第10話 襲撃 

 配置はこう。

 あたしと瑠依さんが仮眠部屋という名の寝室に。

 ミダスさんとデオンさんは部屋のソファに。

 ネムは椅子を並べた簡易的な寝床に納まった。

 それは寝床と言わないのではと思ったけれど、横になった途端ネムが寝息を立てたので、杞憂だと知る。


 顔だけ洗って上着を脱ぎ、ベッドに入る。洗い古されたシーツだが、シラミはいなさそうだ。横では瑠依さんがすやすやと寝入っていて、その規則正しい吐息に誘われるようにして目を閉じる。

 布団の暖かさに身を任せ、感覚をほどき、泥に沈むようにして眠りに落ちた。




 眠っていられたのはほんの僅かな間だったように思う。

 意識の端っこがガサガサする。あたしの五感が何かしらの異変を拾っている。

 音だ。駅舎の外から足音が聞こえる。それもたくさんの。多分人間じゃない。はっはっという吐息に混じって、喉が鳴るキュウウという声が聞こえる。

 目を開けてベッドの上で体を起こす。


「やあおはよう」

「うわっ、瑠依さん」


 瑠依さんはとっくに起きてベッドの脇にうずくまっていた。

 窓の方を窺っている。


「なに、なんです」

「分からない。けれど尋常じゃないね。デオンが言ってた魔狼かな」

「……魔狼?」


 いくら魔術を使えるからと言って、いくら夜だからと言って、狼がこんな人里に降りてくるだろうか? しかも駅舎なんて、いかにも金物臭い場所に。


「師匠」


 寝室のドアが静かに開き、靴を履いたネムが姿勢を低くして入り込んでくる。

 緑の目が薄闇で底光りしているのを、どこか恐ろしく思う。


「魔狼です。でもおかしい、どうして人里に降りてくるんだ」

「私がいるんだ、人里まで来てもおかしくはないだろう。いずれにせよお前にとっては大した脅威でもないね。……ミルカの防御魔術はまだ切れていないよな」


 ネムが電光石火の勢いで瑠依さんの襟首を掴んだ。


「だからって無防備に外に出ようとしたらぶっ殺しますよ」

「乱暴だなあ、誰も外に出るなんて言ってないだろ」

「出ようとしただろ。あんたいつもそうだ」


 吐き捨てるように言ったネムは、その勢いでぎろりとあたしをねめつけた。


「お前はあの駅員たちの傍にいろ。師匠が飛び出さないように見張ってろよ」

「う、うん」


 あたしが頷くのを見届け、ネムは右手で空中に何か描く仕草をした。それから、背負ったままのずた袋からこん棒を取り出す。太めのそれを手慣れた様子で広げてゆく――。


「槍……?」


 それは折りたたみ式の槍だった。闇に慣れた目が、その槍の美しい赤色を捉える。穂先の形といい、異様に長いそのフォルムといい、その槍はどう見ても神性殺しの槍だった。

 不思議なことにそれはネムによく似合っていた。それを握って初めてネムという少年が完成するような、そんな印象を受ける。

 ネムは瑠依さんを一瞥すると、身を低くして部屋を出て行った。


「あれは……神性殺しの槍、ですか」

「もちろんレプリカだ。けれど彼にとってあれ以外の得物はありえないだろうね」

「どうして」

「彼はそういう風に作られたからだ」


 珍しく表情の硬い瑠依さんは、あたしの視線に気づくとパッと悪戯っぽい笑顔を浮かべた。


「しかし彼の言うことを素直に聞くのも業腹だ。ちょっと出てみよう」

「だ、だめですよ!」

「ミルカはきちんとここにいるんだよ、分かったね」


 言うなり瑠依さんは窓を薄く開け、そこからするりと猫のように出て行ってしまった。

 一瞬の出来事に止める間もない。

 開けっ放しの窓は誘うかの如く夜風に揺れている。

 何にもできないあたしが瑠依さんの後を追って飛び出したところで、意味なんてない。

 分かっている。頭では理解している。けれど僅かに開いた窓からは、山の冷気と、魔狼たちの爪がコンクリートに当たる微かな音がふわりと入り込んでくる。


 魔狼が慌ただしく吠え始めた。ネムか、それとも瑠依さんが見つかったのか。


 あたしは靴を履くとそのまま飛び上がり、窓から外に出た。着地する自分の足音が信じられないほど大きく感じられ、思わず身をすくめる。


