第33話 千切れた首の皮一枚
二十六日目、金曜日。
刺激が足りない。
刺激ガ足りナイ。
シゲキガタリナイ。
和泉の精神は半ば折れていた。こうも早く自分の精神が悲鳴を上げるとは思っていなかったのだ。恐怖という感情が薄い和泉にとって、退屈という不快感こそが恐怖だった。
まるでムカデが体中を這い回るような、ぞわぞわとした掻痒感。その正体は体の内側から滲み出た衝動的で破壊的な欲求だった。それを必死に押さえつけている。
気が狂いそうだ。
白服と余計な接触をしないようにと思ったことが間違いだった。
見通しが甘かった。もうすでに衝動的欲求は破裂しそうになっている。今白服と会えば、何をしてしまうか自分でも分からない。そしてそれをやってしまえば、流石にどこぞに連れて行かれてしまうだろう。
外に出て気分転換がてら施設の視察をしようとも考えたが、一昨日からエントランスへのドアを開ける鍵が見つからない。
疑うまでもなく、真尋の仕業だ。
真尋が裏切ったあのとき。スタンガンを食らって和泉が倒れていた際、真尋は脱走の証拠として鍵を職員に渡そうとしたのだろう。そしてそのまま、鍵は真尋ごと行方知れずに。
人と合わないために、食事をするのはやめた。昨日の朝、注文している最中にカウンターに置かれた食事用ナイフで食堂担当員を刺そうと考えてしまったのだ。
今は水分しか摂っていない。水だけなら食堂の隅に設置してあるウォーターサーバーで飲める。調理師を視界に入れないように、床をずっと凝視しながら歩いた。
和泉は今、寝ながらにして、無音を掻き消すために絶えず足を揺すっている。布団ががさがさと隙間なく音を敷き詰めていった。
目を閉じると、一面の黒が世界を覆う。
目を開けると、モノトーンの世界が広がる。
色がついている物は枕元に置いてあるが、目を開けるとまず目に飛び込んでくるのは、壁と上段ベッドの床板の白だ。
病的なまでの白。
この施設は白服たちのために作られている。制服の白さも建物の白さも、何か彼らに利するところがあるのだろう。頭を弄られている連中のことだ、脳に出来るだけ負荷が掛からないように、というような。
だがその白さは一般人には毒だ。猛毒だ。死に追い詰める象徴の色だ。
和泉は衝動的にバタフライナイフを手に取り、左手の平を切りつけた。すうっと赤い線が伸びる。じくりとした痛みが生を感じさせた。
手が届く範囲、辺り一面に血をなすりつける。目を開けたときに一面真っ白にならないように、痛みの記憶とともに赤く彩っていく。血の匂いもまた鮮烈な刺激となり、和泉を落ち着かせた。
和泉は脱ぎ捨てていた上着を手に取り、袖を裂いて細長い帯にした。そしてベッドに散らかしてある荷物の中から生理用ナプキンを手に取り、小さくカットする。それを左手の傷口にあて、帯で結び、応急処置をした。
痛みで正気が保てるとはいえ、流石に傷口をそのままにするのはまずい。
消灯してからどれだけ経っただろうか。
頭の中は火花が散るほど昂っている。気を抜けば心が壊れてしまうと本能が警告し、眠気は霧散した。
永遠とも思える時間を、足を揺すり、血の赤と匂い、傷の痛みを感じて過ごす。
そうしているうちに部屋の明かりが灯り、起床時間を告げる音楽が流れ始めた。
あと少しで最終日の月曜日だ。
思考がうまく纏まらず、作戦らしい作戦は思いつかない。でもきっと大丈夫だ。自分ならやれる。裏切りさえなければ行けるはず。
その空虚な自信は、折れかけの精神を支えるための幻だった。
* * *
二十九日目、月曜日。
ついにこの日が来た。収容期間満了で卒業生となる日。
和泉は左手を握りしめる。すると、刺すような痛みとともにじわりと血が滲み出た。
切りつけた左手の傷口が膿み、熱を持っている。その痛みこそが正気を保つ『首の皮一枚』と和泉は信じていた。
卒業式に呼ばれる前に、防寒具を整える。着てきた上着は左手の止血のために使ったので、一度しか立ち寄ったことのない貸衣装室に向かった。
施設内探索のとき立ち寄ったのだが、服が並べられているだけで、それ以外に特徴のない部屋だった。
