第8話 燃えない本
それから多分、三日も経っていないと思う。
「燃えない本!」
電話を置いてから瑠依さんは興奮したように喋り出した。
「図書館の建物自体は焼失せしめたというのにどうして本だけが燃え残ったのか? 僧院に併設されている図書館で、一部分が木造になっているようなもろい建物だ。本だけ燃え残るなんて万が一にもありえない、ありえないが、ありえている」
立ち上がった瑠依さんは、棚から数冊の本を引き出すと、机の下に置いたトランクにそれを放り込み始めた。
「な、何事ですか? 今のは誰から……」
「ターシャだよ。きみも用意を始めなさい。すぐに出発だ!」
ネムがすっくと立ち上がる。
「出張ですか」
「ああ。デラントワ地方だから、ええと……列車で行けるかな」
「デラントワ……北の方ですね。山脈が邪魔してるから列車でも結構時間かかるんじゃないっすか。コート持ってこねえと」
「山脈かあ、そうかあ……。あ、住所がきた」
瑠依さんはパソコンを覗き込んでその住所を表示させる。
「うわっ、なんだここ。列車の最寄駅から徒歩で三時間?」
「辺境の地にも程がありますね。あたしたち、今からここへ行くんです?」
「そうだよ。火でも水でも破壊されない本があるんだって。神性案件じゃないか、だってさ」
「神性案件」
心臓を螺旋状に抉られた死体が見つかった、とかいうわけではなさそうだ。少し拍子抜けしたけれど、初めての神性絡みの案件だ。
瑠依さんは慌ただしく旅装を整えながらも説明してくれた。
「私たちはどうも神性を付与されたというと生き物を想像することが多い。神性獣みたいなやつだね。けれどモノにも神性は付与され得るんだ」
「それは……オブシディアンの手によってですか」
「そう。神性を付与できるのはこの世でオブシディアンしかいないからね。神性を帯びているかどうか、パッと見て判別できる方法はないし、それ即ち人間に害を及ぼすものというわけではないんだが、神性は人間の魔術を阻害する」
アルハンゲリスクがいい例だ。頭上にぷかぷか浮かんでいるミネルヴァによって、まともに魔術を展開できない。
「そういうのに神性生物対策班が絡んでくるのは、神性を排除するというよりは、管理するという名目の為だね。十三門閥もうるさいらしいし」
「魔術が阻害されるというなら、そりゃあ彼らもどうにかしろって言うでしょうね」
「そうそう。対策班の重大なパトロンだけに、扱いが難しいんだよねえ。へそ曲げると平気で首都封鎖とかするしさ」
「ああ、二十年くらい前にあったって聞きました」
「首都封鎖とかする暇があれば、アルハンゲリスク全体に防御魔術でも展開してほしいものだよね。門閥だなんて偉そうにしてるわりに、その程度のこともできないんだから呆れちゃうよ。……けどいくらパトロン様のご命令と言えど、細かい案件に神性殺しの連中は関わっていられない。彼らの最も重要な仕事は市街防衛だからね」
瑠依さんは胸を張る。
「そこで私たちが登場するというわけだ! 言わばピンチヒッターというやつ! ……しかし本当にどうやって行くんだ、ここ?」
地図を覗き込んでみる。図書館があるという僧院は山の上にあるようだ。最寄りの駅は麓の湖の近くにあって、僧院にアクセスするには山登りを余儀なくされそうだ。
「秋口ですから、ぎりぎり積雪もないとは思うんですが……。飛んで行くのが一番早いと思いますけど、神性の魔術妨害ってのはどのくらいの範囲で影響があるんですか?」
「恐らく本程度の大きさなら、そんなに大きな妨害にはならないと思うよ。寒いの嫌だし、きみたち二人におんぶにだっこで飛んで行こうか」
それならハーネスがいるかな、などと言いながら、瑠依さんはトランクに様々なものを詰め込んでゆく。ネムに至ってはソファの影に放っておいたずた袋を背負って、もう準備完了の面持ちである。
「……あっ、すぐって、今すぐですか」
「そうに決まってんだろ、ノロマ」
ネムがいかにも小馬鹿にしたように言う。手先の器用なこの少年は、あたしがちょっとでもへまをすると鬼の首を取ったみたいに喜ぶのだからやっていられない。まるで主人を取られまいと頑張る忠犬のよう。
「五分で支度終わらせて来いよ」
「分かってる!」
恐らくネムが三分で痺れをきらしたところを、瑠依さんがどうにかなだめすかして二分を稼ぐ流れだろう。
ここの事務所では、口にしたことはきちんと守られる。リズムがある。あたしとて部外者の自覚はあるので、せめてそのルールくらいは遵守しようと思った。
