四節 「溶けてしまった壁は、肉体の一部となった」

「禁忌……ですか」




 額に汗を垂らし、緊張した面持ちでライアンが言った。




「そうだ。トランス教の聖典に書いてあるだろ? 俺でも知ってるってのに、どうしてお前らが知らねぇんだ」




「僕はそこまで真剣に聖典を読んだことがありません。ですが……先生?」




 ウィ―ダムはぶんぶんと勢いよく頭を振った。ケネスの言った言葉は、ウィ―ダムの記憶と違っていた。




「わ、私は暗記するくらいしっかり聖典を読んでますよ! ですから、性転換が禁忌だなんてどこにも書いてなかったと断言できます!」




「そりゃおかしいぜ。俺が読んだのには確かに禁忌って書いてあった」




「私の方には禁忌なんて書いてませんでした!」




 ウィ―ダムはひどく動揺していた。ライアンはウィ―ダムの肩に手を置いて、顔を近づけた。涙目になりかけていたウィ―ダムと目が合った。




「先生、それならまた今度ここに聖典を持ってきたらいいじゃないですか。それで確認できます」




 口喧嘩が始まりそうな二人をライアンが仲裁した。ウィ―ダムは少しの間視線を泳がせた後、ライアンの手に自分の手を重ねることで落ち着きを取り戻した。




「……確かにそうですね。ここで言い合っても意味がありません」




 ウィ―ダムは必死に記憶を掘り起こしたが、やはり聖典には禁忌について何も書かれていなかったと結論づけた。


 ライアンがケネスに目を向けた。




「ケネスさん。ケネスさんはどこでその聖典を読んだんですか?」




「王都だ」




「禁忌について、詳しく内容を教えてもらえませんか?」




「ああいいぞ」




 ケネス曰く、300年程前に性転換の魔法を開発した魔術師が当時の教会の偉い人やその他大勢を篭絡し、権力を思うがままにしていた。だが、正義の心を持つ者達によって魔術師は追い出されトランス教は一新された。それ以来性転換によってで性別を偽ることは、人間が持つ運命を歪ませる邪法として禁忌になった。




「…………」




 ケネスが話した内容は全て、ウィ―ダムにとって初めて聞くものだった。少なくとも教会堂に置かれている聖典には、一切そのようなことは書かれていない。では、ケネスの読んだ聖典は何だったのか? 




(私の持っている聖典と、外にある聖典は違うのだろうか)




 考えたところで答えが出るはずはなかった。ウィ―ダムはすがる様な表情をケネスに向けた。




「……もしそれが本当なら、私が王都に行ったらどうなるんでしょう」




「異教徒で禁忌であることを知らなかったとかならまだしも、神父のお前がやっちゃったんなら……まぁ……」




 ケネスは指で首が跳ねられるジェスチャーをした。王都に行けば処刑されるということである。暑さで赤くなっていたウィ―ダムの顔が真っ青になった。


 ウィ―ダムは音を立てて椅子から立ち上がった。




「そんな、いくらなんでもやりすぎじゃないですか!? トランス教ってそこまで影響力あるんですか!?」




「国教ではないが、かなり大きいからな。というか、どうしてお前が知らないんだよ。神父だろ?」




「神父ですけど、他のトランス教の方とは手紙でしかやり取りしたことありませんし……この町から出たことないので……」




「はぁ、知らなさすぎだろ」




 ウィ―ダムは両手で頭を抱えた。その横ではライアンが、うつむいてなにやら考え込んでいる。




「どうしましょう、これじゃ王都に行けませんし、もしトランス教の方がこの町に来たりしたら即告発じゃないですか……!」




「あきらめて孤児院に籠ってるのがいいんじゃねぇか? 今なら町のやつらにもそこまで知られてないだろうし」




「それだ!」




 ケネスの言葉に反応して顔を勢いよく上げたライアンは、名案を思いついたと言わんばかりに自信に満ちた表情でが言った。




「どうした、ライアン」




「知られてないんですよ、先生のことは! 先生は手紙でしか外と交流してませんから、他のトランス教の人達は先生が男だと知らないはずです。ですよね?」




「え、ええまぁ。報告書には収支くらいしか書きませんし」




「なら、先生が女性の姿で王都に行っても誰にも疑われないはずです!」




「なるほどー!」




青ざめた表情から一転、ウィーダムは満面の笑顔でライアンの頭をわしゃわしゃと撫でた。




「さすがライアンです。偉い。すごい!」




「う、うん……ありがとう……ちょっと恥ずかしい……」




 ライアンは恥ずかしそうに、しかし嬉しそうにウィ―ダムの顔を見つめた。


 ウィ―ダムはすっかり晴れやかな気分だった。王都の人間に気づかれていないのであれば、何の心配もする必要はない。一刻も早く王都に行って、男の姿に戻してもらったらついでに観光でもしてこよう。ジョエル達にもたくさんお土産を買ってあげよう。




