第29話 終わりのはじまり
突き出された手にもう一つりんごを乗せた。
チップはこちらに一瞥もくれずに受け取ったりんごを食べる。顎に伝った果汁はベータがしっかりと舐めとっていた。何とも野性味の溢れる光景である。
「しかしあんたのこれはすごいな」
「うん。皆に助けてもらったから。チップもアドバイスありがとう」
「この文様の前じゃ、オレのアドバイスなんざ屁みてえなもんだろ」
チップが凝視しているのは、あたしが作った文様の素案である。素案というか、これが補助線になるので、展開する際にはもっと線を加えることになるのだが。
それは大きな正円の中に描かれた『迷宮』だった。迷宮の中にこれでもか、これでもかと植物の意匠を描き込んでいる。例え一部が食い破られても、その横から蔦が伸びてカバーできるように。
そう、今までの文様と最も大きく違うのは、この文様に可動性があるということだろう。あたしの得意な蓮花文様はあくまで静止画で、来たものをただひたすら受け止めるのみ。
けれどこれは違う。徹底的に攻撃を防御し、その目的を完遂するためのものだ。
名付けて、回天する迷宮唐草文様。
……言葉にするとかっこいい。かっこいいが、本当に回天するかどうかは、ひとえにあたしの力量にかかっている。
「動けるような文様を、っていうのはすごくいいアドバイスだったよ。あれがなかったらあたしの文様はいつまで経っても静止画のままだった」
「言うのは簡単だが、実際に描画するのは至難の業だろうよ」
「そうかも。でも動かしやすい文様をシーラとミス・アルカディアが教えてくれたし。すごいよね、やっぱり知識量が違う」
神性生物対策班の図書館で、遅くまで勉強させて貰った。文様のヴァリエーションが増えたことで、文様に意味を持たせられるようになった。
それだけじゃない。アルカディア姉妹の多岐に渡るアドバイスは、文様と言ったら植物というあたしの固定観念を容易く打ち破るものだった。分野横断的に学んでいる人たちは、見えているものが違うのだとつくづく思い知ったのだ。
「いや、やっぱりあんたが一番すげえよ。机上の空論より目の前の魔術だ」
文様は大きすぎて、シーラの部屋の壁の半分くらいを占領している。白い麻布に鉛筆で下書きをして、これから刺繍をするのだ。
「刺繍して、それからまた文様描画するんだろ? 描画にはどんくらいかかるんだ」
「多分半日はかかるよね……下手すると一日中かも」
成功するといいんだけれど。この大きさになると、あんまり力みすぎても良くないので、あたしはあくまで肩の力を抜くように努める。
「ハッキネン。糸持ってきたぞ」
「ありがと!」
ネムが籠のなかにたくさん赤い糸を持ってきてくれた。折れてもいいように針は三ダース用意して貰っている。
あたしは自分の分のりんごを口の中に押し込むと、手を拭きながら立ち上がる。
「それじゃ始めよっか。ネムはそっちの端っこからお願い」
「分かった」
「おっ、ネムも一緒にやるのか」
「俺が一番手先が器用らしいからな」
さすがにこの大きさを刺繍するのには時間がかかる。人手が必要だった。
ミス・アルカディアと瑠依さんは、引き続き全国を飛び回って結界の補強に努めている。シーラは手先が破滅的に不器用で、波縫いさえもまともにできない。ターシャさんは十分と同じ椅子に座っていられないタイプだし、チップは根本的にこういう作業に向いていない。
でもネムは細かい作業が得意だ。自動文様展開盤の修理も見事にこなしていたし、そもそも彼の魔術発動条件は指文字なので、指先の感覚が優れている。
ためしに小さな刺繍を一つやって貰ったら、とても見事にこなしたので、今回の助手抜擢の運びとなった。
「間隔はこのくらい。うん、そう、少しくらいぶれても問題はないから」
「俺がやって本当に大丈夫なんだな? 出来栄えが魔術を左右することはないんだよな?」
「大丈夫、あくまであたしの補助線なだけだから」
そうしてあたしたちは床に座り込んで、大きな麻布の端っこと端っこで仕事に取り掛かった。ベータがとことことやって来て、ネムとあたしが視界に入る位置で器用に寝そべる。
「チップは仕事行かねえのか」
「んー? ま、オレはオレで働いてっから心配すんな」
意味ありげに笑うチップ。このベータ以外のロカンポールが見当たらないところを見ると、チップが何か裏で働いているのは間違いなかった。
そんなことより自分の仕事だ。あたしは針を取ると、ごわついた麻布に突き刺した。
*
刺繍は三日三晩ぶっ続けで行われたため、完成したときあたしとネムは酷い有様だった。臭いし脂っぽいし、目はしょぼしょぼして電燈の明かりさえもが眩しい。
「途中で休憩を挟むべきだったな」
ネムが他人事のように言うのをぼんやりと聞く。
「どうにも興が乗っちゃったよね……」
「半日くらい前だっけ、お前が急に大声でいいペースだよ! 行ける行ける! って言って次の瞬間寝落ちたのはマジで面白かった」
「あれは寝たんじゃなくて集中してたんです! ネムだって何度も居眠りしてたじゃん。その辺涎まみれなの知ってんだから」
