第9話 やりたい事が在れば堂々と宣言してみる
日本人はよく「謙虚」だというイメージで捉えられがちですが、最近はそのイメージも弱含みの傾向であるように思います。それはそれとして「謙虚」とは何かと紐解いてみると、
『謙遜で、心にわだかまりのないこと。ひかえめで、つつましやかなこと。へりくだって、つつましやかにすること。また、そのさま。』
(出展:コトバンク)
という意味だそうです。
また「遠慮」はどうかと言うと
1 :人に対して、言葉や行動を慎み控えること。「遠慮なくいただきます」「年長者への遠慮がある」「この部屋ではタバコは遠慮してください」
2 :辞退すること。また、ある場所から引き下がること。「せっかくですが出席を遠慮します」「君は遠慮してくれ」
3 :遠い将来のことを思慮に入れて、考えをめぐらすこと。遠謀。「深謀遠慮」
4 :江戸時代、武士や僧に科した刑罰の一。軽い謹慎刑で、自宅での籠居(ろうきょ)を命じたもの。夜間のひそかな外出は黙認された。
(出展:コトバンク)
だそうです。
上記、4:の意は初耳ですが、個人的には現代日本に於いて「謙虚さ・謙遜」を履き違えている人が多いような印象です。「遠慮」も同様です。この事は特に若者に多く見受けられます。
その具体例を挙げます。
①「いいえ、大丈夫です」
⇒「遠慮」する際に使用するよく聞かれる言葉のようですが意味不明です。上記の意を鑑みると「遠慮」を表現したワードではありません。「自分の何が」大丈夫なのか?を指している対象が曖昧過ぎます。結局のところ「やんわりしたお断り」の表現であり、「遠慮」の表現ではありません。(現代語法としては真意を分かっています)
上記語彙で言えば、1:と2:に該当するかと思いますが、「辞退する事が大丈夫」なのか?よく分かりません。小学生には分からないでしょう。(実際大丈夫を日常使用して理解してそうですが)
「大丈夫」=「慎み控える」「辞退すること」とも違うような気がします。ですから、この言葉を何かの申し出等をお断りするシチュエーションで使用する事は、はっきり言って「遠慮」を表現している口語用法ではありません。
正しく言えば「遠慮致します」や「いりません、必要ありません」ですが、「いりません、必要ありません」と言うと「相手に悪い」ので、表現を角の立たないようなワードにすり替えたという意である事は頷けます。それは或る意味「遠慮」と意味合いを含んでいるのでしょう。
当初、この表現を使用した人にはその意があった事は汲めますが、一般普及するに従い「こう言っておけば相手がひくだろう」との暗意があるような気がします。ですので「遠慮」の表現であった(であろう)最初に使用した人の本意が変わってしまっていて、語気を強めていれば「要らねぇんだよ、この野郎」と思ってニコニコしながら言っているとしたら空恐ろしいです。
②自分にとって嫌な事、めんどくさそうな事は「遠慮しておくわ」と言って
やんわりと避ける
⇒これも「辞退する」と言う意ですが、使用方法・真意が①と同じです。
「嫌だから」「めんどくさいから」「やらない」と言えないので、すり替えが起こっています。 確かに私もその気持ちは十分分かりますし、不用意に使用していると思いますが。ですが「遠慮」の真意を理解した用法ではありません。単なる「お断り」です。
「言葉も進化していくもの」というのは世の常ですが、先人の編み出した単語・言い回しを無碍にして都合よく、響きがいいからという理由で作り変えるのは如何なものかとも思いますが、それも時代の流れなら仕方ありません。しかし、その「本意」をかすめ取るくらいの表現を編み出して行って欲しいなとも思います。
そうすればその本意を解説した時「なるほど、良く考えた単語・用法だな」と思う目上の方も必ず存在します。(実際、そういう新語も中にはあります)
タモリさんに認められれば秀逸でしょう。
前置きが長くなりましたが、「謙虚さ」「遠慮・思慮深さ」が薄れ始め、意味が変わってきているのが現状です。少しはこういった日本らしい「精神文化」とも言えるのでしょうか、「伏線」位はたどって欲しいとは思います。
