第78話

「ごめん田村。あんまりあんたの手を煩わせたくないんだけど、一つだけ告白していい……かな?」

「なんだ、どうした⁉︎ つまらない遠慮はするなよ。むしろ変に隠されてあとで真実を知ることになる方がごめんだ。言ってくれ」


 身体を温め終えて鍾乳洞を探索することになってから二時間程度が経過した頃だろうか。

 俺は探索してから内心で秒数をカウントしていた。ちょうど今が7,200秒。むろん誤差は少なからずあるだろうが、三十分以上の差はないだろう。


 時間からしても何かしら身体に不調が出てもおかしくない。その証拠に俺も喉に痛みが出始めている。

 生物学上、メスは我慢強い生き物だ。本当は心身ともにずっと辛抱していた、なんてことはザラにある。


 仮にも医者を目指している俺からすれば、何か異変を感じたらすぐに報告してもらえる方がありがたい。

 無人島というただでさえ資源が限られている中で事前に対策するのとしないのでは雲泥の差だ。

 もちろん、報告してもらったところで医者でもないお前に何ができると言われれば反論の余地はないけどな。


「……たの」

「えっ?」

 香川は俺のシャツをつまみ、俯きながら言う。小声だったせいで聞き取れなかった。


「だから……いたの!」

「どうした香川……まさかお前、声が⁉︎」

 黒石の顔が脳に浮かぶ。彼女もショッキングな現実に流暢な声と言葉を失った女の子だ。

 親友に殺されかけて、冷たくて暗い海水を潜水し、さらに出口があるかどうか分からない鍾乳洞を歩き続ける不安。


 吃音症になる要素は十分過ぎるほどある。

 そんな不安を胸に抱く俺だったが、

「だから喉が渇いたって言ってんの! 何度も言わせんなし!」


「……は?」

 一瞬何を言われたのか分からなくなり、頭が真っ白になってしまう。

 だが、彼女の言葉をゆっくり反芻し理解し始めると、俺は胸を撫で下ろしていた。

「なんだそんなことか……驚かさないでくれよ」

「いやだって、あんただっていっぱいいっぱいだろうし、周りは海水だらけじゃん? そんな状況であーしが水を飲みたいなんて言ったら普通イラつくとこでしょ? なんで安心してんのよ」


 俺はその言葉を聞いたとき、互いの認識が大きくすれ違っていることを直感した。

 たしかに俺は現時点で安全な水を確保する術がない。

 とはいえ、飲み水を要求されたぐらいで面倒くさいとは思わない。どうにかして得られないかと思考を回転させるのも一興だ。


 たぶん香川は一方的にもたれかかることに罪悪感を覚えて切り出しにくかったんだろう。

「ルールを決めておこう香川」

「はい?」

「頼りないかもしれないが、俺たちは二人きりでこの鍾乳洞から脱出を試みることになる。遠慮はナシで行こう。その方が助かる」


「遠慮はナシって……」

「特に身体の異変を感じたらすぐに報告して欲しい。異性に言いずらい気持ちも十分承知しているが、今は生きて帰るのが最優先事項だ」

「なにそれ。医者にでもなったつもり? 別にあーしのことは気にしなくて――」


「――ダメだ」

 いまいち俺の言葉に重さが伝わっていないとかんじとった俺は無意識に彼女の両肩に手を乗せていた。


 本気で言っていることを理解させるため、まっすぐ香川の目を見据える。

 俺にまだ気を使っているのか、信用しきれていないのか、それともこれまで俺にしてきた仕打ちに罪悪感を覚え始めているのか。


 それは彼女にしかわかり得ないことだ。

「ちょっ、痛いって田村」

「あっ、悪い。そのっ、お前には言ってなかったが俺は医者を目指しているんだよ。もちろんただの志望者に過ぎないが、知識にはそれなりに自信がある。もしかしたら香川にしてあげられることもあるかもしれない。この際、過去のいざこざはなかったことにしよう。俺たちはこの鍾乳洞でたまたま出会った高校生。手を携え協力していく仲。オーケイ?」


 そう言って握手を求めるように手を伸ばす俺。

 たぶんこういうのが空気読めてない、とかダサいと思われるんだろうが、どうでもよくなっていた。結局、他人の評価を気にしていたら何もできない。


 だったら俺は俺らしくありたい。

「別に頼りないとは思ってないから」

「ん?」

「だから頼りないなんて思ってないってんの! 恥ずいから何度も言わせんな!」

「おっ、おう……!」


 俺の手をパチっと叩く香川。

 やっぱり気に入らないことをしでかしたかなと手を引っ込めようとしたし瞬間、あの香川が俺の手を握り返してくれた。

 錯覚なんだろうが、手の温もり以上の温かい何かが胸に流れて込んでくる。


 なんだかんだ嬉しいだろう。

 いがみ合っていた相手と和解、協力できるようになったことが。

 できることなら上村や中村ともこんな気持ちになれたら――。

 そんな叶わない思考が俺の脳を掠めた。


 ☆


 鍾乳洞はどのようにして出来上がるのか。

 俺は飲み水を得る方法を脳内で検索をしながら思い出していた。


 そもそも鍾乳洞は石灰岩が溶けて出来た洞窟だ。

 地面に降った雨水が地下水となり浸食し、数万年という長い年月を経て形成される。


 あれ、ちょっと待てよ……。

 鍾乳洞の水ってミネラルが豊富で販売されていなかったか? 石灰岩を溶かしているから中性じゃなくアルカリ性だが、飲めるはず。衛生上の問題は沸騰消毒でリスクを抑えれば――。


