五節 「土に水が染み込んだ後」

目の前にはだらしなくよだれを垂らしながら眠るジョエルの顔。いつのまに脱いだのか、彼は下半身に何も身に着けていない。上半身の服もほとんど脱げており、ジョエルは全裸に近かった。




(ジョエルの姿を見れば、人によっては誤解するかもしれない)




 ウィ―ダムの方はと言えば服も髪も乱れ、ただ普通に眠っていただけではないというのは明らかだ。加えて、ジョエルに両腕でがっしりと抱きしめられている。腕は背中側に回し、足は両足とも絡め、体全体でウィ―ダムに引っ付いていたジョエルは幸せそうに見えた。


 ジョエルはのんきに寝息を立てていたが、ウィ―ダムの心臓はバクバクと鳴り続けていた。




(前までならよかったが、今の私の体は女性のものだ)




 男と男ならまだしも、今現在抱き合っているのは男と女(の体になったウィ―ダム)なのである。これじゃあまるで、事後みたいじゃないか! 


 ウィ―ダムはジョエルの腕から抜け出そうとして体を激しく動かした。腕を振るわせ、つま先でベッドを蹴る。体全体をばねのように使ってみたりもした。しかし抜け出せない。眠っているはずなのに、ジョエルははしっかりとウィ―ダムの体を捕まえていた。絶妙な力加減で痛みはなかったが、このままでは抜け出せず、リトリーに見られることになるのは明白である。




「ジョエル……起きてください……」




 ウィ―ダムはリトリーに聞こえないよう、しかしジョエルにはよく聞こえるような声量で声を出した。




「起きてください、ジョエル!」




 ウィ―ダムの声は全てジョエルの長い髪に吸われてしまったようで、ジョエルが起きる気配は微塵もなかった。焦るウィ―ダムとは裏腹に、ジョエルの寝顔はずっと穏やかだった。ウィ―ダムと眠れて嬉しいのだろう。彼が起きる気配は未だになかった。




「ジョエール!」




「スピー!」




 リトリーに気づかれないかとひやひやしながら絞り出されたウィ―ダムの声に、ジョエルはまぬけな鼻息で返事をした。




「起きないなら知りませんよ。私、手段は選びませんよ」




 ウィ―ダムはかろうじて動く首を傾けることで、口をジョエルの耳元まで持ってくることができた。




「おーきーてーくーだーさーいー」




 耳元で声を発されてもなお、ジョエルに起きる気配はない。このままではダメだと考えたウィ―ダムは、思いっきり眉をしかめた後、ジョエルの耳にふーふーと息を吹きかけ始めた。




(ジョエルはこうするといつもくすぐったがります。これなら起きるはずです。お願い、起きて!)




 ウィ―ダムは優しく息を吐いたと思えば突然強く、小刻みに吐いていた状態から一気に息が続く限り吐き続けるなどの努力をした。その度にジョエルは敏感に反応した。




「ふう~」




「ん……」




「ふっ」




「んっ!」




「はぁ~。ふぅ」




「んっ……っ!……う~ん」




「ふっ、ふっ、ふ~~! ああもう、起きてくださいよ!」




「スピー」




 頬を赤らめたり、体をねじったり、とにかくジョエルの体はウィ―ダムの行動によく反応した。それでもジョエルが目を覚ますことはなかった。彼は眠り姫のごとく、ウィ―ダムの体を抱きながらベッドに横たわり続けていた。


 ジョエルの反応を見ている内に、ウィ―ダムはなんだか楽しくなってきてしまった。リトリーが怪しんで部屋に入ってくる前に、どんな手段をとってでもジョエルを起こさなければならないのだが、彼の反応を見ているのは楽しかった。




(リトリーはもう部屋に帰ったのかな。さっきから声聞こえないし……うん、多分そうだろう!)




