ろくでなしの調律その参
増田朋美
ろくでなしの調律その参
しかしどうして、こうなってしまうのかなと、羽賀芳太郎は思ってしまうのだ。なんで自分なりに精一杯やったのに、こういうクレームが来てしまうのかなあと。
いきさつはこうであった。
新しい職場というか、何とか履歴書を提出して、採用してもらった個人の楽器店。そして、その楽器店がお得意様としているお宅へ、きょう、ピアノの調律に行ってきたのであるが、、、。
終わって帰ってきた後、楽器店の事業主からちょっと来てくれと言われて、一緒に社長室へ行った。
「いやねえ、君の意欲的なところは、十分わかっているつもりなんだけどね。」
と、社長は、はあとため息をついて言う。
「もうちょっと、この仕事には、スピードというものがあるのを、考えなくっちゃ。なんで、一台のグランドピアノを調律するだけで、三時間以上かかってしまうのかなあ?」
「だ、だって仕方ないじゃないですか。」
と、羽賀芳太郎は、口ごもった。
「そうなんだけどねえ、調律するにあたって、何時間も、ピアノの持ち主を一緒にいさせるのもどうかと思うよ。だって、その人だって、忙しいのに、仕事を休んでわざわざ調律に駆り出してくれたんだからねえ。」
確かにそうなんだけど、調律に時間がかかりすぎたのは、ピアノの持ち主が、ピアノを湿気の多い部屋に置いてあるということも原因だと思うと、芳太郎は、しっかり言ってきたつもりだった。それが癪に触ったのであろうか?
「まあ、ピアノを置いてある環境が悪いとでも君は言いたいんだろうが、こっちもできるだけ短時間で終わらせることを考えなくちゃ。今はね、発疹熱なるものも流行しているし、人のうちに長時間いることもきらわれる原因になるんだよ。それをわかってもらわないと、うちは楽器業として、やっていけなくなるんだよ。そんなにのろのろと時間をかけてなんでもやるのではなくて、スピーディーに、できるだけ相手の人の邪魔にならないように、することも考えないとねえ。今回は、まあ初めて調律に言ったから、許してあげるけれど、次回から、少なくとも、二時間で終わらせられるように心がけてな。」
そんなことできるわけないじゃないか、あのピアノは、湿気がすごくて、家がそういう場所に立っているから、置かれている環境も劣悪なんだし、それを直すのは本当に大変だったんですよ、と芳太郎は言いたかったが、社長のこともあり、それは黙っておいた。
「まあ、これから、気を付けてくれよ。うちは、ただでさえ、小さな会社なんだし、一つでも不正があったら、一気にうちのメンツにかかわるんだからね。」
と、社長はそういって、芳太郎に部屋から出るようにといった。芳太郎は、なんでこういう風になってしまうのかなあと、思いながら、部屋から出ていった。
とりあえず、その日の楽器店の営業時間は終了した。芳太郎は、いつも通り通勤するためのバスに乗ったが、なんだか、社長にそんなことを言われて、ぱっとしない一日だったなあと思った。せっかく、バスで通勤できる楽器店で、まだ新鋭の会社だから、つぶれる心配もないだろうなと思って、応募してみた会社なのに、何も仕事は楽しくない。なんで自分は、そういう風になってしまうのだろう。いつもなら、クラシック音楽にかかわりを持っている芳太郎だけど、今日思いついたのは、あるパンクバンドが歌っていた、楽曲だった。タイトルは、自分にピッタリだと思った。そう、ろくでなし。
そのろくでなしの歌を何回も頭の中で口ずさんでいると、バスは、神社の鳥居の前で停車した。すると、運転手が、いきなりバスを降りた。なんだと思ったら、車いすの人がバスに乗り込んできたのだ。まあ、今の時代だから、そういう事も十分にあり得る。運転手は、急いでスロープを出して、車いすの人をバスに乗せる。彼は、どうもありがとうなとだけ言って、車いす席に乗った。運転手はすぐに運転席に戻ってバスを発車させるが、時刻表に書いてあった発車時刻より五分近く遅れてしまった。
「えー、発車時刻より五分以上遅れてしまったことをお詫び申し上げます。」
と言って、バズを動かす運転手。なんだか急にバスの中が物々しい雰囲気になった。お客さんたちは、まるで、遅くなって、非常に困るわという表情をしている。なんでそういうことができるんだろう。だって車いすの人がバスに乗ってくるということは、当たり前のことじゃないか。と、芳太郎は思うのだが、どうもそういう風に寛大な人は、あまりいないようなのだ。ということは、社長の言っていたことも本当なのかなあと思う。だから自分の調律が遅いということでもクレームをつけられるような、ことになるのか。
