第24話 約束

 夜半に痛みで目が覚めた。

 看護師から貰っている痛み止めを飲もうと思ったが、水差しがなかった。確か眠る前は枕元にあったはずなのだけれど。

 のろのろと起き上がり、肩の鈍痛に顔をしかめながらドアへ向かう。常夜灯の蝶が夢のように揺蕩いながらあたしの足元を照らしていた


 手を触れてもいないのにドアが開いて、瑠依さんがひょっこり顔を出した。手にはなみなみと水の注がれた水差しがある。


「起こしちゃったかな。水が足りなくなってたみたいだから、冷たいのを注いできたよ」


 目が赤く腫れている。いつも緩く纏めている髪はばらばらで、頬の辺りが赤く擦れてしまっているのが窺えた。

 憔悴しきった様子の瑠依さんが、さっきまで泣いていたことは一目瞭然だった。


 へらりといつものように笑ってみせる姿が痛々しくて、あたしは発作的に彼の手を握った。水に濡れてつめたい手に体温を分け与えるように、ぎゅ、ぎゅっと力を込める。


「あはは、みっともないところを見られちゃったね」

「瑠依さん。あなたは、そんなにも……怖かったんですか」


 あたしたちが怪我をしたことが。あたしたちが死ぬかもしれなかったことが。


「……うん」


 いとけない様子でこっくりと頷いた瑠依さんをこのまま放置するのは忍びなくて、部屋の真ん中にあった長椅子に座らせた。その手から水差しを取り上げ、代わりに自分の手を滑り込ませた。しゃがみこんで瑠依さんの顔を覗き込む。


「瑠依さん。そんなにも怖がらせてしまったことは謝ります。でも、もしあの時に戻れたとしても、あたしは同じことをする。それはあたしが”ガーデナー”を目指していたからじゃなくって……」


 乾いた唇を舐めて適切な言葉を呼ぶ。言葉はすぐには出てこなかったけれど、やがて見つかった。


「あたしがばあちゃんの孫だからなんです」

「そう、だよね。ぼくもきみに謝らなければならない。”ガーデナー”気取りだなんてひどいことを言った、きみにとってそれは特別な仕事で特別な名前なのに」

「いえ、いいんです。意地を張ってたのは確かですから」


 瑠依さんの下唇が震えている。泣くかな、と思ったけれど、泣きそうな顔をするだけで涙はこぼさなかった。黒々と濡れた瞳は小動物のそれに似ている。


「きみたちが怪我をするのが怖い。ぼくの周りの人たちが傷ついてゆくのが怖い。ぼくばかりが無傷で、他の人たちが苦しんでいる様を見るのが恐ろしい。……すまないね、臆病なことを言っているのは分かっている。子どもじみてることもちゃんと、理解しているつもりなんだけれど」

「大人だって怖いものは怖いです。臆病だとは思いません」

「どうかな。どんなに怖くったって、それを呑み込んで進むのが強いヤツだろ」


 ぶっきらぼうな声がやけに小さく響く。ネムがとっくに目を覚ましていたことは知っていた。彼は裸足のままぺたぺたと歩み寄ると、瑠依さんの横にどっかと座る。あたしも足置きを運んできて瑠依さんの前に置くと、その上にあぐらをかいて座った。


「でも師匠は、強くねえからな」

「強いどころか」


 瑠依さんは苦笑する。


「ただの臆病者だ。一緒にいたいとそればかり考えて、大事なものほど取りこぼす」

「……」


 差し込んだ月の光が水面に反射して緩やかに踊っている。ここアルハンゲリスクでは、月の光はいつだって半分しか届かない。

 さらさらと水が流れる音がする。瑠依さんもネムもあたしも、何かきっかけを待っているかのように押し黙っていた。


 自分の爪先に目を落として、その白さにぎょっとする。足先だけ非現実に浸しているみたい。一瞬これが夢ではないかと思ったが、足元に置いた水差しの結露の冷たさに、感覚はきちんと現実に存在していることを知る。

 瑠依さんは何かを探るように目を細めていた。


 その薄い唇が、まるで月下美人がほころぶときのように、そうっと開かれる。


「……ぼくはね、子どものとき、ずっと極東の山の中で暮らしてたんだ。山と言っても里山に毛が生えた程度のものだけれど、人なんか全然いなくってね。ぼくの遊び相手はいつも山に住む動物とか、動物が精霊に変化したものだった。

 その精霊の中に天狗というのがいてね、前にも言ったかな、鳥と人のあいのこみたいな存在なんだけれど、山で遊んでいるうちに彼らと親しくなることができたんだ。彼らはたくさんの知識を持っていて、魔術とも言えないような不思議な術を使って生活していた。

 その天狗の群れのなかにね、とりわけぼくに優しくしてくれるやつがいたんだ。ぼくはその……昔から親がいなくて、祖父に育てられていたものだから、どうにも目をかけてくれる存在ってのがいなくて。その天狗はぼくの母であり、父でもあり、姉でも兄でも妹でも弟でもあった。……ああ、天狗は両性具有だからね、雌雄いずれにでもなれるのさ」