よろよろ立ち上がりながら、麻布を壁に貼り付ける。
「ん! いいんじゃない? あそこの涎染みを除けば」
「うるせえ」
二人でやったわりには、よれもないし線もあまり乱れていない。上出来だ。模様の細かい箇所は実際に魔術を展開したときに補うとして、補助線としては情報量の多い良いものになった気がする。
「あとはこれを元に魔術を展開する、と……」
大きなあくびが出てしまう。ネムは頭をぼりぼりと掻きながら、
「事務所に戻るかあ。シャワー浴びて寝ようぜ」
「賛成」
もはや今が何時かも分からない。外が暗いから多分夜だとは思うが。
メトロが走っていることを祈りながら、あたしたちはシーラの部屋を後にした。
ネムが譲ってくれたのでシャワーを先に浴びる。リビングに戻ってきたらネムがソファで寝息を立てていた。
「ネーム、ネム。お風呂空いた」
唸りながら起き上ったネムは、肩をあちこちぶつけながらシャワーに入って行った。あたしももう限界だ。バスローブのままソファでうとうとしてしまう。髪の毛を乾かす余裕なんか勿論ない。
体が泥のように重くて、暖かい体が乱暴に押し付けられても構うことはなかった。
「詰めろ」
「んー」
蹴られたので強めに蹴り返しながら、ソファの端っこで体を丸める。煙草の匂いと革の匂い、それからどこか安心する家の匂い。瞼を閉じれば赤い魔力の線が、うずうずと揺れていた。
眠っている間も文様のことを考えていた。あそこに線を置いたらどうなるか、ここをカールさせたら防御力が高まるか、全体を引き延ばす際に破綻が生じないようにするにはどうしたらいいのか。真紅の線はくるくるひらひらとあたしの周りを踊っている。
『一糸も落とすな』
ばあちゃんの言葉が聞こえてくる。あたしの魔力の線は、ネムや瑠依さんたちの間を泳ぐように通り抜けてゆく。ひらひらとちょっと高飛車な感じで瑠依さんの指に絡みつき、指輪の真似事をして遊んでいる。
それから嫉妬深い蛇みたいに鎌首をもたげ、あたしの方を見た。
ハッと目が覚めた。毛布の毛羽立った感触が頬に触れる。
バスローブを着たまま寝てしまっていた。誰かが毛布をかけてくれていたようだ。
窓の外は明るくて一瞬時間が分からなかった。時計を見れば午後二時、どのくらい眠ってしまったんだろう。枕にしていた腕が痺れ、頭がぼうっとしている。
「うわっ」
ネムがあたしの足を枕にするように寝ている。そのネムに覆い被さるようにしていびきをかいているのは、瑠依さんだ。
きっとお風呂も入っていない。着の身着のままで薄ら無精ひげが見える。
こんな狭いソファの上でよく大人三人が眠れたものだ。引っ付いて眠る姿が我ながら小動物の家族みたいで面白い。
あたしはそうっと足を引き抜いて、被っていた毛布を瑠依さんにかけた。靴を履いたら足音が響いてしまいそうだったので、裸足で自室に引っ込み、分厚いニットのワンピースを頭からかぶった。
鏡を見たら酷い顔をしていた。キッチンに向かい、お湯を沸かす。頭がうまく働かなくて、ただ湯気を眺めるだけの作業をする。
「んー……今何時だ」
「ぐ、ぅ……おもい……」
「おはようございます。お昼の二時です」
二人は目をぐしぐしと擦りながら不承不承起きてきた。前髪についた寝癖がどこか似ていて可愛らしい。
あたしはお湯が沸くのを待ちながら冷蔵庫を開けた。三日間誰も手をつけなかった冷蔵庫の中から食べられるものを探すのは至難の業だった。
食べるものは後回しだ。インスタントコーヒーをそれぞれのマグカップに入れ、沸いたお湯を注いだ。
「ミルク、腐っちゃってたんで。ブラックです」
皆でカウンターに座って、神妙な面持ちでコーヒーをすする。喋るのも億劫で、ただ外から聞こえる街の音と鳥のさえずりに耳を澄ませる。たくさん眠ったあとの疲労感と、まだ夢の中にいる浮遊感を、二人と共有しているような錯覚を覚えた。
ネムが目を擦りながら大きなあくびをする。つられてあたしと瑠依さんも大口開けてあくびをしてしまった。
「……瑠依さんはいつ帰って来たんです?」
「ええと、夜中の二時くらいだから……十二時間寝てたことになるね」
「俺たちは十六時間くらいか? こんな長く寝たの初めてだ」
「あたしも」
「ぼくも」
そう言って瑠依さんがくっと笑う。
「二人とも、凄い顔してるよ」
「師匠こそ。ひげ、やばいっすよ」
「朝なんだからしょうがないだろ」
瑠依さんはぼやきながらコーヒーをすする。
皆裸足で、髪も服もぐしゃぐしゃで、腫れぼったい目をしている。まともに食べれそうなものなんてなくて、ただ熱いコーヒーをちびちびと飲んでいる。
「……ふふっ」
笑ってしまった。するとネムも瑠依さんも口元を綻ばす。
きっとまだ半分寝ているようなものだ。ゆるい脳みそがどうしようもなく、この状況を幸せだと感じていた。
――でも「彼ら」はそんなことを斟酌してはくれないのだ。
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