「よ、ろくでなし。久しぶりだな。元気でやってる?」
ふいに近くからそういわれて、芳太郎は、は?と後ろを振り向く。振り向くと、後ろの席にいたのは、さっきの車いすのお客さんであった。それが誰なのか、芳太郎はすぐに分かった。先日、高野正志さんと一緒にいた、影山杉三こと、杉ちゃんである。
「なんですか。ろくでなしなんて。」
とりあえずむきになって、そういうことを言ってみたが、
「いや、そのしょぼくれた顔を見ると、やっぱりろくでなしだよ。」
と、杉ちゃんは言った。でも、確かにそうなのかもしれなかった。確かにろくでなしと言えるかもしれない。だって、今日社長に言われたことを考えると。
「そうですね。確かにしょぼくれてますよ。」
と、芳太郎は言った。
「お前さん、どこで降りるんだ?」
と、杉ちゃんが聞く。
「ええ、池本クリニック前です。」
芳太郎が答えると、
「ああそうか、僕も同じなんだ。じゃあ、そこの近くにさ、カフェがあるの知っているか?そこで一杯やっていこう。」
と、杉ちゃんは芳太郎に言った。そんなところにカフェがあったとは知らなかったが、ここは杉ちゃんに従った方がいいと思った。
「ああ、酒じゃないからね。それは違いますから。」
と、杉ちゃんが言う。確かに池本クリニックの周りは、病人がよく集まるからか、酒を飲めるような店はほとんど立っていない。あるとしたら、お茶を飲むためのコーヒーショップばかりである。
「まもなく、池本クリニック前、池本クリニック前でございます。お降りの方は、押し釦でお知らせくださいませ。」
と、社内アナウンスが流れた。杉ちゃんは押し釦を押した。バスは、池本クリニックの入り口の前で停車する。運転手に手伝ってもらって、杉ちゃんは、バスを降りた。芳太郎も、周りの視線から逃げるようにバスを降りた。運転手が杉ちゃんをバスから降ろすと、芳太郎は、ありがとうございましたと言ったが、杉ちゃんはお礼をしなかった。その代わり、
「また頼むぜ、バイバーイ!」
とにこやかに笑って、手を振るのであった。そういうところは、杉ちゃんらしいというか、言ってみれば常識がないことになるのだが、杉ちゃんは気にしていない様子だった。もし、これが日本ではなくて、どこかの外国であったら、それで当たり前だで片付けることができるかもしれなかった。
「よし、それじゃあ、一杯飲んでいくか。」
と、杉ちゃんが言う。芳太郎は、杉ちゃんに従って、喫茶店の中に入った。喫茶店に来ているのは、池本クリニックに通っている患者ばかりだ。みんな体の一部に補助具をつけたり、車いすに乗ったり、赤い色のヘルプマークをもっている人もいる。
「ご注文は何ですか?」
と、ウエイトレスが言う。二人は、とりあえずコーヒーを一杯注文した。コーヒーだけなのですぐに持ってきてくれた。
「で、今日はまた、調弦に時間がかかりすぎて、誰かに叱られたか。」
と、杉ちゃんがまるで、自分の頭の中を読んでいるように言った。なんでわかっちゃうんですか、と芳太郎が聞き返すと、
「うん、顔に書いてあるよ。お前さんの顔には、今日も叱られて帰ってきましたとしっかり描いてある。だからよ、言い分があるんだったらここで吐き出しちまえよ。お前さんはどっちにしろ、楽器屋ではたらくしか、ねえんだからよ。」
と、杉ちゃんは、そういうことを言った。それを聞いて芳太郎は、見る見るうちに涙かでて、
「はい、どうやって、依頼されたピアノを、短時間で調律できるもんなんでしょうか。だって、場所は潮風がもろに入ってくる部屋だし、ピアノ線はさびてるし、それでも、演奏家の方の家だから、ちゃんと直してくれと言われるんだから。」
といった。
「そうかそうか。で、調弦に、何時間くらいかかったんだ?」
杉ちゃんに聞かれて、芳太郎は、一時からスタートして、終了したのは六時近くまでかかったと言った。でも、ピアノを置いてある場所が、とにかく風の入る場所だったし、長時間毎日練習する人のピアノだから、ハンマーがすり減っていたのを交換したり、鍵盤の隙間の空きすぎを直したりしなければならず、そのくらいかかってしまったと涙を流して、そう語った。杉ちゃんという人は、口調は乱暴な割に、聞き上手で、芳太郎は、今までたまっている鬱憤を全部話すことに成功したのである。
「なるほどねえ。で、ピアノのメーカーは?」