 瑠依さんの言葉はあまりにもか細くて、あたしたちは頷く以外の相槌を打てなかった。少しでも言葉を発したり、身じろぎすれば、瑠依さんの紡ぐ微かな思い出は瞬く間に霧散してしまうように思われた。


「ぼくはその天狗とほとんどずっと一緒にいた。学校が終わってから眠るまで。下手すると寝るときも天狗のねぐらだったってこともあるな。ぼくはその天狗からたくさんのことを教えて貰った。たくさん遊んで、たくさん話して……たくさん、好きになった。

 たぶん、初恋だった!」


 はにかむ瑠依さんの顔が一瞬少年のように見えた。


「でも、ぼくは、神性簒奪者だった」


 神性をはぎ取る者。神秘のヴェールをはぎ取り、全てを白日に晒す者。


「子どもだったからね、まだここまで奪い取る力が強かったわけじゃない。だけどぼくは明らかに異質で、異物で、奪う者だった」


 ばかみたいだ、と瑠依さんは笑う。


「その天狗はね、力が弱まっているせいでここにいるんだと言っていた。仲間たちは別の霊山に住んでいて、今そこへ行く為の霊気を溜めている最中なんだって。

 だからぼくは願掛けをした。彼らがきちんとお山に行けたら、髪を切ろうと思ってずっと長く伸ばしてたんだ。

 でもね、ぼくはしょせん、生まれついての簒奪者だったんだ」


 生きているだけで周りから奪ってしまう存在。瑠依さんは自分をそう定義した。


「ぼくがずっと一緒にいたせいで、天狗たちにはちっとも霊気なんて溜まらなかった。特にぼくが好きだった天狗は――ツワブキは、四六時中ぼくと一緒にいたせいで酷いありさまだった。でもぼくはそれに気づかなかった。吸い取った霊気のおかげで髪は伸びて、ああもうじき彼らはお山に帰れるんだろうかなんて暢気なことを、ずっと、思ってた」


 押し潰したような声。もういいよ、と言ってあげたい。そこまで自分を追い詰めないでほしい。ネムもきっと同じことを思っている。彼の手がおずおずと瑠依さんの方へ伸び、ぎこちなくハグをした。

 瑠依さんは少し意外そうな顔をした。ネムがそんなことをするようには見えなかったのだろう。だとすれば瑠依さんはネムのことをよく分かっていない。ネムはとっても仕事ができるのだ。


「……あんたが教えてくれたことじゃんか。寂しそうにしている子には何も言わずにハグをしてあげなさいって」

「覚えはあるけど、その時は“女の子”って言ったつもりだったんだけどな」

「同じことだろ」


 瑠依さんは泣き笑いのような表情を浮かべてネムの背中に手をまわした。


「ありがとう。ネームレス、ぼくの弟子」


 そうっと体を離した瑠依さんは少し落ち着いた顔をしていた。自分の中の感情の波を乗り越えたんだと思う。


「ある日ぼくは気づいた。自分がツワブキの霊気を吸い取っているってことに。一緒にいればいるだけ、彼/彼女がお山に帰る日を遅らせていることになるんだって。

 ばかみたいだ。髪なんか伸ばして。願掛けなんか意味なかった。全部ぼくのせいだ。ぼくが台無しにしたんだ。ぼくは弱ってゆくツワブキが、たかだか狼すら追い払えずに大怪我を負った光景を見て、自分の持つ力の怖さを知った。

 それから、自分の目の前で傷つくものたちを見るのが怖くなった。だってそれはもしかしたら、ぼくのせいかもしれないんだから」


 瑠依さんは何度も子どもじみているけれど、と言い訳のように言った。実際傍から聞いていると、子どものような強迫観念に取りつかれているふしはある。

 でも、どうやって彼に伝えればいいんだろう。自分のせいで大好きな存在を傷つけたことのあるこの人に、あなたのせいじゃないなんて、軽々しく言うことはできない。

 全部自分のせいだと思うのはきっと傲慢だ。けれど瑠依さんの場合、全部自分のせいだったことがあるのだ。完膚なきまでに打ちのめされた経験があるのだ。


 恐怖を覚えるのに、悲劇は一度きりあればいい。


「きみたちの怪我までぼくのせいだと思わないよ。頭ではね、でも感情は……ついていかないね。どうにも」


 全てを背負い込む癖のあるこの人は、だからきっと、誰かが傷つくくらいなら自分が怪我する方を選ぶのだろう。目の前の人は傷ついていない、だから自分は悪くないと自信を持って言えるから。


