第68話
私を餌と認識した熊は想像以上のスピードで迫ってくる。
ちょっ、ちょっと待って! めちゃくちゃ早いじゃない! あの大きな体でどうしてこんなに早く動けるのよ!
熊との距離が縮まることは、寿命が縮まっていることと同義。
焦っちゃいけないと頭ではわかっているものの、やはり恐怖が込み上げてくる。
心なしか呼吸が浅くなっている気がする。
私ははやる気持ちを抑えて、もう一度田村くんの言葉を思い出す。
『熊撃退の対策としてスプレーが市販されています。これがなぜ効くのか知っていますか?』
知るわけないじゃない、と言いたくなるのを堪えて彼の次の言葉を待つ私。
『熊にも弱点があるからですよ』
弱点?
『はい。顔です。唐辛子の成分が粘膜や皮膚に激痛を与えてくれます。特に目や鼻、口などですね。熊はこれまでの生涯で感じたことのない激痛と刺激臭により退散します。もちろん顔が急所なんてことは誰だって分かると思います。僕が本当に伝えたいことはそこじゃありません』
どういうこと? というか田村くんって本当に学生よね? どうしてこれだけの知恵があるのだろう。年下なのにすごく頼りがいがある。やっぱり好きだわ私。生きて帰って来れたら逆プロポーズしようかしら。
……いや、ダメね。なんかそれってフラグが立ちそうじゃない? それも悪い方の。
『重要なのは熊の頭部にスプレーを当てる、ということです。誰しも想定外のことが起きるとパニックになります。まして村間先生は女性です。恐怖も相当のものでしょう。ですが、この熊撃退ウォーターガンはただの学生がその場しのぎで作った玩具と変わりません。もちろん成分を濃くするために、唐辛子を存分に使用しましたが、100%効くとは断言できません。原理は同じ、というだけです。だからこそ落ち着いて、確実に、顔に発射して欲しいんです。慌てて外したり、違う部位に当ててしまわないよう冷静になれるかどうかが鍵だと思ってください』
気が付けば私の歯はガチガチと歯が鳴っていた。
ドクンドクンと早鐘を打つ心臓。
けれどそれがどこか心地よくもあって。
ようやく私も田村くんや司ちゃんのために命を張れる教師になれたことが嬉しいみたい。
私はゆっくりと息を吐きながら、ポンプ式の引き金に手をかける。
大口を開けて、涎を垂らし、大きな足取りで突進してくる熊。
変則的な動きなんて一切ない。直接的な突進だ。だったら私が注意しないといけないのは放つ高さだけ。
大丈夫。私ならできる。
いよいよ熊が二メートルを切るであろう距離に迫った瞬間、私は勢いよくポンプ式の引き金を引く。
真っ赤な液体が熊の眉間に直撃し、ぱシャァっと水飛沫が宙に舞う。
田村くんの言った通り、顔面に激痛や刺激臭が走ったのか、見るからに狼狽する熊はすぐさま引き返して逃げるようにして去っていく。
その光景を見た瞬間、張っていた糸が切れたようにへなへなと腰を抜かしてしまう私。
ははっ、本当に情けないわ。
けれど時間がないことも自覚していて。
私は深呼吸を何度かした後、ようやく鍾乳洞の中に足を踏み入れる。
……待っていてね司ちゃん。貴女のことは命に代えても守ってみせるから。
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