――まあ、結局支度には十分以上かかり、堪忍袋の緒などとっくに千切れまくったネムが、駅までの道中言葉を尽くしてあたしを罵りにかかったのだが、それは水に流そう。
「女性の支度が予定通りに終わると思った? まだまだ甘いね、ネム。要修行だよ」とどこか得意げに瑠依さんが言ったことも。
*
切符は一等車だった。
瑠依さんが名刺を出すと、窓口の男性はすぐに一番早い列車の一番良い席を三つ用意してくれた。あたしは三等車でいいと言ったが、説明したいことがあるからと引き留められた。
「出張は経費で落ちるからね! アイスも食べていいよ」
「師匠」
「いいじゃないかアイスくらい。美味しいんだから」
「んなことよりその携帯を弄る手を止めて下さい。女の子とのメールはあと」
「ごめん、これだけ」
瑠依さんは恐るべき速度で携帯にメッセージを打ち込んでゆく。しばらく打ち込んでから満足したように携帯を置くのだが、すぐ画面に通知が浮かんでくるので気が逸れるったらない。業を煮やしたネムが携帯を奪い取り、自分の胸ポケットにしまった。
「まずはブリーフィングです。列車で二時間、乗継で一時間、そっから飛んで二時間あるんすから、傾向と対策する時間はたっぷりあるでしょ」
「ネムは真面目だねえ」
「師匠が場当たりすぎるんです。大体こいつの防御魔術だって即時展開ができないんですから、今の内に効果的に展開しておく必要があると思うんですけど」
「ああ、でもそれはそうかも知れないな。きみの魔術はちょっと特殊だしね」
「はあ」
「ブリーフィングといっても分からないだろうから、しばらくは聞いていて。質問があれば適宜してくれて構わないからね」
何と比べて特殊なのかは分からないが、展開に時間がかかるのは確かである。慣れないふかふかの座席に苦労して身を起こしながら、あたしはネムと瑠依さんの会話に耳を傾けた。
「神性の濃度はどのくらいですか」
「一つ一つは少なくても、数が多いから少し面倒かもしれないね。通話に問題はないそうだが、今入ってきた情報によると、魔術の展開は今のところレベル3の妨害に至っているというから、結構不便なんじゃないかな。空飛んで行くのは難しいかもね」
頷きながら、ネムがぽつりと呟く。
「オブシディアンの降下スケジュールとも合わないっすね」
「ああ、そんなもの有名無実、ただの飾りさ。連中が折り目正しく『今から行くね、待っててね』なんて事前連絡を寄越すわけがないだろう」
はいはい、とあたしは手を上げる。
「オブシディアンの降下スケジュールってなんですか」
「オルトラはそんなニュースも届かないほどの辺境なのか? それともあんたがよっぽど呑気に生きてきたのか」
「え、そんな常識的な話なの? オルトラでは全く聞かなかったけど……」
「建前上だけど、オブシディアンはアルハンゲリスクから離れた場所には行かないということになってるからね。知らないのも無理はない。……それに彼らは好戦的だが、人間に手をかけたことはない。進んで街を破壊したり、略奪をしたこともない」
その通りだ。オブシディアンは神性を持つ不死なる生き物であり、人間とは一線を画している。ぶつかり合う利益がない為彼らが直接人間に害を与えることはない。
落ちてくる神性獣はまた別の話。
「つかお前、神性獣を防いだことがあるって言ってなかったか? なのに降下スケジュールのことも知らねえのかよ」
「神性獣を防いだことはあるけど、オブシディアンについては全然知らないよ」
私が神性獣を防いだのは、今から二年前くらいの話だ。
小型の神性獣が複数落下してきた際に、一頭だけ神性生物対策班の目をすり抜けて、国内に逃げ出した個体がいた。本当に小さくて、中型犬くらいの大きさだった為に、長い間誰にも見つかっていなかった。
それがオルトラ周辺で畑を荒らしたり、苗木を掘り返したりしたせいで退治されることになった。その段階で初めて神性獣であることが発覚したのだ。
神性殺しが来るまでの時間稼ぎとして、倉庫に防御魔術を展開し、その中に神性獣を閉じ込めて事なきを得た。だから神性獣といってもそんなに怖くはないのだなという印象しかなかったのだ。
正直にそのことを話せば、ネムがじっとりと睨んできた。
「中型犬程度の神性獣なんて、全然大したことねーじゃんか。よくそんなんで大口叩けたよな」
「で、でも、こないだのはちゃんと防げたでしょ、神性獣。だからノーカン」
「何がだよ、ったく」
「まあまあ。そもそもオブシディアンや神性獣の有害性って、田舎の方ではどこまで認知されてるのかな」
