第11話 傷跡

 もういいだろうとネムが槍を下ろすと、穂先から血がひとしずく飛んだ。


 彼は真面目な顔をして、残りの弾数と落ちた薬莢の数を数えている。

 ネムの腕の良さは、使った弾数よりも転がった魔狼の死体の方がはるかに多いことからも分かる。近距離で、なおかつ槍も併せて使っていたとは言え、生半な実力ではここまで至るまい。


 魔狼の死体はざっと三十。屈みこんで彼らの牙を検分する。


「ああ、やっぱり……。体の大きな個体の牙には文様が刻まれてる」

「それがきみの防御魔術を阻害したのかな」

「恐らくはそうだと思います。唐草文様に”いちご泥棒”文様……」

「いちご泥棒? ずいぶん牧歌的な名前だね」

「この牙の尖ってる方を見て下さい。鳥の意匠があるでしょう、シンメトリーの。鳥は典型的な妨害魔術に使われる意匠ですから、いちご泥棒って俗称があるんです」

「ということは、相手はミルカの動きを読んでいたってことかな」


 あたしは答えず、ブーツに仕込んでいた小型ナイフを取り出すと、それで狼の牙を抉り取った。魔狼は魔術によって生きながらえているので、魔力の源である心臓を貫かれれば、粘土のように脆くなる。

 牙は綺麗な象牙色をしていて、あたしの両手から少しはみ出るくらいの長さだった。間近でよく意匠を見てみると、意外なほど細かい部分まで描画されていることが分かる。唐草に細かく生えた産毛まで分かるんじゃないかというくらい描き込まれてある。

 術式としては相当練り込まれている。気になるところと言えば、空間恐怖症なのではと思うくらい細かく執拗に描き込まれているので、遊びの部分がないことくらいだろうか。だがまあ、相手の術式に干渉し一時的に無効化するという目的がはっきりしていれば、ここまでかっちり構築しても問題はないのか。

 表面をちょっとだけ舐めてみる。


「うわっ、汚いよミルカ」

「炭ベースに豚の血、カミツレ、あとスパイスが少量混ぜてありますね」

「へえ、なんだかビールが飲みたくなるね」

「これ、徹頭徹尾相手の文様を阻害する為のものですね。意匠も、牙に刻むやり方も、刻んだ時に使った染料も」


 そう言うとネムが苦虫を噛み潰したような顔で、


「ハッキネン対策か」

「うん。相手はあたしの実力まで正確に測った上で、この魔狼をよこしたんだと思う。でもなんで瑠依さんを執拗に狙ったんだろう?」


 自慢じゃないが婦女子のあたしの方が肉としては上等なはずだ。食べる為の肉ではなく、瑠依さん個人を追跡するよう仕向けたのだとすれば、この魔狼を操っていたのは相当の手練れということになる。

 狼といった動物を象って使い魔を作成する場合、元となった動物の特性を受け継いでいるものである。狼は食料を狙って狩りをする。生存本能に逆らわせてまで瑠依さんを狙わせるには、相当手の込んだ術式を展開しなければならないだろう。


 だが瑠依さんはあっさりしたもので、


「ああ、私は色々と敵が多いからね」

「あちこちで女の子に声をかけているから?」

「それじゃあ私がとんだ尻軽みたいじゃないか。否定はしないけれど、それだけじゃなくて、多分私がこの社会で若干異物気味だからっていうのが理由だろうね。何しろ神性簒奪者なものだから」


 神性簒奪者。触れるだけで対象から神性をはぎ取ってしまう人。

 神性対策班の人たちが疎ましく思う気持ちは分かるが、そこまで敵を作るような能力だろうか。


「こういうことは日常茶飯事ということさ。フーダニット、つまり誰がやったのかという点は議論の余地があるだろうけれど」

「今回の魔狼はそこまで強くなかった。師匠を確実に始末する気があったようには思えねえ」

「ふむふむ。ということはやっぱり、ミルカの魔術がどの程度のものか試したかったんだろうね」

「……あの、ごめんなさい。簡単に破られてしまって」


 破られませんと胸を張っておきながら無様を晒した。結果として大けがにはならなかったけれど、期待されていた役割を果たせなかった。

 狼を遣わした術士が、あたしの実力を試したかったのだとすれば、その術士はさぞや呆れているだろう。簡単に破れてしまう防御術式などない方がましだ。


「ほんとだな。魔術覚えたてのガキじゃあるまいし、対策されることくらい考えて術式構築しろよな」

「ミルカが謝ることじゃない。そもそもきみが言うほど簡単に破られてなかったよ」

「でも怪我してます」

「この程度、怪我の内に入らないよ。気を使って言ってるわけじゃなくてね」


 瑠依さんが励ますようにあたしの背中をぽんぽんと叩く。


「きみがいなかったら病院沙汰だったよ。仕事なんて到底できなかっただろう。そうならなかったのはきみのおかげだ。ありがとう」


 そう言って瑠依さんは笑った。責められるよりもずっと心が痛む。あたしは課せられた義務を果たせていない。

 瑠依さんが許した手前、いつまでも突っかかることができなかったのだろう。ネムも槍を折りたたみながら、


「……まあ、お前にとっちゃこれが初戦だしな。それに相手がお前の実力を低く見積もってくれるんならそれに越したことはない」


 とぶっきらぼうに言ってあたしを睨んだ。


「次は失敗するなよ」

「分かってる、次は絶対……!」

「気負いすぎるのもどうかと思うけどね。さて、夜が明けるにはまだ時間がある。もう一眠りしてから出発するとしようか」

「その前に師匠は怪我の治療ですよ。左手、結構ざっくりいってんでしょ」

「利き手じゃないから大丈夫」

「その理屈はもう通用しねえぞ。怪我した右足庇って歩いて、左足捻挫したのはどこのどいつだ」


 もはやしらばっくれる余裕はないと見たか、瑠依さんはしぶしぶシャツの袖をまくり上げ、傷口を見せた。

 ぎょっとした。その傷口にではない。

 彼の腕には無数の傷跡があった。まだ生々しいかさぶたになっているものから、薄ら残るだけになっている遥か昔の怪我のあとまで。数えるのも厭わしいくらい。

 ネムがちらりとこちらを見る。瑠依さんはいっそ子どものように無邪気にネムの治療を待っている。

 恐らく服に隠されて見えないところも、傷跡があるのだろう。ネムが心配になるわけだ。傷の多さもさることながら、本人にそれを嫌がる様子がまるでないのも気にかかる。


 だから、なんだ。


 あたしは初めて納得した。瑠依さんが怪我を嫌がらない以上、無理やりにでも守らなければならないんだ。だから本当に強い術士が必要なんだ。

 ネムがあたしに失望するのも無理はない。あたしは期待に応えられなかった。

 だけど、もう二度とこんな醜態は晒さない。

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