首括りの足をひく

ぷりーずこーるみー

大事なもの

  首くくりの足をひく

 とんとんと包丁で野菜を砕いた。不思議そうにそれを眺めるあたしに、食べやすいでしょ、と婆ちゃんが笑う。穏やかな音が春うららな日差しに包まれた柔らかく響いていた。

「婆ちゃん!」

 あたしは五歳の頃からずっと婆ちゃんと暮らしていた。両親を事故で亡くしたあたしと、夫に先立たれた婆ちゃん。他に頼れる人もいなくて、ずっと二人で寄り添って生きてきた。婆ちゃんは優しくて、柔らかい人だった。あたしは婆ちゃんが大好きで、ずっと一緒にいたいと思っていた。でも、それが、叶わぬ夢だとも知っていた。

「婆ちゃん、婆ちゃん!それは食べらんないってば!」

 婆ちゃんの口に手を入れて、白い布を取り出す。婆ちゃんは何が面白いのかヘラヘラと阿呆の笑みを浮かべている。怒鳴りつけたくなる気持ちを堪えて、そのまま布で涎を拭いてやった。

「ほら、もう、こんな汚して。食事ならちゃんと用意してあるから。婆ちゃん、リビング行こ?ね。」

 あやすように言い聞かせて、婆ちゃんの背中を優しく叩く。けれど、婆ちゃんはうーと唸るばかりで動こうとすらしなかった。手を引いても、反応しない。あたしの言葉が聞こえてないの?あたしは吐きそうになった溜息を慌てて飲み込んだ。在宅介護という選択をしたのはあたしだ。しっかりしなきゃ。確か、医師はこういう時は何度も言い聞かせると良いと言っていた。その通りに何度か同じことを話すと、婆ちゃんは漸くのそりと腰を上げた。

 あたしが高校生のとき、婆ちゃんが認知症と診断された。医師からは、施設での介護を強く勧められたが、あたしは頑として受け入れなかった。婆ちゃんと一緒にいたかった。ーーー薄情だと思われたくない。そんなあたしを見て、婆ちゃんは眉尻を下げて笑っていた。

 婆ちゃんの首に涎掛けをかけた。婆ちゃんのお気に入りの燕子花が刺繍されている。それが嬉しいのか引っ張ったり揉んだりきゃっきゃと無邪気に笑う。あたしは食事を運んで、それから、何となしにテレビをつけた。昼のニュース番組がやっている。鹿爪らしい顔つきの男がやはり角ばった声で朗々と読み上げた、『介護殺人』という言葉に心臓が跳ねた。

「二年前に起こった、介護殺人事件。被害者の娘である佐藤瑞樹容疑者の裁判が先日行われました。佐藤容疑者は容疑を全面的に認めており、裁判ではーーー」

 あっという声に引き戻される。慌ててそちらを見れば婆ちゃんが味噌汁の椀を倒していた。婆ちゃんは、その椀で手遊びをして、笑っている。

「ああ、もう。今布巾持ってくるからね。」

 言ってからキッチンに向かった。あたしの後ろから聞こえるのは、婆ちゃんの笑い声とニュースキャスターの声。ーーー大丈夫。あたしはそんな事絶対しない。

 ご飯を食べさせた後は、散歩の時間だ。婆ちゃんの手を握って外に出る。婆ちゃんは人や動物を追いかけては、無闇矢鱈に触ろうとするので、手を握っておくのが大変だ。けれども、あたしはこの時間が一番好きだった。爽やかな風に鮮やかな緑。片田舎の畦道はあたしの足を柔らかく受け止める。婆ちゃんは蝶々を追いかけて、あー!あー!と叫んでいた。そのまま田んぼに入ろうとしたので、手を引いて、あたしの側まで引っ張る。それを繰り返しながら、田んぼの群をひと回りする。果てしない緑はあたしの頭のしこりをほぐすように音を立てて揺れていた。

 家に戻ると夕飯の支度をする。婆ちゃんが食べやすいようにとんとんと包丁で野菜を細かく砕いた。膳を机に置いて、婆ちゃんの口元にスプーンを持っていく。婆ちゃんはそれを口に入れ、端からだらだら溢していた。あたしは、涎掛けでそれを拭いて、また口元にスプーンを持っていく。暫くして、不意に婆ちゃんは顔を俯かせた。…どうやら眠いみたいだ。食事を置いてから、婆ちゃんの体を支えて寝室に行く。リビングには食べかけの食事が一つ残された。ーーーせっかく作ったのに。

 婆ちゃんは黄ばんだシーツの上で小さな寝息を立てている。あたしは音を立てないように部屋を出た。明日は大学の講義がある。教材を手早く鞄に詰め込んでから、スマホを確認した。二年福祉科と銘打ってあるLINEのグループには、何百件もの通知がある。…見たところただの雑談のようだ。電源を切って横になる。感じる疎外感は誰のせいだろうか。そのまま瞼を下ろす。睡魔があたしの頭を優しく包んだ。

 叫び声で目が覚めた。時計の短針は三を指している。重たい体を引きずって婆ちゃんのもとへ歩く。婆ちゃんは足をばたつかせて、意味の成さぬ言葉を叫んでいた。医師が言うには、呂律が回っていないだけだそうだが。おーおーと叫ぶ婆ちゃんの体をなんとか引き上げて、立たせる。小慣れてきた、という自覚はあった。婆ちゃんの腰を持って、トイレに向かう。おしめを下ろして便座に座らせると、婆ちゃんはいつもの惚けた顔をした。そして、そのまま三十分もすると、うつらうつらとし始める。そんな婆ちゃんを引き上げてあたしはまた寝室に戻った。便器には何もない。

 朝、五時に目を覚ます。頭痛がする。朝は嫌いだ。原因は分かっていた。あたしの側で婆ちゃんが気持ちよさそうに寝ている。鼻をつく臭いにおしめを確認すると、糞尿に塗れていた。それを新しいものに替え、下着を濯ぎに行く。水桶の中で無心で布を擦り合わせ、…不意に迸った痛みに眉を顰めた。皸だ。ほんの小さな。大した痛みじゃない。けれど、あたしは……。

 リビングに向かって、テレビをつけた。朝はニュース番組ばかりだ。陽気な占いの声が聞こえる。いつもなら、このままにしておくはずだ。だってのに、あたしは何か探すみたいに、ぱっぱっとチャンネルを切り替えた。そして、ようやく見つけたその見出しに目を皿にした。暫くの間聞き入って、それで、我に帰った。ーーーあたしは何を期待してたんだろう。

 一通りの支度を終えてから、婆ちゃんを揺すり起こす。むずがるのを宥めて、外に出た。そして、通いのデイサービスの施設に預ける。職員はにこにこと穏やかな顔で婆ちゃんを引き取った。婆ちゃんも機嫌良さげに声を上げている。あたしは、早足でその場を後にする。一抹の解放感だか、喪失感だかが過ったような気がした。

 大学の講義をぼーっと聞き流す。当たり前のことをつらつら述べるこの時間に果たして意味があるのか。勉強の必要性がないことだけが利点だ。

 夕暮れ時になり、帰り支度をして扉を出たところで、声をかけられた。

「泉さん、ちょっといい?」

 同じクラスの…誰だっただろうか。金色の髪に長い睫毛をつけた少女だ。

「今度のレクで使うお金、あと泉さんだけだから。」

 言い放たれた言葉に首を傾げる。全く覚えがなかった。一先ず、今は財布を持っていない旨と、明日持ってくるという約束だけ言付けてその場を去った。彼女は不満げに眉を顰めたが、何か言わんとはしなかった。

 昇降口で靴を履き替える。外では大粒の雨の音が響いていた。あたしは鞄から傘を取り出そうとして、眉を上げた。どうやら忘れてしまったようだ。仕方がない。予備の傘を使おう。あたしは踵を返して、教室に向かった。

「まじでさぁ、協調性なさすぎじゃない!?」

「そーそー、LINE見ろよって!自分はなんも悪くありませんみたいな顔が腹立つよね!」

 大声に体を強張らせた。彼女達が話している人物が誰か、すぐに分かった。

「つーか、あいつ、授業とかでもさ、平気な顔してサボってんの!まじ、なんでここ来たのって感じ!」

 声を張り上げているのは先程の彼女だろうか。次々と同調する声が聞こえて来る。あたしは扉の前で突っ立っていた。…あたしは、別に…。固まるあたしを余所に、彼女達の会話は時間を追うごとに、苛烈になっていく。野暮ったい。汚い。臭い。甲高い笑い声に頭が痛んだ。あたしは耐えきれずに逃げ出した。水滴が体を叩く。帰路の中、本来見えるはずの緑は、霧で白く霞んでいた。ーーーあたしだって本当は別の大学に行きたかった。

 家に戻って、服を着替えてから傘を手に取った。婆ちゃんを迎えに行かなければならない。あたしの行手を阻むかのように、雨はより一層激しさを増していた。目を細めても先は何も見えない。私は黒の蝙蝠を開いて歩き出す。畦道はいつもよりぬかるんでいて、気を抜けば足を取られそうだ。