「これなら何の心配もなく王都に行けます。あ、町長、その間孤児院のことを頼みたいんですが、お願いできますか?」




「それはいいが、万が一王都で男だと気づかれたらどうする気だ?」




 ケネスはまだウィ―ダムが王都に行くことについて賛成していないようだった。




「大丈夫ですよ、ライアンだってこの姿を女性らしいって言ってくれましたし」




ウィーダムは自信たっぷりに言った。例えに出されたライアンはあたふたして両腕を無意味に動かした。




「女性らしいのは見た目だけだろ。今のお前の話し方とふるまいは、どう贔屓目に見ても修道女じゃない。男のものだ」




「それがなにか?」




「なにか? じゃねぇよ。そのままじゃ疑われるかもしれねぇんだぞ」




 服装も言動も男のウィ―ダムが王都に行けば、すぐには性転換したと気づかれなくても、怪しまれるのは確実である。ポット町と比べ多くのトランス教信者がいる王都では、何気ない言葉の一つでも致命傷になりかねないのだ。




「大丈夫ですって~。多分」




 ケネスの心配を気にした様子もなく、ウィ―ダムは能天気だった。




「多分じゃない! その余裕はどこからくるんだ……。ケイト!」




 ケネスが後ろを振り返り、壁際で待機していたケイトに手招きをした。




「はい」




 ケイトが近づいてくると、ケネスは彼女に体を寄せて言った。




「ウィーダムに女らしさってもんを教えてやってくれ。俺じゃあ分かんねぇからよ」




「かしこまりました」




「えっ、そんな、いいですよ」




(面倒そうだし)




「遠慮すんな」




 ケネスがウィ―ダムに向けてニヤリと笑った。




「遠慮してないです」




 ウィ―ダムの背後にケイトが歩み寄って来た。両肩に手を置いた。




「では、行きましょうか。ウィ―ダムさん」




「……なにを教えてくれるんですか?」




「最低限女性らしいふるまいと、ウィ―ダムさんが今の体になってから困ってることをお教えします」




 困ってることと言われ、ウィ―ダムは今朝のトイレでのことを思い出した。しかし、そんなことを親しい女性から教わるなんてあまりにも恥ずかしい。そもそもどうやって教えるつもりなのか。


 ウィ―ダムはライアンを餌にして逃げることにした。




「……あっ、ライアン! そろそろ出発しないとですよね?」




「まだ大丈夫です。急ぐ必要はありませんから……」




「いえ、早めに出発しましょう。道中何が起きるかわかりませんからね」




 ライアンの腕を取ると、ウィ―ダムはそそくさと立ち上がった。




「というわけで町長、話の続きはまた今度ということで……」




「お前の方から来たんじゃなかったか」




 ウィ―ダムはケネスの話を聞かずに出口へと向かった。腕を引かれながら、ライアンがケネス達に別れの挨拶をした。




「失礼します。先生をよろしくお願いします」




 部屋のドアが閉じられ、室内にはケネスとケイトの二人だけになった。ケネスが立ち上がり窓から外を見ると、少し楽しそうに走るウィ―ダムの姿と困ったような表情のライアンが見えた。