「ヤマハのグランドピアノでした。一般的な、黒いもので、大きさはC3です。」
「そうだなあ。今度誰かのを調弦することになったら、一般的なものはそんなに丁寧にしなくてもいいんだと思え。ヤマハなんてありふれたメーカーだし、C3なんて、一番一般的にある形だろうがよ。そんなピアノに、手のかかる子を育児するような丁寧なことはしなくていいんだよ。ヤマハのグランドなんて、普通の、手も足もあって、目も耳もあって、それなりに金もある人間みたいなもんだろうがよ。それに、そんな何時間もかけて調弦しなおす必要は、ねえんだと思えばそれでいいのさ。」
芳太郎がピアノの機種名を答えると、杉ちゃんはカラカラと笑った。
「お前さんは一台一台のピアノに愛着がありすぎるんだよ。だからろくでなしになるんだ。もっと肩の力を抜いて、気軽に取り組めや。」
「そうですか。愛着がありすぎる。僕としては、弾く人が気持ちよく弾けるようにと思って、細かいところまで直したんですけどね。」
杉ちゃんの話に芳太郎がそういうと、
「だからあ、それはしなくていいんだってば、ただ、単に、ピアノのキーを直すこと。そして、お客さんに言われたことだけ、ちゃんと答えていればいいの。それができないからいつまでたってもろくでなし。」
と、杉ちゃんは、芳太郎の肩をたたいた。
「もう少し慣れてくるとこういう事わかると思うって、水穂さんも言ってたよ。ま、気長にやるんだな。最初は、誰かに役立たずとののしられてもな。」
その名前を聞いて芳太郎は、ふいに別の気持ちがわいてきた。なぜか水穂さんに関しては、ほかのお客さんとは別の感情を持ってしまうのである。
「水穂さん、水穂さんはどうしていますか?」
と、芳太郎は聞く。
「ああ、いつもと変わらず暮らしてるよ。寝たり起きたり。時々ピアノのレッスンもやっているよ。」
と、杉ちゃんが答えると、
「そうですか。水穂さんに、言っておいてください。くれぐれもお体には気を付けてと。」
芳太郎は言った。
「わかったよ。じゃあ、今度、実際に水穂さんの顔を見に来てくれないか。ちょうど、あのピアノもまた癖が出てきて、変な音になってるからな。」
杉ちゃんがそういう事を言うので、芳太郎はまたピアノがおかしくなったのか、と聞き返すが、確かにグロトリアンというのは癖の強いメーカーなので、一度や二度の調律ではなかなかなじまないことも、以前聞いたことを思い出して、納得しなおす。
「そうですか。確かに、グロトリアンは、マニアックなメーカーですからね。じゃあ、また水穂さんのもとへ伺いますから、いつがいいのか、教えていただけますか?」
「いつでもいいよ。僕らは、基本的に暇人なので、いつでもお前さんの都合のいい日に来てくれや。」
と、杉ちゃんが言った。
「じゃあ、来週の月曜日でどうでしょうか。その日なら、予約も何も入っていないですし、大渕まで行けますよ。」
芳太郎がそういうと、
「ああ、それじゃあそうしてくれや。水穂さんも首を長くして待っている。もう癖の強いピアノだということは知っているから、何かいかかってもいいって、本人も言っていたぞ。」
と杉ちゃんは言った。芳太郎は、じゃあ、13時に伺いますねと言って、手帳に、13時、磯野水穂さんと書き込んだ。
「それじゃあ、来週、よろしくお願いします。」
と、予約が取れたことを何だかうれしくなって、芳太郎はコーヒーを飲みほした。杉ちゃんも、芳太郎も、お互いにこやかに笑っている。いつもの仕事がこんな風ににこやかにできたらいいのになと思うのだが、いつもの仕事は、なんだか乾いていて、文字通り、砂を噛むような感じで終わってしまうことが大半である。
コーヒーのお金を払って、杉ちゃんと別れると、芳太郎は、月曜日が楽しみだなと思いながら、家に帰っていったのだった。
そして、その月曜日がやってきた。今日は、水穂さんのグロトリアンのピアノを修理する日だ、と芳太郎は、気合を入れて、必要な道具をそろえる。それでは行こう!と、製鉄所に向かって、ポンコツの車を走らせるのであった。
一方、その製鉄所では、何が起きていたかというと、朝ご飯にサバの缶詰を食べた水穂さんが、また激しくせき込むという発作を起こしていた。
「バカだなあ、お前さんは。こんな大事な日に、なんでそうなるんだよ。おい、しっかりしてくれ。今日は、あのろくでなしが、ピアノを直しに来るんだよ。」
と、杉ちゃんが水穂さんの背中をさすりながら、そういうことを言っている。
「やっぱりサバ缶はやめた方がいいなあ。肉魚は何があっても食べてはならないぞ。」
杉ちゃんがそういって、水穂さんの口元に手ぬぐいをあてがうと、手ぬぐいはすぐに朱に染まってしまった。
「ほらあ、言ってるそばからあ。」
杉ちゃんは水穂さんの口もとを拭いてやった。とりあえず、枕元にあった吸い飲みの中身を、水穂さんに飲ませて落ち着かせる。鎮血の薬は強力で、数分で血を止めてくれるのだが、副作用として強烈な眠気を催すらしく、水穂さんは布団に倒れこんで寝てしまうのだった。
「あーあ、もう勘弁してくれよな。今日は、調弦屋が来てくれる日なのにさ。ほんとにタイミングが悪いというかなんというか。」
杉ちゃんがため息をつくと、玄関先で車の音がした。あ、やっぱり来たなと杉ちゃんはとりあえずお客さんを迎えに行くのである。
「お約束の日だったのにさあ。水穂さん、眠っちゃったよ。まあ、何もしないで帰っていくより、多少起こしてもいいから、調弦しなおしてやってくれ。そのほうが、やつにとって、よほどためになるんだ。」
と、杉ちゃんは四畳半に向かいながら言った。芳太郎は、そんなんでいいんですかと思いながら、とりあえず、グロトリアンのピアノが置いてある、四畳半に行く。ふすまを開けると、グロトリアンのピアノは、ちゃんと待っていてくれた。
「まあ、このピアノには、サイレントシステムもついていない。思いっきり音を出してしまってくれていいから、ちゃんとした音色に、しっかり直してやってくれよ。」
と、杉ちゃんは説明したが、ピアノの目の前に敷いてある布団の中では、水穂さんが静かに眠っていた。それを見て、本当にやってもいいものだろうか、芳太郎はしきりに迷った。
「本当やっていいんですか?」
ともう一回言うと、
「おう、かまわんよ。水穂さんには時間なんて何にもないんだからよ。」
と杉ちゃんはぶっきらぼうに言った。そのぶっきらぼうなところがかえって発言に信憑性があるような気がした。なんで自分を杉ちゃんがここに連れてきたのか。答えは簡単だ。グロトリアンのピアノの持ち主が、もうわずかしか時間がないので、調律しなおしてくれというものだろう。
「わかりました。」
と、芳太郎は、ピアノのふたを開けて、鍵盤を押した。音はしっかりなった。一度音がしてしまえばこっちのものだ。芳太郎は、鍵盤を押して、ピアノの音程を一つ一つ直していく。
芳太郎がドミソドの和音を押すと、布団が動いた。う、うんという音がして、水穂さんが目を覚ましたのだ。目を覚ました水穂さんは、急いで起き上がろうとしたが、杉ちゃんが、無理して起きるなといったので、そのままでいた。
「あ、あ、あの、すみません。具合が悪くて寝たままで失礼します。」
という水穂さんは、やっぱりがりがりにやつれて痛々しい感じがした。本当は、それではいけないはずなのに。
「いいえ、かまいません。ちょっとお時間かかってしまいますけど、グロトリアンのピアノはちゃんと直しますから。」
と、芳太郎はそれだけ言って、またピアノの音程を直す作業に取り掛かった。
「お前さんは調弦に時間がかかりすぎるそうだが、ここでは、この製鉄所では、いくらかかってもいいからな。それよりも、水穂さんがまたピアノを弾けるように仕向けてやってくれよ。」
と、杉ちゃんが言う。確かにその通りだった。このピアノは完全無欠な扱われ方をしているわけではないのだ。もっと訳ありのひと、重大な理由がある人のもとにやってきたのである。だから、ピアノも大切に扱ってやらなければならない。グロトリアンという癖の強いメーカーであるだけではなく所有者も、一癖も二癖もあるのだから。
その作業を、ピアノの所有者である水穂さんは、痛々しい体つきで、申し訳なさそうに見つめているのだった。それは気にしなくていいから、水穂さんにはどうしても、生きようという意欲を取り戻してほしいと芳太郎は思うのであった。水穂さんのことを、杉ちゃんたちは生きていてほしいと思っている。彼自身は、きっと生きていても仕方ないと思い込んでいるのかもしれないが、杉ちゃんたちはそんなことをまるっきり思っていないのだ。それを、このグロトリアンのピアノを通して、伝えていきたいと、芳太郎は思うのであった。
芳太郎は、グロトリアンのピアノに鍵盤を押した。ピアノは、癖のある音を、いくつもいくつもならし続けた。
ろくでなしの調律その参 増田朋美 @masubuchi4996
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