守るために不利な役回りに徹した彼は称賛されるべき、勇気ある人間だ。


 少なくとも静観を決め込み、今ものうのうと思い返すこともなく生きている連中や外面に騙されてイジメを防ぐことができなかった教師よりはよっぽど尊敬に値する。

 だからこそ死んでも絶対にやり遂げたい野望が湧いていて。


 彼女たち二人を守ろうとした彼の意志を絶対に無駄にさせたくなくて。

 たとえ香川が泣き喚こうが、大原が許さまいが、必ずこの二人を和解させる――少なくとも殺す、殺される関係ではいさせない。


 でなければ彼がいたたまれない。

「香川、覚悟しておけよ。俺とお前は絶対にここから生きて出る。そして必ず大原に全てを打ち明かしてもらう。絶対だ!」


「なんであんたの方が泣いてんのよ……バカじゃないの。でも、うん。もう一度会ってちゃんと全部話してみる。それでもまだ結衣が私を許せなかったらそのときは覚悟を決めるわ」


 香川も腹をくくったようようだった。

 だが、俺は殺させるつもりは微塵もない。それは香川自身が大切というより、二人を想って天国に旅だった彼が報われないからだ。


 今度こそ終わらせる。この無駄な殺し合いを。無駄な憎悪を。絶対に。

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