 何もいない。大丈夫だ。


 窓をきちんと締め直して一度深呼吸をした。肺を満たす冷気があたしの体を引き締めてゆく。無謀なことをしている自覚はあったが、ポケットの中のものを試すいい機会だ。


 けれど、そんなの向こう見ずだった。


 チャキ、という音が聞こえた。振り返るとそこには、子山みたいに大きな一頭の魔狼が、きょとんとした顔であたしを見ていた。コンクリートに当たる大きな爪が、街灯に照らされて不気味に輝いている。

 魔狼と狼の差は色々あるけれど、一番はあの禍々しい赤い目だろう。魔眼と呼ばれるその目で睨まれると、大体の獲物は動くことすら叶わない。


 つまり今のあたしだ。


 逃げなければ、あの涎が滴る牙から走って逃れなければ、そう思うのだけれど、真紅の瞳に魅入られたように動けないでいる。魔狼に遭遇したのは初めてじゃないのに。どうしてあたしは動けない。


「あ……」


 動け、動けと念じてようやく右手の指先が動く。ポケットの中をつま繰るより早く、魔狼が飛びかかってきた。


「うわっ」


 頭を抱えてしゃがみこむ。すぐ真上、手の甲を毛が掠めてゆくのを感じてぞっとした。魔狼はあたしのすぐ後ろに着地したらしく、苛立ったように荒い息を吐くのが分かった。


 振り向きざま、右手でポケットの中から手のひら大の羊皮紙を引っ張り出す。

 魔狼が前足で胸を強く推してくる。あっという間にお尻から転んだあたしの上に伸し掛かり、何のためらいもなくその大口を開いた。

 目の前に真っ赤な魔力の線が浮かぶ。恋しい人へとつなぐ糸、とばあちゃんが冗談交じりに言っていたそれが、蛇のようにうねりながらあたしの意図する意匠を紡ぐ。

 この僅かな時間で描画できるのは、とても単純なうずまき模様一つきりだったが、それにあらかじめ補助線を引いておいた羊皮紙をぶつければ、確かに防御の働きを果たした。


 ギャンと吠えた魔狼が後ずさる。柔らかい肉にかぶりつくつもりだったのに、銀盆のように固いものを思い切り噛んでしまったわけだから、落胆もひとしおだろう。それに跳ね返された痛みは魔狼の動きを少なからず鈍らせる。

 けれどそれも一瞬のことだ。防御に使った羊皮紙は炭と化してぼろぼろと崩れた。ポケットにはあと何枚残っていたっけ?


 魔狼は不機嫌そうに唸ると再び突進してきた。その目を見ていると先ほど展開したお粗末な文様が瞼の裏に蘇ってくる。なんだ、うずまきって。子どもでも描けるバカみたいに単純な文様だ。ばあちゃんに笑われる。


 もう一度右手をポケットに入れる。今度はもっとましな文様を描画してやる、そう思ってあたしは中空に蓮の花の意匠を描画した。いや、しようとした。

 それよりも一瞬早く魔狼の胸に槍が突き立てられた。レプリカといえど、その気高い槍は月光のもと爛々と紅色に輝いている。

 恐らくは心臓を一撃。魔狼の魔眼から光が失われ、その大きな肉体が糸を失った人形の如く頽れるのを、ただ目の前で見ていた。


 ネムだ。槍を引き抜いた彼は、つかつかとあたしの前に近寄ると、


「このバカ! なんで出てくるんだよ、師匠を見張ってろって言っただろ!」

「だ、そ、その瑠依さんが出てっちゃったから……!」

「なんだと」


 ネムがほとんど叫ぶような声で問い返す。どっちへ行った、と尋ねられても分からない。


「クソッ、あの死にたがりめ」

「死にたがり?」

「死地へ好んで赴くのは死にたがり以外の何者でもねえだろうが。あの野郎、俺にはさんざんっぱら説教しといて、自分だけは例外かよ」

「……でも、今の瑠依さんにはあたしの防御がある」

「はッ、とんだ自信だな」

「うん。ばあちゃんは、常に百パーセントの自信を持てって、」

「ばあちゃんばあちゃんうるせえな。ともかく師匠を探さねえと。お前は戻れ」


 言い捨ててネムは駅舎の正面の方に駆けてゆく。ここで戻るようでは何の為に出てきたのか分からない。その背を追って走り出すと、魔狼のぞっとするような吠え声が聞こえてきた。何頭かいるようだ。