 ふぅと息を吐いたケネスは椅子に座り直して言った。




「アイツは子供の頃からちっとも変わらないな。女になってもそのままだ」




「そうですね。でも、ああ見えて孤児院ではとてもしっかりしてらっしゃるんですよ」




「しっかりしてるのはライアン達だろ?」




 ケイトが口に手を当てて笑った。




「ケネスは滅多に孤児院に行かないから知らないんですよ」




「どうだか」




 ケネスはもう一度、大きく息を吐いた。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




 ポット町の外れ、隣町へと続く道の前でライアンが連絡馬車に乗り込もうとしていた。もう出発の時間は間近である。




「じゃあ、もう行きますね」




 ライアンの言葉に、ウィ―ダムは名残惜しさを感じながら返事をした。




「はい、気をつけて行くんですよ」




「先生こそ。あっちでの仕事が終わり次第すぐ帰ってきますから、それまで色々気をつけてくださいね?」




 ライアンも名残惜しさを感じていた。時間があればウィ―ダムに寄り添ってあげていたかった。しかし、ライアンを待つ人物はここだけでなく王都にもいるのだ。




「私も何か起きたら嫌なので、教会に籠ってますから大丈夫ですよ」




 それでも心配である。ライアンはポケットから小さなコインを取り出し、ウィ―ダムに渡した。




「これは?」




「お守りです。持っててください」




 金色のコインの表面には、奇妙な紋様が刻まれていた。文様の精巧さから、露店で売ってるような安物でないことが窺えた。




「ありがとうございます。これはどこで買ったんですか?」




「知り合いにもらったんです。その人有名な魔術師なんですよ」




 王都でのライアンの人脈は、ウィ―ダムが思っているよりずっと広い。彼の仕事が多岐に渡るものであるからだ。




「でしたら、これは貴重なものではないのですか?」




「いいんですよ。僕が持ってるより、先生に持っておいてもらった方がいいですから」




 ライアンの後ろで、他の乗客達が続々と馬車に乗り込み始めた。とうとう出発の時間が来たようだった。


 ライアンがウィ―ダムの手を握ってから言った。




「先生、この後ちゃんとケネスさん達の所に行ってくださいね。お守りも忘れずに持ち歩いてくださいね」




 こうして言い聞かせなければ、なんやかんやと言い訳をつけてしばらくケネスを訪ねないのがウィ―ダムである。ライアンは十八年の経験からウィ―ダムがそうであると知っていた。


 ウィ―ダムは朗らかに笑った。




「大丈夫ですよ。心配しないでください」




 ウィ―ダムがポケットにお守りのコインをしまうのを確認してから、ライアンは馬車に乗り込んだ。間もなく馬車は出発し、ライアンの姿は森に遮られて見えなくなった。








「ふぅぅ~」




 教会堂にウィ―ダムの大きな溜息が響いた。現在の時刻は午後二時頃。子供達は自由に中庭や自室で過ごしており、ウィ―ダムは一人だった。




「どうしましょうか……」




 ウィ―ダムの頭を悩ませるのは、数時間前にケイトと共に確認した自身のステータスであった。


 ステータスとは特別な水晶型の装置を使い、その人間の能力を数値化し、言葉で具体的に表したものである。例えば一般的な成人男性がステータスを計測すれば、体力B、筋力B、魔力Eなどの数値で表示される。この部分においてはウィ―ダムは見た目相応のステータスだったのだが、問題はもう一つのスキルの部分にあった。剣術が得意であれば剣術、魔法が得意であれば炎魔法、職人であれば〇〇職人など、本人が持つ才能を言葉で表したものがスキルである。神父であるライアンの場合、聖職者や教育者と表示されるはずであったのだが、実際に表示されたのは「魅了」と文字化けして読めない何かの二つであった。




(魅了って、まさか私が淫魔にでもなったと? しかももう一つ訳の分からないものがあったし……どうすればいいんでしょう)




 ケイトはウィ―ダムのスキルを口外したりはしないと言っていたが、それでは足りない。訓練で制御する方法を覚えるか、何らかの特別な手段を使わなければ、スキルとは本人の意志とは関係なしに発揮されてしまうものなのである。熱いものを触ると反射的に手を引いてしまうように、火がついた焚火が、薪がなくなるまで燃え続けるように。もしウィ―ダムが町に出れば、勝手に魅了が発動し誰かに影響してしまうだろう。




(今考えれば、昨晩ライアンが私に迫ってきたのも魅了のせいだったんでしょうね)




 であれば私のすることは一つだ。ウィ―ダムは教会堂を出た。しばらく町に出なくてもいいよう、溜まった雑務を全て終わらせるためである。のんびり屋(面倒くさがり屋ともいう)のウィ―ダムは基本的に期日ギリギリまで雑務を終わらせない。パトリックが雑務の大部分を手伝ってくれているが、重要な部分はウィ―ダムが確認する必要がある。これによりウィ―ダムの自室に溜められる大事な書類は増えていくばかりなのである。