 リトリーがいないのであれば、もう何も心配する必要はない。ウィ―ダムは今の状況を思いっきり楽しんでみることにした。楽しむとは、つまり、眠っているジョエルにいたずらをするのだ。


 ウィ―ダムはまず、もう一度ジョエルの耳に息を吹きかけた。




「ふっ」




「んん……」




 やはりジョエルはとてもいい反応をする。ウィ―ダムはニヤリと笑うと、指をわきわきと動かし始めた。ジョエルに強く抱きしめられ首しか自由に動かすことはできないが、腕の一部や足先だけなら思い通りに動かすことができるのだ。例えばこんな風に。




(ジョエルの脇腹を……こちょこちょ~!)




 ウィ―ダムは腕を動かして自分の指先をジョエルの脇腹に這わせると、縦横無尽に動かし始めた。




(何人もの子供達を倒してきた私のこちょこちょは強烈ですよ!)




 これまで幾度ものこちょこちょ合戦を潜り抜けてきたウィ―ダムは、どのように指を動かせば相手を悶えさせられるのかをよく心得ていた。加えて、ウィ―ダムはジョエルとはもう十年以上一緒にいて、さらに小さい頃から彼を育ててきているのである。その間に何度もあったじゃれ合いで、ウィ―ダムはジョエルの弱点を知り尽くしていた。


 ジョエルは脇腹がとても弱いのである。




「ん!……んあっ」




(こうされるとくすぐったくて仕方がないでしょう!)




 ウィ―ダムはさらに指先を動かし続けた。ジョエルの反応はどんどん良くなってきていた。ウィ―ダムがジョエルの脇腹に指をつぅと這わせると、ジョエルの体はびくりと震えた。




「んうっ」




「いい反応しますね~ジョエル。というかあなた、もう起きてるんじゃんないですか?」




 依然としてジョエルからの返事はない。ウィ―ダムは最終手段として、ジョエルのふわふわの耳を甘噛みし始めた。ここ数年の間はジョエルにも節操というものがついたためやっていなかったが、彼が子供の頃有り余る元気で暴走して止められなかった時などは、こうして甘噛みをするのだ。すると、ジョエルは嫌がるのだが、体の力が抜けてしまうのか暴れるのをやめるのだ。


 今でも同じかはわからなかったが、それはどうでもよいことだった。単純にウィ―ダムが、久しぶりに噛んでみたいと思っただけなのだ。




「あ、はっ」




 かぷり、かぷり。決して強くはないが、確かにその感覚を主張する甘噛みは、眠っていたジョエルの無意識を徐々に溶かしていった。本来ならば、ジョエルはもうずっと前に起きていてもおかしくはなかった。耳に息を吹きかけられ、体をまさぐられているのである。常人あれば、起きないはずがいない。


 しかし、今日のジョエルの眠りがとても深かったことと、ウィ―ダムに抱かれているという安心感が彼を包み込んでいた。本来眠りを浅くするはずの刺激も、今の彼にとっては眠りを促進するアロマや、心地よい調べの音楽と同じだった。


 余計なことはせずに、最初の声掛けだけを続けていればきっとジョエルは目を覚ましていただろう。ウィ―ダムは自らの手で、ジョエルの眠りを深くしていたのである。


 そうとも知らないウィ―ダムは、好き放題にできたおかげですっかり満足していた。




(こうして一緒に寝ていると、ジョエルがもっともっと小さかった時のことを思い出しますねぇ……)




 幼いころのジョエルは、暴れん坊で、自由奔放だった。今でも根本的なところは変わっていないが、それでも昔と比べるとずいぶん落ち着いたものである。


 ウィ―ダムはジョエルの髪に顔を埋めた。髪が頬に擦れてくすぐったかった。




(落ち着いたといっても寝相は年々ひどくなるし、服を脱ぐ癖も治ってませんけどね……。いっそのこと、孤児院の中では服を着るのも脱ぐのも自由ってことにしましょうか……)




 リトリーがいなくなったという安心感と、朝のまどろみでウィ―ダムの思考が危ない方向に進んでいると、突然部屋の外から物音が聞こえた。




「お父さん?」




 部屋のドアがノックされ、リトリーの声が聞こえてきた。




「リト……!」




 ウィ―ダムは慌てて自分の口を閉じた。彼は自分の部屋に戻っていなかったのだ。


 今リトリーをこの部屋に入れるわけにはいかない。自分とジョエルの今の姿を見たリトリーが誤解して、他の子達に何か言うかもしれない。いや、リトリーならば誤解するような知識もないだろうが……他の子達は別である。ませたコルトがその意味を分からないはずがないし、しっかり者のパトリックなんかに聞かれれば、たちまちウィ―ダムの信頼は地に落ちるだろう。