しかしその反面、日本人のマインドも変わって来ているという代替が得られています。オリンピックや高校野球等の選手のマインドにも見られるように「大舞台でも大きく動揺しなくなった」ように思います。それは大変良い事で、我々ひと昔の人間には得られなかった心持ちです。「謙虚」「遠慮」がある意味「邪魔をしていた」ためその心持ちが得られなかったという事実も否めない感じがします。
そういう人たちに共通する特徴があるように思います。それは、
「いい意味で大口を叩ける」所謂「Big Mouth」なのです。自分の目標をはっきり宣言しているという点です。ひと昔前は前述の心持ちが重視され憚れましたが、時代が進み「大口を叩く」=「タブー」でなくなってきています。私は物凄く良い事だと歓迎しています。チャレンジは結果よりその姿勢・闘志に拍手です。
個人名を挙げて申し訳ないですが、サッカーの本田圭祐氏は最たるものです。言動も大きいですが実績もあげています。素晴らしいですね。Twitterでの「1万円でサッカー教えます」みたいな事もありましたが、とてもいいアイディアで茶目っ気も抜群ですね。サッカーのみならず実業家でもありますね。
また「ホリエモン」こと堀江貴文氏の考え方・行動も共感するものがあります。とある事件で高い塀の生活をされていた時期もありましたが、その経験を逆手に取り現在に至っておられます。塀の中はそうそう入ろうと思っても入れません。なので、言い方は悪いですが「唯一無二」の経験なのです。
宇宙開発事業も手掛けておられますが、「人の1.5歩先」を見て行動している様な感じがするので、解る人にしか解らない部分もあるのでしょう。
そう言った方々は総じて敢えて「大風呂敷を広げる」のです。それは或る意味「自分自身に実現のプレッシャーをかけている」と思います。単なる大風呂敷なら「オオカミ少年」にすぎません。そこに確実たる「自信」が裏づけられているのでしょう。だから成功するんだと思います。
現代、仮に「宣言どおりに」成果が出来なくても大してバカにする人も少ないような気がします。(PCに叩き込んでいる人はいそうですが)大抵、人の挑戦をばかにする者はその人よりチキンである事は間違いありません。
上記の方々は「失敗」とみられている事を「失敗」で片づけていない、逆に糧にしている事も共通項だと言えます。ただでは起き上がりません。そういう所がすごいと思います。
逆にそうできないと難しい所もあると思います。リスクヘッジも重要なのでしょう。しかしこれは特別な事ではなく、一般人も同じです。上記のお二人も小さい頃は我々と同じく「おむつ」をしてもらって育ってきているのですから、そう変わらいでしょう。ただ相違点は「目標を掲げ、公表し挑戦し続ける」事、「失敗を活かす(フィードバック)事」なのです。
私事ですが、プロ野球の独立リーグのトライアウトを4?歳で参加してきました。結果はご想像通りですが、「今の自分の力量はどのくらいか」「実際、プロ野球選手の選別方法、観点はどうなっているか」を知る意味合いも多く含んで臨みました。
最初の課題は「50m走」で、走力は多少自信があったのでなんとかなるかと思いましたが、結果は5m程も先着され、試験開始10分くらいで心が折れましたました。その他の課題、守備・打撃もぼろくそで大恥かいて帰ってきましたが、1次試験合格者発表時の総括で「4?歳で参加している人がいます」と開口一番に引き合いに出され、門戸を何度も叩けば(私を除いて)必ず成功するとのお言葉を頂きました。
また、普段立てないグラウンドで木製バットで芯を捉えた2球の打球音や打感は、そこに居ないと会得出来ないという貴重な経験が出来ました。
誰でもいい、親や親友でもいいので、やりたい事を宣言して挑戦し続けてください。失敗してもそのための努力、チャレンジ精神は無駄でなんかありません。(失敗したら本を出せばいい笑)
「失敗したらどうしよう」と思うから「失敗する」に決まっています。自分でそう思っているのですから。成功するイメージで自分の目標を達成する努力をし、挑戦し続けて、本田氏や堀江氏とシャンパンを飲めるような人間になって夢を叶えられれば最高ですね。そういう人生の時間の使い方の方が後悔しないのではないのでしょうか。光陰矢の如し、ですね。
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