今見てもただの服が並べられているだけの部屋だ。部屋自体におかしなところはない。だがその衣服が何なのか、今なら分かる。
「そういう部屋か……」
ある事実に気づき、和泉は呟く。
ここに並べられている衣服は、収容者たちが着ていたものなのだ。
目の前の上着に見覚えがある。かなおがバスで着ていたものだ。おそらく、探せば他の子のものも見つかる。
かなおのものは流石にサイズが小さいので、近くのダウンジャケットを適当に羽織った。
そのときちらりと目に入ったのは、真っ赤な洋服。前期卒業生代表の杉方が着ていたものだ。
杉方のものにしては少しサイズが合ってなかったので、杉方もここで借りたのだろう。これだけ多くの中から悪趣味なほど赤い服を借りたのならば、心を蝕む『白』に抗おうとしていたのかもしれない。鮮烈な色を目に焼き付け、自身が『白』に溶けてしまわないように。
部屋に戻ると、ほどなくして
「葛城さん、卒業おめでとうございます」
何もめでたくはないが、和泉は適当に相槌を打つ。
「……あの、大丈夫ですか? くまがすごいですよ?」
「ええ、ちょっと興奮して眠れなくて」
「そうでしたか。最近部屋に籠りっきりでしたので、体調が悪いのかと……」
「大丈夫です。それで、私しか残ってませんし、私が卒業生代表っていうことになるんでしょうか」
「はい、そのことでご相談が。卒業生代表として次期入所生に一言挨拶をお願いできますか?」
「いいですよ」
「よかった、ありがとうございます。それでは、打ち合わせがありますので、講堂へ来ていただけますか?」
「……ええ、もちろん」
返事を聞いた栽原は、笑顔で踵を返す。
「栽原さん、最後に言いたいことがあるんですけど」
そこで和泉は栽原を呼び止めた。
「はい、なんでしょう」
「今から殺しますね」
「…………」
バタフライナイフを目の前にチラつかせると、栽原の動きは止まった。
「やっぱり、他人の攻撃性がうまく認識できないから、どう対処すればいいか分からなくて動けなくなるのか」
ぼそぼそと分析を呟きながら、和泉は栽原の腹にナイフを突き立てた。反射的に栽原の体は屈曲するも、それ以上の動きはない。
茨戸に掴みかかられた園井も、かなおに刺された庭瀬も、喧嘩を止めなかった真尋のクラス担任も、みんなみんなそうだ。治日の言葉ですべてを理解した。こんなことで動きが止まるとは、欠陥品もいいところだ。言動が理解不能という以前に、生物として大きなものが欠けている。
その反応を確かめた和泉は、栽原を部屋の中に引きずり込んだ。糸が切れた人形のように床の上に崩れ倒れた栽原めがけて、ナイフを何度も何度も振り下ろす。
「あー、直接殺すのって結構楽しいじゃん」
和泉は「殺人」という刺激に酔いしれ、
ひとしきりナイフが肉を掻き分ける感触を楽しんだあと、和泉は血で温まった手で栽原の上着を漁り、鍵を取り出した。
「あとは邪魔が入らないようにできるだけ殺すか」
和泉の頭の中には作戦と呼べる作戦はない。
邪魔者を排除し、バスかトラックの運転手を脅して橋を突破する。精神的苦痛によって思考力が削がれ、考える余裕もなかった頭では、それ以上の答えは導き出せなかった。
真尋や治日がいれば無事に脱走できる案も思いついたかもしれないが、そんな「もしも」は訪れない。事実として治日は毒を飲んで逃げ、真尋は自分だけ助かろうと裏切った。だが和泉も、はなから利用するつもりで二人と付き合っていた。真尋と治日だけでなく、愛歌やかなお、茨戸も、和泉にとってはただの道具でしかなかった。
和泉だけが割を食っているのではない。他人を踏みにじってきた者が集まっている時点で、心から信じて手を取り合うなど、どだい無理な話だったのだ。
和泉は一応スマホも持っていこうと思ったが、いつだったか床に叩きつけて壊れていたことを思い出した。
仕方なくナイフと鍵だけを手に、講堂へと向かう。
エントランスに入り、首吊り縄を横切る。垂れ下がった縄など、もはや眼中にない。殺人の快楽に酔いしれた和泉の目には、今から殺す白服たちの面白い死に様が浮かんでいる。