 孤児院の廊下を歩いていると、正面から獣人のジョエルが明るい表情で歩いてきた。




「あ、パパ。探してたんだよ!」




 ウィ―ダムを見つけるとジョエルは小走りで駆け寄ってきて、そのまますんすんと鼻を鳴らし始めた。


 ジョエルの行動を見て心配になったウィ―ダムは、自分の服の匂いを確認してみた。先ほど外でたくさん汗を流したせいか、服からは強い汗の臭いがした。




「私、匂いますか?」




「うん!」




 あまりにもジョエルがいい笑顔で言うので、ウィ―ダムはショックを受けた。体臭を気にする性格ではないが、こうも正面切って言われると辛かった。




「……そうですか、今日はしっかり体を洗わないとですね」




「え、違うよパパ! そういう意味じゃなくて、パパはいい匂いだよ」




 ジョエルは慌てて頭を左右に振った。ジョエルは本心でいい匂いだと言ったのだが、ウィ―ダムには上手く伝わらなかった。




「ありがとうございます。今日は久しぶりにお湯を溜めましょうね」




 お湯をたくさん沸かすのは手間なので、普段は小さな桶にお湯を入れて頭から浴びるだけである。全身で入れるよう浴槽にお湯を溜めることもあるが、その頻度は少ない。そのため、ウィ―ダムがお湯を溜めることを伝えると子供達は皆喜ぶのであった。




「ホント? やったぁ!」




「あとでジョエルも手伝ってくださいね。それで、私を探してたいたのですよね?」




「……そうだっけ」




 ジョエルはこてんと首を傾けた。彼は目の前の物事に集中するのは得意だが、忘れっぽいのである。




「さっき言ってたじゃないですか。私を探してたって」




「言ってたような……でも、なんで探してたか忘れちゃった」




 ジョエルがウィ―ダムに抱きついた。以前とは違い、ウィ―ダムがジョエルの胸に顔を埋める形である。




「多分パパに会いたかったんだと思う」




「おや、それは嬉しいですね。では、また会いたくなったら私の部屋に来てくださいね。具体的に言うと、お風呂を溜める時間になったら来てくれると嬉しいです」




「わかったー!」




 そう言ったが、ジョエルはすぐにはウィ―ダムから離れようとしなかった。そのうちリトリー達もやって来て、ウィ―ダムはもみくちゃにされた。




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 夜になり、ウィ―ダムは子供達と協力して浴槽にお湯を張った。普段通り子供達の体を洗ってあげるため一緒に入ろうとしたが、変わってしまった自分の体を見て思いとどまった。




「なー先生も一緒に入ろうよー」




 脱衣所で年少組の着替えを手伝っていると、すでに全身が濡れているコルトがウィ―ダムが着ているシャツの裾を引いてきた。




「私は後で入りますから、皆でゆっくり入ってきてください」




「えーー。入ろうぜー」




「コルト、濡れるからあまり服を引っぱらないでください」




「じゃあ服が濡れたら入る?」




「どういうことですか……あっコルト!」




 コルトは濡れた体でウィ―ダムにべたべたとくっついた。




「ほらー、服濡れたしもう中入ろうぜ?」




「ですから私は入りません。もう出るならきちんと体拭くんですよ」




「ちえー」




 お湯に浸かり寝巻きに着替えた後、ウィ―ダムは着ていたシャツとズボンを中庭に干しに出た。外は冷えていたから、ウィ―ダムは服を吊るすと急いで建物の中に戻った。物干し竿に吊るされたズボンの中でコインが輝いていた。








 夜、ウィ―ダムは自室で毛布にくるまりながらもんもんとしていた。頭をよぎる悩みは数え切れないほどある。王都に行ったとして、無事に過ごせるのか。無事に過ごせたとして、目的を果たせるのか。変わってしまった自分に理解を示してくれたライアンがいない今、ウィ―ダムの不安を紛らわしてくれるのは子供達だけだった。あの子達は今までと変わらず接してくれる。気兼ねなく触れ合える。


 前触れなく、ウィ―ダムの部屋のドアがノックされた。体を起こしたウィ―ダムは訝しみながらドアを開いた。




「パパ……」




「ジョエル」




 乱れた寝巻き姿で、ジョエルが切なげな瞳でウィ―ダムを見つめていた。ジョエルは頬を薄い赤に染め、熱っぽい表情をしていた。




「眠れないんですか?」








(性的表現が含まれるため、この部分の文章は移行しました)




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 頬にかかる寝息でウィ―ダムは目を覚ました。窓から見える景色は薄暗く、まだ完全に夜が明けていないことがわかった。ベッドの脇には毛布が転がっており、誰かが寝ぼけて蹴とばしてしまったのだろうと思った。腰と肩に回された腕のせいで身動きがとれず、さらに体をぴったりと寄せられているため暑かった。ジョエルの幸せそうな寝顔を見て嬉しくなるのと同時に、やってしまったという後悔が襲ってきた。


 どうすればいいのだろう。ウィ―ダムは起きようとも寝直そうとも思えず、ぼうっと体を横たえていた。昨晩と同じように、何の前触れもなく部屋のドアがノックされた。




「お父さん?」




 リトリーの声だ!

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