第7話 雌伏のバラ
顔を上げるとお昼休みに差し掛かろうという頃だった。
瑠依さんが所長を務める「トキワ事務所」は、十二時から二時の間お昼休みを取るので、その間は閉室の札をかけなければいけない。
まあ、神性絡みの案件はほぼ百パーセント神性生物対策班に持ち込まれるので、お客さんが来たことなんて一度もないのだけれど。
瑠依さんが自ら塗り直したという深緑色のドアを開ければ、大輪の花束があたしを迎えた。
「……なんです、これ」
「ん? ミルカか! ごめんごめん、これからデートでね。車のキーを取りに来たのさ」
大輪の真っ赤なバラの花。一種で収めたのは評価できるが、抱えきれないほどの数となると……。
「いくらしたんですか、こんなに買ってきて! お花は高いのに」
「あはは、高いからいいんじゃないか。ミルカにも一輪あげようね」
開きかけた一輪の花を抜き取ってあたしに寄越す。これだけでも売ったら小銭になりそうだ。少なくとも一食分くらいは浮くかもしれない。
「ミルカ、今その花売ろうかなって考えてただろう」
「べっ別に、人から貰ったものを売るほど落ちぶれちゃいないです」
「どうだかねえ。きみは花より団子なタイプだから」
瑠依さんは鏡の前で身だしなみを整えると、意気揚々と出て行こうとする。
「待って下さい。もう二週間も、なあんにもしてないじゃないですか」
「うん? してるよ、角っこにある本屋に勤めてるエレーナの連絡先をゲットできたし、これから噴水前の広場でランチだ。なんて進歩!」
「そういう話じゃなくって! お仕事の話です」
「お仕事なら今ネムときみがしている。自動文様展開盤の修理は大事な資金源だよ」
優雅な仕草で後ろのテーブルを示す瑠依さん。テーブルの上には様々な部品がきっちりと並べられ、ネムが慎重な手つきでそれを組み合わせていた。
ルーペの倍率を弄りながら、ネムは他人事みたいに、
「師匠。早く行かないとエレーナが怒るんじゃないですか」
「おっと! そうだったそうだった」
ひらりと踵を返した瑠依さんは、思い出したように振り返ると、あたしの目を覗き込んだ。
「焦るものではないよ、ミルカ。狩りと同じだ。きみが間断なく獲物を追おうとするのならば、そこには緩急がなくてはいけないね」
「緩急。……今は雌伏していろということですか」
「その通り! アンブッシュに次ぐアンブッシュ。獲物が弱みを見せたその一瞬を全力で貫く、狩りとは元来そういうものだ。急いては事を仕損じるってね」
「……だからってそれが、サボっていい理由になるとは思えませんが」
「冬国の出の子は真面目で厳しいな。そういうところが魅力的なのだけれどね」
二週間ぽっちだけれど、ここで寝起きさせて貰えるようになって分かったことがある。
こうやってあたしを褒めるような言い方をするときは、あたしを煙に巻きたいときなのだ。説明をするのが面倒だから、思ってもみないことをぺらぺらと喋ってごまかしている。
その態度には腹が立つけれど、だからと言ってどうしようもないのが現状だ。瑠依さんは多分あたしが思う以上に頑固だし、口が堅い。
瑠依さんは黙ったあたしを見て上機嫌に頷くと、戸口に引っかかっていた車のキーを指先ですくいあげ、足音も高らかに出て行った。
ネムはルーぺから顔を上げると、口の中で何かぼそぼそと呟きながら、素早く指文字を作った。すると目の前でバラバラになっていた部品がふわりと浮かび上がり、ゆっくりと組み上がってゆく。
あれが彼の魔術展開のキーだ。あたしは文様のみだけれど、彼は音と指文字、あるいは文様を組み合わせて魔術を展開しているようだ。ミネルヴァの影響を受けがちだけれど、アルハンゲリスクでも最小限の魔術ならば使うことができるらしい。
彼が今修理している自動文様展開盤は、自立式ではないものの、キオスクに置かれる公共のものだ。ベンディングマシーンのように、お金を入れてコマンドを選択すれば、身だしなみを整えたり、肉体を強化して早く走れるようになる魔術をかけてくれたりするものである。
遅刻した朝に便利! と筐体の横にでかでかと書かれてある。ニッチな用途だ。
「……しっかしお前も凝りねえな。師匠が女好きなのは今に始まったこっちゃねえだろ」