 仕事で大きなミスをした時にパトリックが見せた、心をえぐる失望の表情がウィ―ダムの頭に浮かんだ。




(とりあえず今は寝たふりをしておきましょう)




 あれこれ考えたところで、ジョエルが起きない以上身動きがとれないことは変わらないので、とりあえずウィ―ダムはじっと目をつむってリトリーが去るのを待つことにした。




「……お父さん?」




 再び聞こえたリトリーの声は少し小さかった。彼がどうしてこの部屋に来たのかはわからないが、あきらめて帰る気になってくれたのだろうか。




(今私は寝てます。ですので一度部屋に帰ってください)




 ウィ―ダムの祈りは誰にも届かなかった。木製のドアが軋んだ音を立てながらゆっくりと開き始めた。


 開いたドアの隙間から寝巻き姿のリトリーが顔を覗かせた。彼は小さな声でウィ―ダムに問いかけた。




「寝てる……?」




(起きてます。が、寝てます)




 リトリーは部屋の中を見回し、ウィ―ダムと共にベッドで眠るジョエルの姿を認めると、一瞬動きを止めた。その後、足音を立てないよう静かに歩きながら、ウィ―ダム達が眠るベッドに近づいてきた。ばっちり目が覚めているウィ―ダムには、リトリーの小さな足音がまるで死刑宣告のカウントダウンのように聞こえた。