 施設に入って、名前を伝える。若い受付の女性が少々お待ち下さい、と答えた。初めて見る顔だった。

「美津子さんね、今、折り紙やってるみたいだから。」

 優しい声で語られ、あたしは面食らった。

「ね、失礼かもしれないけど、おいくつですか?」

 次いで問われ、舌を縺れさせながらも、十九です、と言うと、彼女は、まあ、と、声を上げた。

「それじゃ大学生?若いのに在宅介護なんて大変ね!」

 感嘆の声に、小さな声で福祉科なんで、と付け加えた。

「へぇ。でも、まだ学生なんでしょう?立派ねぇ。」

 美津子さんもきっと鼻が高いわ。声高に告げられたその言葉に、なんとも言えぬ悲しさ、否、苦しさを覚えて、俯いた。あたしは、その言葉を受け取ってはいけないと思った。

 やがてやってきた婆ちゃんと連れ立って帰路に着く。婆ちゃんは雨にはしゃいでいた。手には自分で折ったのだろうか、くしゃくしゃの鶴が握られている。それを見て、穏やかでいられないのは、きっと今日の出来事のせいだ。相変わらずの土砂降りはあたしの心を洗い流してはくれそうにない。畦道を二人で歩く。粘着質な足音がいやに耳障りだ。不意に吹いた突風が傘を飛ばした。空に舞ってすぐに見えなくなった黒にあたしはただ愕然とするばかりだ。傘を見送るあたしの手の中で、するりと手が擦れた。あ、と声を上げるも時すでに遅く、婆ちゃんは田んぼの中に身を浸していた。どんどんと沈んでいく姿にあたしの頭が真っ白になる。ーーー「佐藤容疑者は動機について、楽になりたかったと語っておりーーー」

 はぁ、と荒い息を吐き出しながら、靴を脱がせる。こっちは決死の思いで助けたというのに、当の本人はいつもの阿呆な顔で笑っている。何が面白いのだろう。泥だらけの体は重たくて仕方がない。嫌な気分だ。嫌な予感だ。頭が痛い。頭が痛い。頭が痛くて割れそうだ。あたしは婆ちゃんの手を取って浴室に向かった。水栓のレバーを捻ると冷たい水が出た。それをそのままにして、婆ちゃんの服を脱がせる。ふと、婆ちゃんの手に未だあの鶴が握られているのに気がついた。余程大事なのだろうか。…それならば濡らしてしまってはまずいだろうと、それに手を伸ばす。瞬間、激痛が走った。

「う、ぅ、え?」

 小さく呻く。婆ちゃんがシャワーヘッドを投げたと理解するまでには、数秒を要した。婆ちゃんはいつになく攻撃的な顔つきだった。あたしの額からは赤い液が流れていた。呆然とするあたしに、シャンプーの箱が飛んできた。婆ちゃんはあーと叫び声を上げてあたしを威嚇する。急にどうして?今まであたしに攻撃なんてしなかったのに。その鶴を取られると思ったの?そんなに、それが大事?言葉につまるあたしの額に石鹸が当たる。ズキズキピリピリ。いやな痛みに頭が警鐘を鳴らした。痛い痛い、頭が痛い。痛い痛い痛い!あたし、あたしは!婆ちゃんの肩を掴んで地面に押し倒す。婆ちゃんは眉根を寄せる。あたしは、その細い首に手をかけた。

 ーーー「婆ちゃん、志望校落ちた!」

 ーーー「あらら、だからゲームしてないで勉強しなさいって言ったのに。」

 ーーー「もうダメだ!あたしお先真っ暗だぁ!」

 ーーー「まったく、大袈裟ね。たかが高校でしょうに。」

 ーーー「でも、高学歴じゃないといい仕事つけないじゃんか!」

 ーーー「あのねぇ、人生ある程度失敗するもんよ。大丈夫だって、あんたいい子だから、神様がちゃんと幸せにしてくれるわ。」

 婆ちゃんは優しくて、あたしのことを一番に考えてくれて、辛い時は慰めてくれて。あんたなんか、あんたなんか婆ちゃんじゃない。婆ちゃんはそんな顔で笑わない。あたしを傷つけたりしない。あんたなんか、偽物。偽物、ニセモノ!ーーーあたしより、そんなただの紙切れが大事だっていうの?

 テレビの電源をつける。チャンネルを操作しても、もうあの事件のことはやってない。あたしはテレビを消してキッチンへ向かう。そろそろ夕食時だ。冷蔵庫を開いて食材を取り出す。今晩は何にしようか。そんなことを考えながら、とんとんと包丁で野菜を砕いた。

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