「だって、何にもしてないんだもの」
「何もしてないなんてどうして言える? 師匠が外で何をやっているのか全部見たのかよ」
「そんなことは、ないけど……」
「手を動かすばかりが仕事じゃねえんだよ。おら、分かったらさっさとこっちに戻って修理の続きすんぞ」
渋々テーブルの前に戻る。革張りの古びたソファに座ると、革の破れ目から埃が舞い上がってほんのり煙草の匂いがした。
このソファはバーからのおさがりだという。あそこの本棚は瑠依さんが手ずから作ったものでちょっと傾いでいるし、天井の明かりに至っては裸電球で寒々しいことこの上ない。
瑠依さんとネム、そしてあたしが寝起きしているこの事務所は、古びた石造りのアパートメントの二階と三階の部分である。運河に面しているのでグラウンドフロアはちょっと湿っぽいし、真冬は冷凍庫よりも寒くなるんだとか。
二階は事務所、三階は居住部分。と言っても三階のあたしの部屋はベッドを入れたらそれだけで終わってしまうような狭さだし、セントラルヒーティングもいまいち効かない。屋根のある場所で眠れる上に給料まで貰えるのだから、贅沢など言っていられないのだけれど、それでもばあちゃん家の広いベッドが懐かしかった。
唯一の豪奢な調度品は瑠依さんのワークデスクだろう。樫の木でできた艶めく天板は、毎日あたしが手入れをしているので、アンティークらしい深い輝きを放っている。その上に広げられているのが、誰かにあてるラブレターであるのは、ちょっとばかし空しいが。
「ねえ、うちってぼろい分、家賃は安いんだよね?」
「安い。それに国から補助金出るからな」
「何に対する補助金?」
「アルハンゲリスクなんて危険地域にわざわざ住もうという度胸に対する補助金」
「いくらくらい?」
金額を聞いてびっくりした。オルトラだったら多分四か月は余裕で暮らせる!
「それに加えて師匠が神性生物対策班から貰う成功報酬があるから、合わせると結構な額になるな。まあそれなりに物価も高えし、師匠の治療費なんかもバカになんねえから、こうやって自動文様展開盤の修理やって貯金してんだけどな」
「ふうん。最初に提示されたお賃金がね、思ったよりも高かったから、どうやって捻出するんだろうと思ってたら……。そういうことだったんだ」
それにしても、高額な補助金を払ってまでアルハンゲリスクという都市に人を集めようとする理由が分からない。例え神性獣が落ちてくるリスクがあったとしても、少し働くだけで食べていけるのならば、毎年多くの人がここへ集まってくるだろう。
不思議なことだ。
瑠依さんから貰ったバラを見る。きちんと棘の処理されたその花は、丁寧に面倒を見ればもっと花弁を広げてくれそうだ。
事務所横にある狭いキッチンに向かい、食器棚を探る。花瓶なんて気の利いたものがここにあるはずもないので、グラスの中から背の高いものを選んで、そこに貰った一輪のバラの花を挿した。
自分が焦っていることは承知していた。
あたしが守った倉庫の中にいた男性――ミスター・ローザというお名前らしいが――彼はやはりばあちゃんと同じく、心臓を抉られて即死したのだという。取り出された心臓は見つかっていない。
昔は地方の小さな森の”ガーデナー”をやっていて、一度それを引き継いでから、十三門閥で魔術を学び直したという経歴を持つ。ゆえに彼は”ガーデナー”であり、術士でもあるという才能の持ち主だったのだそうだ。
借金は無し、怨恨の線も薄く、単なる物取りとするには傷痕があまりにも不自然だったし、そもそも一切持ち物を取られていなかったという。
ではどうして、なぜ、どうやって殺されたのか?
手がかりはあの螺旋状の傷跡一つのみ。それしか分かっていない。そのことが何を意味するのかも、今のあたしには分からない。
けれど、瑠依さんから貰ったバラを見つめていると、何となく焦りが引いてゆくようだった。
分からなくて当然だ。とりあえず今は、手がかりを最初に受け取れる場所にいるだけでもよしとしなければ。
「焦っちゃだめだよ、ね」
咲き初めのバラのしっとりとした花弁に触れてから、あたしは仕事に戻った。
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