「スピー」




 リトリーが近づいてきてもまだ、ジョエルはまだまぬけな鼻息を出していた。




「ピスー」




 リトリーがベッドを覗き込む気配がしたので、彼に起きている事を気づかれないよう、ウィ―ダムはジョエルのまぬけな鼻息をまねした。




「ピスー……ピスー……」




 鼻がつまっていたのでおかしな音の鼻息が出た。


 しばらく経ったが、リトリーが動く気配はなかった。彼はじっとしたまま、ウィ―ダムとジョエルの顔を覗き込んでいるようだった。




「…………」




 沈黙が続いた。静寂に耐えきれずウィ―ダムは寝返りを打とうとしたが、ジョエルのせいでできなかった。ウィ―ダムの体からは緊張で汗がダラダラと流れ始めていた。


 そのうち、リトリーがジョエルの体を揺すり始めた。




「ジョエル起きて」




 ジョエルの体が揺れると抱きしめられているウィ―ダムの体も揺れる。ゆさゆさ。




「起きて、ねぇ」




 ジョエルが起きないからと、リトリーがもっと彼の体を揺らす。ゆっさゆっさ。




「ジョエル」




 さらに揺らす。基本的に目覚めの悪いウィ―ダムは、ちょっと気持ち悪くなってきた。このまま揺すられ続けると吐き気がこみ上げてきそうである。




「……ん、なにぃ?」




 変わらずウィ―ダムに抱きついたまま目を覚ましたジョエルは、気だるげに片目だけを開いてリトリーを見つめた。


 リトリーがジョエルに向かって言った。




「お父さん苦しそうだよ」




 リトリーの目から見ても、ウィ―ダムはジョエルにがっちりホールドされていた。




「え? あっ、パパ」




 すぐ目の前のウィ―ダムに気がつくと、ジョエルは頬に当たる髪に愛おしそうに頬ずりした。それから、体全体を使ってもう一度抱きしめた。




「おはよ~」




 ジョエルは上機嫌だった。昨晩のことはばっちり記憶に残っていたからだ。




「ジョエル、お父さん起きちゃうよ」




 リトリーが言った。




「パパ~起きて~」




「寝てるんだから起こさないであげようよ」




 ジョエルが驚いたような表情をしてリトリーを振り返った。




「そういえば、どうしてリトリーがいるの?」




 今更である。




「起きたらジョエルがいなかったから、お父さんのところに行ってると思って」




 リトリーとジョエルは普段同室で眠っている。だから目を覚ましたリトリーは、すぐにジョエルがいないことに気がついたのだろう。


 ハニーもリトリー達と同室だが、彼の眠りはいついかなる時も深い。毎朝誰かが起こしに行かなければ、昼過ぎまで寝ているほどだ。




「そうだよ~。お父さんと寝てたの」




「いいな。ボクも一緒に寝たかった」




 リトリーが言うと楽し気な顔から一転、ジョエルは表情を曇らせた。




「リトリーは……ダメだよ」




「どうして?」




 ジョエルは頬を赤らめ、もう一度ウィ―ダムを抱きしめた。今度は優しさがこもった繊細な手つきだった。




「だって、昨日パパと好きな……」




「おはようございます!」




 このままではまずいと思ったウィ―ダムは、大声でジョエルの声をかき消した。突然目を覚ました(ように見える)ウィ―ダムに驚いて、ジョエルは目を見開いた。リトリーは思わず両手を胸の前に持っていった。




「わっ」




「うわぁ。パパおはよう」




 ジョエルはウィ―ダムににこりと笑いかけた。




「おはようございます。起きたいので離れてくれますか? ジョエル」




「うん」




 今までの努力はなんだったのか、ジョエルは簡単にウィ―ダムから体を離した。


 ウィ―ダムは焦りが表情に出ないよう意識しながらリトリーに声をかけた




「リトリーもおはようございます。今朝は早いですね」




「目が覚めちゃって……」




 リトリーはもじもじとしながら、少し伏し目がちに答えた。




「でしたら、皆が起きるまで散歩でもしますか」




「うん!」




 ベッドから体を起こすと、ウィ―ダムはリトリーの手を握って部屋の外に連れ出した。彼をそのまま部屋に残しておくわけにはいかない。少なくとも、ジョエルへの説得が終わるまでは。




「今から着替えるので、少し外で待っててください」




 リトリーはウィ―ダムの様子を疑う素振りも見せず頷いた。




「わかった」




 ウィ―ダムが部屋に戻ると、ジョエルがベッドから立ち上がっていた。彼はまだ下半身裸のままだったが、それを気にした様子はなかった。


 ジョエルは大きく体を伸ばした後、ふぅ~と息を吐いて言った。




「僕も散歩行く~」




「その前に服を着ましょうね」




 ジョエルのパンツとズボンはベッド脇に転がっていた。ウィ―ダムは拾ってジョエルに着させようとしたが、昨晩のことを思い出して自分の服を着させることにした。女性の体になる前に着ていた普通の服である。今のウィ―ダムが着ようとしても、どれもサイズが大きすぎて服の体裁を成さない。


 ウィ―ダムは衣装箱から適当に取り出したズボンとシャツをジョエルに渡した。




「あ、パンツは……」




「そこに落ちてるよ」




 ジョエルは床のパンツを指差してから、それを拾い上げようとした。


 ウィ―ダムはたしなめた。




「あれはダメです。昨日……使いましたし」




「えへへ、そうだね」




 ジョエルは照れた様子もなくむしろ嬉しそうだった。ウィ―ダムはひどく心配になった。この調子では、ジョエルは昨晩のことを喜んで皆に言いふらしてしまいそうである。


 そうなった場合、ウィ―ダムは息子達にどんな顔をして会えばいいのか分からない。




「ジョエル、昨日の夜のことなのですが……皆には言わないでくださいね?」




「え、どうして?」




 意外そうな表情でジョエルが言った。思った通り、彼は皆に言うつもりだったようである。




「こういったことは、あまり周りに言うものじゃないんです。もちろん私も言いません。ですから、昨日のことは……二人だけの秘密にしましょう」




 ウィ―ダムは苦肉の策をとった。できることなら忘れてくれといいたかったが、ジョエルはあまりにも近しいところにいる存在だ。突き放して終わりというわけにはいかない。であれば、せめて何かいい案が思いつくまでは誰にも言わず、秘密にしておいてもらいたい。