「師匠!」


 ネムが叫ぶ。その槍に遅れないよう角を曲がって、駅舎正面に飛び出した。

 まず目立つのは魔狼たちの巨躯だ。丸太みたいに太い尻尾が地団駄を踏むように地面に叩きつけられている。彼らはその牙をむやみに打ち鳴らすだけで、取り囲んだ瑠依さんに傷一つつけられていない。


 噛みつくたびに赤い文様が浮かび上がり攻撃を拒絶する。ぱっと断続的に瞬くそれは花火に少し似ていた。瑠依さんが今もって無傷なのは、あたしの防御のたまものだろう。どうだ、と得意げにネムを見やるが、彼の目はもっと違うものを見ていた。


「防御、破れかけてんじゃねーか!」

「えっ」


 二十四時間はもつようにしたはずなのに。けれど確かに、狼が瑠依さんを攻撃するたびに、ぼうっと浮かび上がる防御魔術が掠れてゆくようだった。

 からくりはすぐに分かった。


「牙、狼の牙のとこ、何か文様が刻まれてない?」


 魔狼の長い犬歯には青い刺青のようなものがあった。ひっきりなしに動き回るので文様は特定できないが、何か植物の意匠だと思う。恐らくあれであたしの防御を食い破ろうとしているのだ。

 いや、現にもう食い破られている箇所がある。魔狼たちは防御のない場所めがけてそのあぎとを大きく開く。すんでのところで避けた瑠依さんだが、その表情に余裕はない。


「ぼさっとしてる時間はねえな」


 ネムは槍を構えるとユキヒョウみたいに跳んだ。

 彼の槍さばきは、あたしがこの間見た神性殺しの男性に勝るとも劣らないものだった。まるで自分の腕のようにひらりひらりと動かしては狼の心臓を的確に貫く。緩急自在のその動きは蝶にも似てけだものたちを翻弄する。


 けれども槍は一本きりだ。一頭の魔狼を貫く間に他の個体が飛びついてきては勝ち目がない。あたしはポケットから羊皮紙を取りだし、ネムと狼の間に体を滑り込ませた。


 描画するのは蓮の花。得意な意匠がすぐさま展開され、赤く瞬いたかと思うと、魔狼の横っ面をはたき倒す。


「どいてろハッキネン!」


 いやだと応ずる間もなく耳の近くで炸裂音が鳴り響き、あたしは度胆を抜かれた。ネムはあたしの後ろで銀色の銃を構えている。目の前ではあたしが弾いた魔狼が、眉間からどす黒い血を流して死んでいた。

 それはまあ、そうだ。だってこいつらは神性を帯びているわけじゃないのだから、槍じゃなくても殺せる。当たり前の理屈なのだけれど、ネムの様子があんまりにも神性殺しのそれに似ていたので、錯覚していたらしい。


「狼ときたら銀弾だろ」


 にんまり笑ってネムは、飛びかかってきた別の魔狼の眉間をぶち抜いた。銃の扱いには覚えがあるらしい。


「ネム、使った弾数は数えておけよ。ターシャがうるさい」

「師匠は黙ってて下さい。ハッキネン、師匠頼む」


 瑠依さんにかけた防御魔術は所々破れてしまっていて、そのせいでかすり傷が体のあちこちにできていた。特に左腕は、痛々しい噛み跡が残っていて、指先から点々と血が滴っている。

 完璧を自負していたのにこのザマだ。

 対策をされていたのが悔しい。対策されることなど夢にも思わず簡易な防御術式を展開してしまったことが悔しい。自分の油断が憎らしい。仕事を完遂できなかったことが恥ずかしい。

 目の前で確実に魔狼をさばくネムの姿を見るからなおさら羞恥心が募る。せめてこれ以上瑠依さんに傷をつけないように、あたしは羊皮紙をしっかりと握りしめた。

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