第3話
午後の授業が休校になったことを知らず、誰もこない教室の中、ただ無為に時間を過ごしてしまった事実を鑑みれば、確かに。
大学生活において、友人という存在は必要かもしれない。
そもそものこの人生、友人というものにとんと恵まれたことのないものだったけれど、しかし、だからと言って、俺自身がその生活に満足しているわけもない。
昨今流行しているボッチを謳歌する風潮があることは知っているし、一人でいることが何か一種のステータスのようにもてはやされることも多い現代だけれど、それでもやはり民主主義のおけるこの国において、友人という存在は希少で大事で重要だ。
特に、大学では。
単位取得などの場面では。
ほとんど団体戦の様を見せてくるテスト期間などにおいては。
信頼できる友人の存在というのはとても有難いものになってくる。
俺の場合、たまたま桜井という昨今まれに見るほど優秀で、かつ変人な同期に絡まれた故、幸運にも何事もない学校生活を送ることができているだけであって頼れる存在がいないというのはとても辛いものだ。
大学でいう試験は本質的に高校のものとは異なる。
高校は良くも悪くも実力が問われ、基本的には横一線、並べられた上でのスタータピストルが用意されるけれど、大学の試験は明らかに最初から差がある。
人脈という矛と過去問という盾、あるいは代返や代行なんていう飛び道具の差がある。
四苦八苦して覚えた箇所が全く出ないことなんてよくあるし、出席カードを提出するや否やどこへなりとも退出する奴の姿はよく散見する。そしてそういう奴に限って、友人やら同期やらから回ってきた情報を用いて無事いい点数を取る。
真面目で、丁寧で、愚直な人間が勝てる世界ではないのだ。
ハンデと言えば聞こえはいいし、社会とはそう言うものだと言われれば頷くだけだし、そもそも、人脈を持つことや、そこから過去の傾向を調べることから実力のうちとまとめられれば、なんだか納得した気分にはなる。
とは言え、いくら社会がどうで世間がなんであれ、学校という組織は少なくとも平等ではなくとも公平ではあると思うし、その社会の縮図とやらをよりよくさせるために高等教育というものは設立させられたのだから、やはりその主張はどうかと思うわけだ。うん。
「先輩」
「どうした」
「うるさいです」
ピシャリ。
こちらは向かず、言葉で遮る。
相も変わらないその涼しげな表情と目元は、閑古鳥の鳴いている店内の閑散具合によくあっていた。
「ただでさえお客さんがいなくてイライラしてるっていうのに」
「なんでお前がイラついてんだよ」
「お給料泥棒している気分になるからです」
なんもしてないのにお金もらうのって気がひけるんですよ。
なんて。
本気でムシャクシャしているのだろう。
その足元はパタパタと、ドラマーの様にリズムを奏でている。
「真面目だな」
「先輩が不真面目なだけです」
「失礼な」
まだ遅刻だって一回もしたこともないというのに。
「それを誇る辺り人間の底がしれますね」
はっ——と、およそ先輩へ向ける種類の声ではない声……というより誰に向けるべきでもない声で彼女は笑う。
「大体です。今日だってそうですけど、いつも来るのギリギリじゃないですか」
「まあな」
「私と違って学校も近いでしょうに」
「同じ駅だしな」
「友達もいないですし」
「それは余計だな」
「一体何やっているんですか? オナニーですか? 自慰行為ですか?」
「もっと適切な候補はある」
「あ、わかった。露出ですね」
「『なんで』とは聞かないでやる、どこをだ?」
「え、なんですか。セクハラですか。死んでください。消えてください」
「もうやだ何この後輩」
「それが先輩に抱く私のイメージですよ・反省してください」
「すっっごい心外なんすが」
そして、侵害。
侮辱とか名誉とかそっち系で。
こいつにセクハラとか。
記憶も記録もないだろうに。
「先輩、むしろ私にセクハラしかしてないですよ」
「してねえよ。お前にするわけないだろ」
リターンに対して、リスクが際限なさすぎる。
誰が胸の小さい鬼の尻を触るというのか。
なんて。
まさかそんな言葉を吐くわけもない。
そんな日には男女差別がどうのこうのと騒ぎ立てた挙句、法律を盾にいい様に従えた後、ボロ雑巾になるまで使い倒されるに決まっている。
そうでなくても、こいつに胸の話は禁句であった。
以前。
というか数ヶ月前。
客席の割に従業員控え室は驚くほど小さいこのカフェで、俺は一度、こいつの下着姿に遭遇したことがある。
珍しく俺が少し早めに出勤し。
また、珍しく彼女が少し遅くに出勤した結果であった。
その際、まあ。
はっきりとではないものの、その慎ましやかな胸を包むブラジャー、そしてそれらを押し上げているパットをしっかりと目に収めたのち、彼女の顔と目があった。
お互い。
なんの感想も悲鳴も、はたまた謝罪もなく、ただその扉を閉めた俺。