「うちの方ではあまり……。それよりも森の害獣の方が怖がられていたって印象がありますね。魔狼とか、魔猪とか、精霊に近くなっちゃった牡鹿とか。彼らもまた魔術的な生き物ですから」
「ああ、術士でないと扱えないと聞くからね。なるほど、道理できみがオブシディアンに対してフラットな反応をするわけだ」
そう言うと瑠依さんはオブシディアンの降下について教えてくれた。
なんでも、オブシディアンたちは定期的にアルハンゲリスクに降りてくるのだという。物見遊山だか外交だか知らないが、ともかく定期的に。向こう一年のスケジュールがオブシディアンから通知されていて、人間たちがそれを見ながら彼らを出迎える。
――というのは建前で。
スケジュール通りに降下がなされているかどうかは怪しい。こっそり降りてきてどこか別の都市に遊びに行くオブシディアンの例もあったそうだし、瑠依さんに言わせれば、わざわざスケジュールを通知してくるなんて、絶対他で何かしてるに決まってる、とのこと。
「でも確かに、神性を帯びたものがある以上、そこにオブシディアンがきたってことですもんね。スケジュール外のところで降りてきているのは間違いないでしょう」
「そうそう。でも、実は神性とは全く関係なかったってオチになる可能性もあるんだけどね。こういうの、行ってみると結構手の込んだ悪戯だってこともないわけじゃない」
「ええ? 何の為にそんな悪戯をするんでしょう」
「うーん、神性殺しってのがそもそもよく思われてないふしがあるからね。街を破壊するし、なんかよく分からないけど怖いし、その上オブシディアン側の人間だと思われてたりする。ま、のんびりいこうよ。アイス食べよう」
「何を呑気なことを」
どすの利いた声が響く。ネムがじっとりと瑠依さんを睨んでいる。
「そう言って全治一か月で病院にぶち込まれてたのはどこの誰でしたっけね」
「それはもちろんほかならぬこの私だけれども、あれは例外だろう。しかももう半年前の話だぞ。恨みがましい男はもてないよ」
「どこが例外ですか。偽の神性獣を餌にまんまとおびき出されて、まんまとリンチされてたくせに」
「り、リンチ?」
物騒な言葉だ。思わず身じろぎすると、瑠依さんは呆れたように、
「神性絡みの連中憎しという輩はどこにでもいるさ。運悪く彼らにあたってしまっただけの話だろう、あんまり蒸し返すものじゃないよ」
「だからって、俺から引き離されてあんな場所で……! もうちょっと俺が遅かったら、死んでたかも知れねえんだぞ」
「そう大声を出すな。ミルカが怖がるだろう」
怖がるほど状況を把握できていない。けれどネムが怒りと恐怖を同じくらい抱えているのが分かった。
彼は本当に、本当にその瞬間が恐ろしかったのだろう。自分が間に合わなかったら――。そう考えてしまうということはつまり、そういうことだ。
でも、今はそのためにあたしがいるんだから。
あたしはポケットから麻の布を取り出した。ハンカチほどの大きさで、赤い糸で刺繍を入れている。
「瑠依さん、これ」
「うん? ああ、蓮の花の文様……。ということはきみの十八番だね」
「はい。あたしの防御文様は展開するのに時間がかかります。なのでそれを時間短縮のための補助線として使います」
補助線、と繰り返して瑠依さんは、しげしげとハンカチを眺めた。
「で、私はこれをどうしていればいいのかな」
「持っていて下さい。そしたらあたしがそれを元に防御魔術を展開します」
「それで時間はどのくらい短縮できる?」
「……えっと、三十分はかかりますけど」
「全然短縮できてねぇじゃんか!」
ネムが叫ぶ。三時間を三十分にしたのだ、褒めてもらってもいいくらいなのに。
「それじゃ何かあった時にすぐ展開できねえだろ」
「だから今ここで展開するの」
「……持続時間は」
「二十四時間」
「強度は」
「魔猪が突っ込んでくるくらいなら余裕でもつ。元は森へ出るばあちゃんに付与していたものだから」
ただし、と付け加える。
「神性獣の体当たりを防げるほどではないと思う。これで試したことないから……」
「じゃあこれから行く場所で試せるかも知れないね」
「師匠。そういうことを言わない」
ネムがぴしゃりとたしなめたが、瑠依さんはへらへらと笑っている。不真面目ではないのだけれど、なんだろうか。この人は、ほんとうは何がしたいのかなと思わせるような雰囲気で、あたしは少し不思議に思いながら、魔術の展開を始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます