第74話

 ――ハイパーベンチレーション。

 水面で深く早い呼吸を繰り返す特殊な呼吸法だ。

 素潜りスキンダイビングの際に息を長時間持たせるために用いるテクニック。


 原理的には血液中の炭酸ガス濃度が下がり、酸素濃度が上昇することで長く潜ることができる。

 実を言えば俺はそれをやったことがある。

 と言ってもあくまで我流。

 

 俺がまだ小学生だった頃、水泳でいつもビリだった。

 単純な俺は息継ぎをがむしゃらに泳ぐ時間に当てることでタイムが更新されるんじゃないかと思ったわけだ。


 子どもの頃に見たそれを見よう見真似でやってみたところ、驚くことに呼吸しないで済む時間が伸びていった。

 とはいえ、子どもの頃からしばらくしていないそれをここでやってもいいものか。反対に悪影響を及ぼしてしまうんじゃないか。


 悪い方に考えてしまいそうになる俺だったが、

「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ!」

 なんと背後で深く早い呼吸音が絶えず聞こえてくる。


 おいおい。香川、お前がそれをするのかよ!

 おもわずツッコミそうになるものの、俺も後を追うようにハイパーベンチレーションに入る。

 香川の落ち着きようがやけに板についていると思ったがそういうことだったのか。彼女はおそらくスキンダイビング経験者。

 

 ガキの思い付きなんかじゃなく、ちゃんとした訓練によって会得しているに違いない。下手をすれば、というより俺の方が長く持たない可能性の方がよっぽど大きいかもしれない。

 準備が整った俺はいよいよ潜水を開始した。後戻りはできない――窒息死する可能性の方が高い潜水だ。


 ☆


 素潜りにおいて最も大切なことは平常心を保つこと。

 焦りや不安が脈が早くし、息が乱れる。

 だからこそ俺は潜水してから経過した時間を数えるかどうか迷っていた。経過時間=死に近付いている時間だからだ。潜っていられる残りの時間が逆算できてしまう。


 とはいえ、水中の時間を把握せずに潜り続けることの方が俺にとっては不安やプレッシャーを生む原因になると判断。

 結論から言うと――七十秒が経過した。

 一分と十秒だ。


 なんの訓練もしていない人間ならそろそろ苦しくなってくる頃だ。なんならもがき始める頃と言ってもいい。

 しかし、鍾乳洞の奥は依然として暗く、冷たく、光が差し込む気配を見せない。

 凸凹とした鍾乳洞が絶えず続いている。文字通り一筋の光明は差してくれていなかった。


 ガキの頃に練習したハイパーベンチレーションのおかげでなんとかまだ奥へは進めそうなものの、視界の先に光を感知できない状況が続けば絶望が押し寄せてくるはず。


 頼む。神様――! 気が付けば俺は神頼みしていた。


 ☆


 ――百八十秒経過。三分だ。

 さすがに息が苦しい。何より視界が晴れることはない。むしろ視界はより暗くなり、水の冷たさが悪化しているような気がする。

 

 それが息苦しさからそう感じさせるのか、本当に環境が悪化しているのかは分からない。というより、そんなことを考える余裕がなかった。

 

 限界か――!

 諦めかけた次の瞬間だった。

 入り組んだ鍾乳洞の窪みを抜けると、明らかに水面の色が変化しているところが視界に入る。


 おそらく太陽の光が反射し、照らされているんだ。

 やったぜ!

 おもわず水中で叫びたくなった俺だが、最後の最後でヘマをしてしまう。


 急ぐあまり鍾乳洞の窪みにシャツを引っ掛けてしまい、前へ進めないことに動揺して口を開けてしまう。

 ボコボコと泡立つ水。俺の口から酸素が急激に抜けていく。

 やべえ――!


 落ち着いて対処すればいいものを、ゴールは目前だったせいで、服を破ってでも進めればいいという愚行に出てしまう。

 

 それが運の尽きだったようだ。あと少し泳げば陸地に出られるかもしれないところまで来ておいて――まるでこれ以上は行かせないとばかりに尖った幾重ものそれが俺のシャツを刺す。


「がばぁっ!」


 今度は大きな水の泡が俺の口から吐き出される。

 まずい、まずい、まずい、苦……しい!

 視界がぼや、けて……!


 結論から言えば俺の意識は一度そこで途切れていたと思う。

 ただ奥へ進むことだけに集中していたせいで、ちょっとしたハプニングで息を乱してしまったことが敗因だ。

 でもまあ先導の役割はこなせた。香川だけでも助かってくれれば御の字――。


『――起きてハジメくん!』『――起きなさいハジメ!』


 走馬灯だろうか。もはや言語では説明できないが、大切な人たちから叱咤されたような気がした。

 頬を叩くように強い口調で目を覚まさせてくれる村間先生と黒石。

 急いで瞼を開けると、信じられない光景が目に飛び込んで来た。


 俺の口を誰かが塞いでいた。

 それも酸素を送り込むように。

 おそらく意識を失っておきながらもう一度戻って来れたのはそれのおかげだ。


 では、貴重な酸素を口を重ねてまで送ってくれた恩人は誰か。

 俺はその人の顔を目と鼻の先で見ておきながら認知することができなかった。

 

 だって口移しで命を吹き込んでくれていたのはあの――、


 ――互いに嫌い同士だった香川だったからだ。


 やがて彼女が持つ酸素が全て俺の方に譲られる。

 その後、まるで死神に引っ張られていくようにゆっくりと俺から離れていく香川の表情を一生涯忘れることはないだろう。


 申し訳なさそうなのに――世話の焼ける子どもを慈しむ眼差し――それでいてどこか謝りたそうだった。罪滅ぼし、とでも表現すればいいだろうか。

 けれど彼女が最後に見せたのは無理やり浮かべたであろう笑顔。


 潜水する前に香川が発した言葉がフラッシュバックする。


『もしもあーしが途中で息ができなくなったら容赦なく置いて行くこと。約束できるんでしょうね?』


 ――馬鹿野郎が! 置いて行けるはずがないだろうが!


 俺の胸に凄まじい怒りの感情が湧いてくる。

 自分の不甲斐なさ、大原にしてやられたこと、何より香川はこうなることを最初から覚悟していたであろう現実。


 香川がゆっくりと瞼を閉じたのを視認した俺はすぐに彼女を抱き寄せながら光が差す方へ必死に泳ぐ。

 

 頼む……頼むよ!

 この際、俺はいい。本当ならここで生き絶えていたんだ。俺はいいからもう一度香川だけは――!

 

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