今更、あいつ程度の下着で興奮するわけもないし、はたまた。久しぶりの再会の中、胸部が劇的な成長を遂げたことにうっすら抱いていた俺の感動が、実は嘘であったということに絶望するわけもなく。
だからまあ、特別な感想を持つわけもなく、ただ閉めた俺。
つまりは、その光景をなかったことにしたわけだが、しかし当事者としてはそうはいかないらしい。
それ以降、ただでさえ狂犬病みたいに噛み付いてくるこいつが、胸という言葉にはより一層鋭敏に反応するようになり、躊躇なく歯を突き立ててくるようになったわけである。
「……別にいいだろ。見るぐらい」
「なんですか。どうしました、何か言いましたか?」
「いえ別に」
一度は触れたことすらあるその胸部に、自然視線がいってしまうのは男の性なのだろうけれど、しかしそういう視線を掴むことができるのも、また、女性の性なのだろう。
咄嗟、追及から逃れるため、視線を明後日の方へ向けた。
しばらく、疑い深い視線と、何か言いたげな表情を浮かべている可愛らしいウェイトレスは最後、ため息をつく。
「まあ、あれですね」
「どれですね」
「先輩にお友達がいないことはよくわかりましたし、寂しい学校生活を送っていることは理解しました。かわいそうですね。見るだけでも辛そうなんで、もう死んだほうがいいんじゃないですか?」
「……いや、その論法はおかしい」
「ほら、あれですよ先輩。私のためだと思って」
「どうしてお前のために、この貴重な命を捨てると思った」
「可愛い後輩ですよ」
「確かにお前は可愛いが、それ以上のマイナスに溢れる後輩だよ」
トータルで言えばマイナスメーターが振り切るレベルで。
良いところが今のところ顔とその制服ぐらいしか見当たらない奴である。
相変わらず浮かべる仏頂面に、不機嫌そうなまなこではあるものの、しかしすらりと伸びた手足は、そのウェイトレス姿をとても際立たせている。
高校時代とは変わり、すっかり伸びたその黒髪は、所々ウェーブがかかっていて、とても大人びて見えた。
この美貌。そしてその用紙を持ちながら、国内最高学府に所属するほどにその頭脳まで優れていると言うのだから、おいそれと馬鹿にもできない。
そんな面倒くさい存在。
扱いづらい存在。
なんとも言えない——女。
そこのところだけは、昔からずっと変わらない。
そんな彼女。
——赤崎翠。
二年前とは違う。
いろいろ変わった。
彼女も俺も。
しかし、やはり人間の本質は変わらない。
こいつはきっと、俺にとっては最後まできっと、どうしようもなく面倒で、どうしようも無くうざく、どうしようもなく失礼な後輩だろう。
なんて。
そんなエピローグにはいらんばかりの回想の中、しかしいつの間にか会話の応酬がなくなっていることに気づく。
ふと、横をちらり見てみると、なぜか少しだけ赤らんだ表情……だったらよかったのだが、どうやら本気でゴミムシを見るような表情を浮かべた翠がいた。
「先輩」
「……何」
「あの」
「おう」
「もしかして、今。もしかしなくても今」
「うん」
「私のこと……口説きました?」
「…………は?」
予想外の言葉、セリフに固まる。
会話の前後が頭から消える。
白くなる。
それは彼女の続いた言葉で元に戻った。
「可愛いとかって、それ簡単に女子に言っちゃダメな奴ですから」
「まあ言ったが……それ以上に貶した覚えの方があるんだけど」
差し引きで言えば明らかなマイナス。
暴言とすら取れる言葉を俺は吐いたつもりだったのだが、
しかし、彼女は「それでもですよ」とそっぽを向きつつ、真顔で続ける。
「女子はそういうの簡単に勘違いするんですから。簡単な褒め言葉は禁止ですから」
「褒め言葉ね……」
彼女は「少なくとも」と、ため息まじりに呆れつつ言う。
「もう二度と、私にそういうこと言うのやめてください、気色悪いんで」
「……わかったよ」
納得など皆無だが、自肯定しないと話が終わってくれない。
だから形だけは頷いて、その言葉は全て横に流した。
「…………」
そんな適当さがに美味出たのだろうか。
蛆虫を見るような目をしたまま、俺を睨みつけた翠。
しばらくの無言の後、数歩俺から距離を取る。
その口を開いた。
「……いやあの、先輩」
「……何」
「その『やれやれ』みたいな態度とか、本当気持ち悪いんで、はい」
「…………」
「『この後輩は全く』みたいな言外のやつとかほんと、マジでやばいんで」
「…………」
「いや、まじで本当に、もう可愛いとか、そういうのやめてくださいね」
「お前どんだけ俺のこと嫌いなの?」
だとしたらごめんね。
気持ち悪くてごめんね。
でも、なんで俺今謝ってるんだろうね。
そんな、よくわからない応酬の果て。
「ちょっと一緒の空間にいたくないんで外で呼び込みしてきます」
「そのセリフ『外で呼び込みしてきます』だけでいいよな?」
なんて言葉が届くことはないわけで。
とっとと即座、真顔のままに翠は店外へと出て行った。
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