第4話 「見て見ぬふり」をやめ「見て見る」事を実行する
上京した時にショックだったのは、新幹線から乗換で東京駅を歩いていた時に、サラリーマンにぶつかって何の挨拶も無く通り過ぎて行った事でした。
私は「すみません」と謝ったのに謝り損した訳です。しかし、そんな事にいちいち構ってられないと気付いたのは1年くらい後だったでしょうか。それが「東京に染まる」と言うなら、決してカッコいいものでは無いと今は思います。
それから2年後くらいでしょうか。たまたま大学の講義が昼すぎで、中央線に乗っていた時です。
平日の昼間の電車は割と空いていて空席がチラホラある感じでした。近くの乗客はサラリーマン、おばさん、ベビーカーを引いたお母さんだったでしょうか、空き缶が一つ、電車が揺れる度カラカラ座席の足元を転っていました。さすがに皆バツが悪い空気が漂っています。
ベビーカーのお母さんは流石に拾うのは無理です。サラリーマンは腕組みをして寝てるふり。おばさんは雑誌を読んでいた様な気がします。
前出のぶつかったサラリーマンとおんなじです。皆、居心地悪いのに「見て見ぬふり」です。その空気に推された訳では無いですが、私が空缶を拾い上げました。
そこのお三方は「あーよかった。めっちゃ気になってたのよね〜」と思ったに違いありません。
その時は若かったので「カッコつけた」感が溢れてしまって「いい事をしたのに恥ずかしい」思いをしました。
重要なのはここからです。缶を拾ったはいいが、捨てる所が在りません。なので拾った缶を停車するまで持ちっぱなしです。更に自分の中での「気まずさ」が増していきます。
でもなぜ「親切心でやったことで気まずくなるのか?」
その時はカッコ付けがあったのでしょう。しかし、みんなこうなる事を「先読み」してやらないのです。「めんどくさい」「後々こうなるのが嫌だ」「関わりたく無い」。だから結果的に「見て見ぬをする」のです。
流石に今は年の功で「そんな事普通やるだろ?」と思っているので、今同じような事をしても特に気恥ずかしさは無いです。「誰かやるだろう」と思っていると「誰もやらない」のです。じゃぁ自分がやればいい、ただそれだけです。自分の体裁を守る事がそんなに大事なんでしょうか?
少し話はずれますが、硬式野球の守備で大事なのは「ボールを前に取りに行く」事で、その大切さを口酸っぱく言われました。「ボールを待って取る」とそれだけバウンド数が増えるので、ボールを取るのに余計難しくなってエラーする確率が上がるのです。だからエラー覚悟でボールを取りに行くと割と捕球できるし、例えエラーしても「積極的なエラー」なので、自分の中で納得する時間が早いです。
要は結果など考えず「前に出て取りに行く」という事が大事だと考えます。それは「リスク」だろうと「仕事」だろうと、結果をあまり考えすぎず「取りに行く姿勢、そして実行」が肝要だと思います。だから「見て見ぬ」ふりをやめて「見て見る」事を「実行する」ことが大事なのです。恥ずかしくても上等です。その内慣れます。
「仕事」は「待っている」人間には回って来ないと言うことは周知の事実です。
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