 俺は歩みを止めてぐるりと周囲を見渡す。

 鍾乳洞の壁に目を凝らして雨水が滴り落ちているところがないか目を凝らしてみる。

 香川にもその胸を伝え、確認してもらったところ、

「見て田村! あんたが言ったような雫が落ちてるわ」


 よし! これで飲み水は確保した!

 すぐさま声のする方向に振り返る。

 香川は浅瀬の海水に足をつけていた。

 きっと滴りおちる雫に意識を取られてずっと見上げていたんだろう。


 見た目によらずアクティブだ。

 そんな彼女の足元に何かが忍び寄っているのが視界に入る。

 白と黒の模様。

 ウネウネと身体をくねらせながら迫るそれはまさしくヘビ。


 ……ウミヘビ⁉︎


「すぐにそこから上がれ香川!」

「はっ? あーしが見つけたんですけど? 横取りする気?」

 香川は揶揄うように笑みを見せてくる。

 少し前までの関係なら決して向けてくれなかった感情の一つだ。

 どうやら足元の脅威に気がついていない様子だった。


 俺は考えるよりも早く駆け出していた。

 彼女のそばに疾走し、すぐに腕を引っ張る。

「ちょっ、なにすんのよ!」

「ウミヘビだ! すぐに上がれ!」

「えっ?」


 突然のことに身体が硬直する香川。

 ウミヘビを知らないのか、それとも俺の様子が急変したことに頭の整理が追いついていないのか。

 いずれにしても猛毒を持つコブラの仲間であることなど夢にも思っていないだろう。

 頭の片隅に海水に足を入れないように注意しなければいけないとあるものの、香川のアクションが止まったことに焦ってしまった俺は無意識に右足が浸かってしまっていた。


 そのおかげで彼女との距離が近くなり強引に抱き寄せることができた。

 急いで海水から足を上げようとしたちょうどそのときだった。

「痛っ……!」

 噛みつかれたかのような痛みが足首あたりに走る。噛んだまま離さないそいつを近くにあった岩で叩きつけ、強引に引き剥がす。

 そこにはしっかりと歯形が刻まれ、出血していた。


 それを視認したとき血の気が引く思いだったが、すぐそばでようやく事態を把握した香川が泣きそうな表情になっていた。

 ここで俺がアナフィラキシーショックを起こすわけにはいかない。

 それだけは絶対に避けなければいけない。

 落ち着け。息を吸え、焦るな、戸惑うな、彼女を、香川を不安にさせるな。

 なんともないことを装え。大丈夫だと安心させろ。笑顔を見せろ。無理やり笑え。問題ない。蛇に噛まれた対処法も脳の引き出しには入っている。やるべきことはわかっている。取り乱すな。


「またっ、また私は……はぁっ、はぁっ……!」

 落ち着こうとする俺とは対照的に香川の換気活動が活発し始める。

 まずいまずいまずい……! ここで彼女に過呼吸を起こされたら間違いなくゲームオーバー。それも全滅という想定しうる中でも最悪の終わり方だ。


 もし俺が噛まれたのが本当にウミヘビならほぼ間違いなく俺は助からない。

 嫌だ……死にたくない――だが、自暴自棄になり、何もかも諦めてしまったら救えたはずの命も失われてしまう。

 すうううううっ。

 深く息を吸う。


 ――

 トリアージだ。助かる可能性が低い者より救える可能性が高い者を選ぶんだ。

 医者を目指すんだろ田村ハジメ!

 私情や感情を無にしろ。目の前にある命を救うことだけに全神経を割け。そうすれば猛毒を持つウミヘビに噛まれたかもしれないという恐怖から気を紛らわせることができる。一石二鳥じゃないか!


 俺は呼吸が早くなっていく香川を抱き寄せ、彼女の髪を優しく撫でながら諭すように言う。

「落ち着け香川。俺は大丈夫だ。言っただろ必ずここを二人で出るって」

「でも、でも田村! あんた足を噛まれて……!」

「大丈夫だ。大丈夫。何も焦ることなんてない。だからまずはゆっくり呼吸をしてみよう。ゆっくり吸って、吐いて。俺を信じろ香川。必ず助けるから」


 本当は今すぐ噛まれたところを吸って毒を吐き出したい俺は香川の呼吸が整えるまで髪を撫で続けていた。

 彼女の心臓は早鐘のように早かった。

 ……俺は村間先生と黒石の顔をもう一度見れるだろうか。

 鍾乳洞に差し込む微かな光を見ながら、考えずにはいられなかった。

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