廊下を進み講堂に入ると、何人もの白服たちが待機していた。その奥で園井はスピーチの練習だろうか、メモを読んでいる。
勢いよくドアを開けた和泉に視線が集まる。
「今から全員殺しますねー!」
楽しくなってつい声を張り上げてしまった。
実際に刺されそうな距離でないと効果が薄いのか、白服たちは動きが鈍るだけで、血
まずはその白服を刺す。若い女性だった。そうすると、目の前で何が起きているか理解した――正確には、あまりにも理解できなかった――白服たちは動きを止める。
それからは次々と新しい玩具で遊び始める子供のように、和泉は一人ずつ楽しく殺していく。何日も食べ物を口にしてないというのに、不思議と力が
ある者は首を掻き切って殺され、ある者は脳に負荷が掛かり過ぎたのか何もせずとも倒れて死んだ。講堂の奥へと進むたびに、和泉は赤く染まっていく。
もはや和泉は正気ではなかった。左手の痛みこそが正気を保つ『首の皮一枚』と思っていたが、それはもう千切れていたのだ。ありもしない薄皮を頼りに、和泉は今日まで生きていた。
身じろぎひとつしない園井の腹に、上に向けたナイフの刃をゆっくりと刺す。脂肪が厚いせいか、いまいち手応えがない。
ナイフを両手でしっかり持ち、全体重をかける。よろめいた園井は壁にもたれかかり、そのままずるりと体を落とした。
肥満体型である園井の重みも加わり、ナイフは園井の体に引きずられつつも胸に向けて刃を滑らせた。内臓がかなり傷つき、もう助からないだろうというのは和泉にも分かった。
「あー、楽しかった」
この場にいる自分以外の人間を殺しきり、和泉はまるで名作娯楽映画を一本見終えたかのような充実感に満ちていた。
最後の最後まで誰も邪魔をしてこなかった。かなおが暴れ、庭瀬が死んだときもそうだが、頭がまともな連中は表には出てこない。本当に監視していないのか、殺されるのも実験の想定内なのか。
なんにせよ、これで脱走を邪魔する者はいなくなった。あとは送迎バスを待つだけ。
意気揚々と講堂を後にする。歩くたびに、血で濡れた靴がねばついた音色を奏でた。
エントランスにたどり着き、玄関ドアを見る。
もうすぐ外の世界へ出られる。そう思ったとき、和泉は靴に付いた血で足を滑らせてしまった。
左腕を床にしたたかに打ち付け、持っていたナイフは軽快な音を響かせながら滑ってく。
「いった……」
今の衝撃で酔いが覚めた。少しばかりの正気を取り戻した和泉は、ナイフを取ろうと立ち上がると、ナイフが椅子の近くに転がっているのを見つけた。
ナイフから椅子へ、椅子からその上へと視線を上げていくと、縄で形作られた輪っかが目に入った。
それは逃げることを諦めた者が最後に
自然と和泉の足が縄へ吸い寄せられていく。
和泉は薄々理解していた。ここから逃げ出せたとしても、そのあとはないと。家庭の事情も学校での問題も、一度たりとも自分が犯人だとは思われなかった。それなのに、この施設は和泉が真犯人だと確証を持っている。
調査能力が自分の想像を遥かに超えている。逃げ出せたとしてもすぐに居場所が突き止められるだろう。そのあとは退屈な地獄だ。監視され、人を殺せず、何かされるのではないかと警戒する日々。
きっと耐えられない。
それならば逃げた方がマシだ。
和泉は椅子にのぼり、血塗れの手で輪を掴む。縄の輪っかは、和泉が来るのを待っていたかのように、ちょうどいい位置にぶら下がっていた。
和泉のその姿は、そうはなるまいと思っていた杉方の姿と重なっていた。
輪に首を掛け、椅子を蹴る。その一連の動作に、
病的なまでに
残響消えゆく中、人ひとり分の重さを吊るした縄が、ゆっくりと、静かに揺れていた。
縄が首に綺麗に入ったようで、すぐさま意識が手から離れていく。
死への忌避感はなかった。退屈から逃げられるという安心だけが、ここにはある。
目の前が真っ暗になりかけたそのとき——。
「イズミンッ——!」
――ドアを開ける音とともに、聞き慣れた声が聞こえた。
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