「ほんとうは、こんな力だから、誰とも接しない方がいいんだろうけれど」

「だめです、それは」


 思いがけず強い言葉が自分の口から出て来たので驚いた。ネムも瑠依さんもびっくりしたようにあたしを見ている。


「だってあなたは、一人でいたらだめな人でしょう」


 孤独が毒のように染み込んでしまうタイプの人だ。神性簒奪者であるからこそ、誰かが傍にいなければ彼はきっと彼ではいられなくなる。

 だから女の子を好むのだ。柔らかくていい匂いのする女の子たちは、少なくとも彼から孤独を遠ざけてくれるだろう。瑠依さんにプレゼントやデートについて考えさせることで、彼が犯した罪と過去について煩悶する時間を奪ってくれるだろう。


 あたしは瑠依さんの手を両手で握った。


「あたしがいるから大丈夫ですよ。あたしが瑠依さんの周りの人全部守ってあげます。今は時間がかかるけど、じきに短い時間で防御魔術を展開できるようにしてみせますから」


 それこそ子どもじみた約束だ。けれど瑠依さんの恐怖が、まるで童話に出てくる恐ろしい魔女の鍋みたいに底無しである以上、こちらも神話の如き大言壮語で応ずるしかない。

 根拠のない「大丈夫」は人を絶望させることもあるけれど、救うことだってあるのだ。


「ネムもいます。ネムとあたしで、瑠依さんの周りの人全部守ります。当然、あたしたちも無傷のまんまで」


 全治数週間の怪我をしておいてこんなことを言うのは、きっと馬鹿げている。

 けれど、瑠依さんが一度きりの悲劇にずっと囚われているのならば、あたしは自分の持つたった一度きりの功績でそれを打ち破ってあげたい。


 だってあたしの防御魔術は、神性獣をも防ぐのだ!


 今日のネムは冴えている。あたしの意図を正確に読み取ったネムは強く頷いてくれた。


「俺の槍は強いです。師匠も知ってんでしょ、俺とあんたがいれば殺せない神性獣はないです」


 ね、と言い含めれば、瑠依さんは唇を引き結んだ。その顔に恐怖の色はなく、拭いきれない悲しみに溺れている様子もない。黒スグリのような、熟したブルーベリーのような目が、透明な光を帯びてあたしたちを見ている。


「お願いです」


 ネムが祈るように言った。

 信じてください。

 あたしの唇も同じ言葉を紡いでいる。この人に何かを信じてもらうのは、とても難しいことのように思われた。だってこの人自身が自分を全く信用していないのだから。


 案の定、瑠依さんはちっとも信じていないような口ぶりで、ありがとうと言った。彼は人への好意とは別のベクトルで、他人のことなんか信じていないのだろうと痛感する。


「瑠依さんの力が、なくなっちゃえばいいのに」


 思わず口走っていた。だってそうすれば瑠依さんはきっと何も気にせずに生きていられる。大使を殺した罪なんて被されることもなく、人から疎まれることもなく。

 だが瑠依さんは、いつものようなへらりとした笑みを浮かべて言ったのだ。


「でもそうしたら、彼女と――ヴィクトリアと会えなかったよ」


 ああ、瑠依さんは今でもミス・アルカディアが大好きなんだ。

 あたしは二人のロマンスを知らない。二人がどうやって出会ったかも知らないし、別れた今どうやって交流しているのかも、分からない。


 けれど瑠依さんの表情が全部物語っていた。

 ならばあたしたちの言うことはもうなくなってしまう。

 この人が自分の力を祝福するのならば、他人がそれを呪おうとするのは、まったく馬鹿げた行為なのだ。


「……いつかきっと、きみたちを信じられる日がくると思うから、だから……それまで待っていてほしい。わがままだけれど、いいかな」

「もちろんです」

「全然わがままじゃねーと思いますけど」


 瑠依さんははにかみながら、両手であたしとネムの手を握る。


「頼もしい従業員を持てて私は嬉しいよ」


 すっかり大人の態度を取り戻した瑠依さんは、思案気な顔で


「二人が落ち着いてから言おうと思ったんだけれどね、私はしばらく出張に出なければならない。今回のセプ・ルクルムの件は正直、かなり……きな臭い。私と神性生物対策班が恐れていたことが起きているかもしれない」

「恐れていたこと……?」

「まだ言えないけれどね。秘すれば花、謎解きは最後までとっておくのが探偵の流儀だろう?」

「誰が探偵っすか」

「ふふん。でもこれは巨大なパズルのようなものでね。最後のピースがはまればきっと気持ちがいいだろう」


 言いながら瑠依さんは立ち上がる。


「もう寝なさい。ミルカは痛み止めだね? 二錠でいいらしいが、ネムも必要かな?」

「貰います」


 あたしたちが痛み止めを飲んで、布団に入るまで、瑠依さんはしっかりと見守っていた。暑がりのネムが布団から出したつま先を、きっちりと布団の奥に戻す念の入れようだ。


 それじゃあおやすみ、と言う瑠依さんの声はいつものように、カサノヴァめいて甘く響いた。

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