第75話

 香川を抱き抱えながら必死に光が差し込む方へ泳ぐ俺。

 陸だ。とにかく陸に上がらないと話にならない。

 がむしゃらに手の伸ばし、足をバタつかせながら、一筋の光明にたどり着くと――。


 海水が引いた陸地が視界に入る。

 ……やった! 陸だ! 陸!

 急げ、急げっ、急げっ……!


 俺は最後のチカラを振り絞り香川を陸地へと引きずり出す。

「かがわ! 香川! 香川!」

 俺の呼びかけにも一切応答がない。

 

 クソッ! なんで返事をしてくれないんだよ!!

 胸の中に怒りが湧いてくる。それは自分の不甲斐なさも過分に含まれていた。

 いや、落ち着け……。ここで取り乱してどうする。この場でしっかりしなければいけないのは俺だろうが!


 落ち着け、落ち着くんだハジメ。

 胸に手を置いて深呼吸。

 脳の引き出しの取手を掴み、手当り次第に開けていく。探しているのは溺れたときの応急手当だ。


 ……あった!! これだ!

 医者を目指すうちに人命救助に興味を持った俺はいくつか知識として持っていた。

 まずは呼吸と脈拍の確認。

 ……ぐっ。やっぱり息をしていない。


 すぐに気道の確保に移る。

 心肺蘇生法を開始する。

 まさか体育館で人間相手に本物の消防隊員から教わったことを生身の人間ですることになる日が来るとはな。


 本当に人生何があるかわからない。

 この島に漂流してからというもの、これまで知らなかった(知りたくもなかった)ことばかりだ。


 これまで自分のことを虐げてきた人間がいざ、生死を彷徨うことになれば、凄まじく感情を揺さぶられる上に葛藤と悪夢に苛まれ。

 その呪いを緩和してくれるのは村間先生や黒石たちの――人の温もりや思いやりで。

 復讐心は人格と理性を駆逐し、両手を真っ赤に――いや、真っ黒に染めさせる。

 結局一番怖いのは災害や幽霊なんかじゃなくて。人間だということで。


 守るべきものがある人間が最弱で。

 でも守るべき存在がいるからこそ己を振るい上がらせることもできて。

 なによりやっぱりこの世界で生きていくには一人じゃ生きていけなくて。仲間や家族がいることの心強さがありがたみが痛いほど胸に染み込んでくる。


 気が付けば俺は涙を流しながら必死に心肺蘇生を試みていた。

 そんな俺の対面に中村の皮をかぶった死神が黒フードをかぶりながら聴きたくもないことを平気で話しかけてくる。


「諦めろ田村。お前は結局誰も救えない」

「うるさい! 黙れ!」

「もしかしてなんて思ってねえだろうな? 言っておくがお前はクラスメイトを一人見殺しにした重罪人なんだよ。今さら香川を救ったところでお前の罪は消えねえんだよ!」


 香川の胸の真ん中を強く、早く、連続してマッサージを続ける。

 本当は今すぐ耳を塞ぎたかった。鎌を持った中村は俺の首筋に刃を向けてくる。

「諦めろ田村。これは俺を見殺しにした罪だ」


「戻って来い香川! お前にだって夢の一つや二つ、! 頼む戻って来てくれ!」


「偽善者を気取ってんじゃねえぞ。こっちだ! 俺の目を見ろ田村ァァァァ! 俺は絶対にお前を許さねえ! 許してやるもんか! 俺はな、まだまだやりたいことやなりたい人物像だってはっきりしていた! なのに! それなのに! 行かないでくれとお前に頼み込んだのに! お前は見捨てた! まだ息があった俺が熊に! 食い殺される瞬間を耳で聴きながらその場を立ったんだ! どうせいい気味だ、とか思ったんだろ? そうだよな。だってお前、散々嫌がらせをされてたもんな。そのくせなんで香川はそんなに必死こいて助けようとしてんだよ! しょせんお前も男。女にモテてえんだろ。下心をずっと隠してたんだろ! あーあ、嫌になるな! 俺は男だから見捨てたくせに女は助けるのかよ! つくづく罪深い男――」


「そろそろ黙ってくれないか中村」

「はっ?」

 俺は香川に人工呼吸と心臓マッサージを続けながら命令する。

 

 この島で生死を――感情を――ずっと見てきたからだろう。

 俺は一つ大人になっていたことをようやくここで自覚した。

「お前の言う通り俺は中村、お前を見殺しにした。悪かった。それについては申し開きもないさ。黒石のため、なんてのは都合のよい建前で本心じゃ自分の命が惜しかったんだと思う。それは認めるよ。けど――」


「――けどなんだ? 言ってみろよ」

「俺はお前があそこで死んでも文句を言えるような人間じゃないと思っている」


「……てめえ。開き直る気だな! ふざけんじゃねえ!!! 俺はまだ十代だったんだぞ! すいも甘いもこれから経験していくガキだったんだ! この島で俺に手を差し伸べられる人間がいたとすりゃ、お前しかいなかったんだ! なのに死んでも文句を言えるような人間じゃないと思っているだと⁉︎ 寝言は寝て言え!」


 額に何本もの血管を浮かび上がらせ、俺の顔面に唾を吐き捨てる中村。

 ここからはスピリチュアルというか、宗教的というか、もしかしたらただの俺のエゴや欺瞞なのかもしれない。

 ただ、俺があの場で中村を救えなかったことを――救えたのかもしれないと思い続けることは――他ならぬ彼をこの地に踏みとどまらせてしまうことに繋がるんじゃないかと、今になって思っていて。


 なによりそれは俺自身に対する覚悟のなさ、逃げ道をずっと持ち続けるような生き方なんじゃないかって思うようになっていて。


 だからそれが残酷だ、冷徹だ、最低だと罵られようとも、俺は告げるべきことを告げなければいけない気がした。


「自業自得だ中村。たしかに俺はお前を見捨てた。けれどそれをお前は俺に断罪できる立場ではないんだよ。自分の罪を棚にあげるなよ。お前はお前が犯した罪の数を数えた方がいい。黒石はクラスメイトの男二人から強引に迫られて今もなお言葉を発せずに苦しんでいる。お前が俺に――俺たちにもう少しだけ歩み寄ってくれれば、誰も死なずに済んだかもしれない。だから俺はもう迷わない。振り返らない。自分を責めない。罪を背負って前を向いていく。お前を救えなかった代わり、今度こそ手の中にあるものをこぼさない。だからこれだけは言わせてくれ。俺の前から消えろ中村――安らかに眠れ」


 俺の決意の眼差しを視認した死神――亡霊はまるで除霊されていくように姿を消していく。

 何もかも幻で、錯覚で、ただのエフェクトにすぎないと思う。けれど、なぜか中村の皮をかぶった死神が消える直前に口の端をつり上げたように見えたのはきっと気のせいじゃないと思う。


 やがて香川は「ごぼっ!」と水を吐いた。

 人工呼吸中に水を吐いた場合、それが誤って入り、逆流しないよう注意しなければいけないことは知っていた。

 俺はすぐに香川の顔を横に向けて水を出す。シャツの肩を掴み引きちぎり、絞ったそれで口内を拭き取る。


 それを繰り返し続けた結果。

 この瞬間を一生忘れないだろう。

「げほっ、げほっ、げほっ……嘘つき」


 俺はゆっくりと香川を抱きしめながら、ただ短くこう言った。


「ありがとう」

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