「でも、みんなに言いたいよ」




 ウィ―ダムの言葉がショックだったのか、ジョエルは悲しげだった。彼の中では昨晩のことは、ウィ―ダムと違い恥ではなく喜ばしいことだったのである。


 ジョエルはウィ―ダムに親愛の情を抱いていた。それがウィ―ダムの変化をきっかけに違うものになったとして、ジョエルの中では、以前と変わらずウィ―ダムを愛しているのだ。ならばそれに胸を張るのは間違っているのだろうか? ジョエルは喜びと寂しさが混じり合って複雑な気分だった。




「私もそうです。けれど、いきなりその……好き同士になったって聞いたら、みんなびっくりするでしょう? ですから打ち明けるタイミングは私に任せてくれませんか?」




 方便である。ウィ―ダムには皆に打ち明けるつもりはなかった。


 ジョエルは納得していないようだったが、ウィ―ダムがもう一度お願いすると頷いてくれた。




「わかった」




 ジョエルがウィ―ダムのすぐ目の前に寄ってきて、甘えるような声を出した。




「ねぇ、今日の夜も一緒に寝ていい?」




「それは……」




 これ以上過ちを犯さないためにも、了承するわけにはいかなかった。しかし、突き放すのも冷たいだろう。ウィ―ダムは悩んだ末、答えを後回しにすることにした。




「今日はもしかしたら、町の方で泊まってくるかもしれないので一緒に寝れないかもしれません」




「じゃあ僕も町に行って、パパと同じとこに泊まる」




 ウィ―ダムは首を横に振った。




「私がいない間は、ジョエルに皆の面倒を見て欲しいんです。お願いできますか?」




「……うん、わかった」




 ジョエルは眉をしかめたまま頷いた。




「ありがとうございます。さぁ、リトリーが待ってます。散歩に行きましょう」




「うん! パンツはどうしよっか」




「あー……」




 部屋に取りに行かせようとも考えたが、もしかしたらまだ寝ている子達も起こしてしまうかもしれない。それなら、この部屋にあるものを使わせた方がいいだろう。




「洗ってあるので、私のでもいいですか?」




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




 ウィ―ダム達は孤児院の中庭を歩いていた。ここにはウィ―ダムと子供達が作った小さな花畑と井戸、加えて木で作られたテーブルと椅子が設置されている。昼時であれば何人もがここで体を動かし騒がしくしているが、まだ薄暗い今はウィ―ダム達しかいなかった。




「早起きすると空気が冷たくておいしいねぇ」




 ジョエルがくるくると回ってスキップしながら言った。リトリーとウィ―ダムは手をつなぎながらのんびり歩いていた。




「そうですね。この時間帯は涼しくてとても快適です」




 ジョエルは井戸に駆け寄ると、縁から体を乗り出して中を覗き込んだ。




「あ~」




 井戸の底からジョエルの声が反響して返ってくる。それが面白くてジョエルは同じ動作を何度も繰り返した。




「ジョエル、また落ちますよ」




「もう落ちないよ。それに落ちてものぼってこれる!」




「そういう問題じゃありません。人が落ちたら水が汚くなるでしょう」




「はーい」




 以前に一度落ちそうになったことがあるのだが、ジョエルはちっとも反省していないようである。


 ウィ―ダムは井戸から水を汲み上げた。バケツにたっぷりと入った水は肌を刺すように冷たく、顔を洗うと一気に眠気が吹き飛んだ。ウィ―ダムに続いてジョエルとリトリーも冷水を顔に浴びた。




「冷たー!」




「冷たいね」




「目が覚めます」




 ジョエルが井戸のすぐ横に置かれていたバケツを指しながら言った。




「パパ、体洗ってもいい?」




「私達しかいませんし、いいですよ」




「やったー!」




 ウィ―ダムが許可するや否や、ジョエルは着ていた服を脱ぎ散らかし頭から井戸の水をかぶった。地面に跳ねた水がリトリー達にかかり、その服を少しだけ濡らした。




「いつ見ても豪快ですねぇ。本当に寒くないんですか?」




「寒くないよ~」




 ジョエルはウィ―ダムが森の中に薪を取りに行っている最中に出会った獣人である。ウィ―ダムが彼を見つけたのは今から十二年前。その時のジョエルは一人で、体中を泥で汚し服すら身に着けていない状態で歩いていた。何らかの手段で食事はしていたのか痩せてはいなかったが、言葉も話せずまさに野生児といった様子だった。ウィ―ダムが話しかけると、彼は何の疑いもなく近づいてきた。そしてそのまま孤児院の一員になった。


 言葉が話せるようになってから、以前はどこで暮らしていたのかとウィ―ダムが質問したが、何も覚えていないらしかった。成長したジョエルは流暢な言葉を話せるようになったが、服を着ないで過ごしていた時期の癖が抜けず、何かと服を脱いではその格好のまま過ごしたがる。それでも獣人の身体的頑強さのおかげか、腰まである長さの、綿毛のように柔らかい赤みがかった桃色の髪のおかげか、ジョエルはこれまで一度も風邪をひいたことがない。




「ボクも水浴びしようかな」




 ジョエルの様子を見ながらリトリーが言った。




「リトリーはやめておきなさい。きっと風邪をひいてしまいますよ」




 冷えた早朝に頭から冷水を浴びるなど、ジョエルにしかできない芸当である。




「じゃあパパ一緒に浴びる?」




 ジョエルはバケツに入った冷水を怪しくタプタプと揺らした。ウィ―ダムは首を振った。




「遠慮します。絶対私も風邪をひきます」




「気持ちいいのに~」




 もう一度勢いよく水を頭上から浴びると、顔に引っ付いた髪が気になったジョエルは激しく頭を左右に振った。ジョエルの髪がビチビチと音を立てながら暴れ、周囲に水しぶきを飛ばした。




「ばっ、ジョエル! それをしたら周りの人にかかるって言ったでしょう!」




「ごめ~ん」


 ジョエルはけらけらと笑いながら言った。


 ウィ―ダムとリトリーはジョエルから離れた位置に置かれている木製の椅子に座った。気づけば空は白み始めていた。もうすぐ太陽が昇り朝になるだろう。


 リトリーがもぞもぞと体を動かしてウィ―ダムの膝の上に座った。




「お父さん」




「どうしました」




「今日はボクも一緒に寝ていい?」




 リトリーはウィ―ダムがジョエルと一緒に寝た事を気にしているようである。




「おや、珍しいですね。この前は自分の部屋で寝るって言ってませんでしたか?」




「うん。そうだけど、今日はお父さんと寝たいなって。ダメ?」




 リトリー含め孤児院の子供達は3~4人ずつで一つの部屋を共有している。ウィ―ダムは一人部屋を使っているが、たまに誰かが部屋を訪れてきて一緒に眠ることがあった。




「もちろんいいですよ」




「やった。さっきジョエルがお父さんと寝てるの見て、羨ましかったんだ」




「そ、そうですか」




 ウィ―ダムは一瞬だけうろたえた。今までの様子から分かっていたが、リトリーはウィ―ダムがジョエルとただ一緒に眠っていただけと思っているらしい。これならば、リトリーが誰かに今朝のことを伝えても、ジョエルが何か言わない限り二人の秘密は漏れないだろう。




「そっちの部屋ではよく眠れてますか?」




「うん。だけどジョエルがすごく寝相悪くて、いつも寝言言ってたりベッドから落ちてたりするんだ」




「ふふ、ジョエルらしいですね」




「でも今日はすごくぐっすり寝てたみたい。ベッドから落ちてなかったし、お父さんと一緒に寝たからかな? それとも、何かすごく疲れることがあったのかな」




「え?」




 リトリーが振り返ってウィ―ダムを見つめていた。クリーム色の髪に隠れて彼の目は見えなかったが、なぜだかウィ―ダムは全て見抜かれているように感じた。




(……考えすぎだ。リトリーはまだ子供なんだから。ほんのさっきまでジョエルに抱かれていたから、少し神経質になっているだけだ)




「昨日は、ジョエルはお風呂ではしゃいでましたからね。多分そのせいでしょう」




「ボクもそう思う」




 ウィ―ダムは髪に沿ってゆっくりとリトリーの頭を撫でた。


 井戸の隣で、ジョエルは二人を気にした様子もなく水浴びを続けていた。




(昨日お湯に浸かれなかった分、しっかり体を洗わないと!)


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