第30話 裏切り眼鏡
二十二日目、月曜日。
治日がいなくなってからの一週間は、酷い有り様だった。自分たちが脱走に失敗したという事実が広まり、ただでさえ
逃げ出すこともできないと悟った少女たちの精神状態は悪化の一途をたどり、言動は度を越していった。
積み重なる苛立ちから攻撃的になる者はいたが、それが喧嘩という形で表出するのではなく、ついには無差別な暴力となって表出させる者が現れた。何がきっかけなのかは知らないが、口汚く罵りながら見境なく襲う様は、まさしく「発狂」と呼べるものだった。
発狂者は数人がかりで取り押さえられると、それまでは鬼のような形相で暴れていたというのに、一転して笑い転げ始めた。
その後駆けつけた白服たちに連れて行かれたが、帰ってくることはなかった。
そういえば、かなおも帰ってきていない。
白服に呼ばれ、『卒業者』として消えていった者もいるが、基準が未だに分からない。いつか自分もそれに認定され、どこかに連れて行かれる可能性は十分にある。
少なくはない数の自殺者も出ていたが、ついには昨日、隣の部屋で一家心中ならぬ同室者心中が起きていたことが発覚した。
隣の部屋は割と大人しいグループで、この不安の中でも耐え忍べていた方であった。それでも、いや、だからこそと言うべきか、心折れるときは一瞬だったようだ。
輪にしたベルトをドアノブに掛け、それを使って首吊り自殺をしていたらしい。ベルトに首を掛け、座り込んで首に体重をかけるという手法だろう。
言うまでもなく、部屋にドアノブは一つしかない。
自殺が完遂し次第、その死体をどけて次の者が首を吊っていたらしく、ドア側の壁に全員もたれかかるようにして死体が置かれていたという。
その心中がいつ起きたのかは知らないが、微かににおう異臭によって発覚した。暖房が効いた部屋だったので、腐敗が早かったのだろう。
この一週間、ほとんどの者が授業になど出ておらず、また白服はそれを咎めない。それに加え、トラブル回避のために部屋に籠もることが多くなったので、発見が遅れたのだ。
自分を守ることで精一杯で、他人のことを気にする余裕はない。
一人、また一人と消えていき、あっという間に真尋とふたりきりになった。
三〇人近くいた収容者が、今では二人だ。
ひと気が絶え、この施設に初めて来たときと同じような寒さが漂っている。ドアノブをひねる度に、冷たさが指を刺した。
「あたしたち、どうなっちゃうんだろうね……」
ベッドの上の段から聞こえてくる。
「さあ……。でも、絶対逃げ出すよ」
和泉は、確固たる意志を持って返事をした。
実際にはほとんど八方塞がりだ。だが、虎視眈々と脱走を目論んでもいた。
現状を整理する。
逃げ出すには橋を渡っていかなくてはならない。だが橋の先にあるのは十中八九監視所だ。この施設が明るみに出てはいけない存在というのは考えるまでもない。施設自体の脱走対策が疎かなのは、監視所を固めておけばいいからだ。
かといって施設で燻ぶり続けるという選択肢はない。白服らの言う「卒業」というものが、額面通りの意味とは思えない。何か裏でやっているであろうことは、施設の異様な大きさから察せられる。収容者を更生させるだけなら、そこまでの広さは必要ない。病棟の充実ぶりも気になる。
卒業認定基準が分からないので、下手な動きはできない。一か月という期限を終えて卒業するのも、実態がどういうものなのか分からない。
「ねえ、実は『卒業』ってのがそんなに怖いものじゃなかったら、どうする……?」
真尋もどうすべきか考えていたようだが、安易な希望にすがっている。自分の身を施設側に預けてしまう以上、そちらに逃げてしまえば後戻りができなくなる。
仮に「卒業」というものが額面通り施設から出られるという意味でも、元の生活には戻れないはず。この施設のことを知ってしまったのだから。
「どうって……。というか、真尋はここの連中が言う『卒業』がまともなものだって思ってるの?」
「別に……。可能性、考えてただけ……」
目の前には不安しかなく、何を希望とすればいいのか分からないのだろう。
実際、まるで深い深い霧の中にいるようだ。出口である門には、門番が目を光らせていた。霧の中では残忍な捕食者がうろついており、餌に相応しい獲物を探している。光のようなものが見えるが、それは霧から出るための
そんな光景を想像した。
不確定な要素だらけだ。だからこそ、リスクはあるものの、より確定された要素を用いて逃げ道を目指さなければならない。
「真尋、もう一回脱走しようとしてみない?」
「脱走って、どうやって……? 」
「今日って月曜日でしょ? 車、来るかもしれないよね?」
愛歌が言うには、送迎バスは月曜日にしか来ないという。施設の露見を防ぐために本数を減らしているのか、施設との連絡手段がないので事前に定期的に来ることになっているか。この二つの可能性を考えていた。
この一週間で『卒業者』と認定された者は数人いた。後者の説が真であるならば、どのみち今日送迎バスは来る。前者の説が真であっても、今日来る可能性は高い。
そもそも、送迎バス以外にも食料や日用品を届ける運送トラックも来ているはずなので、何かしらの車両が来ている可能性は高いのだ。脱走を試みない選択肢はない。
「イズミン、乗り方知ってんの?」
「いや、知らないよ。だから脅せばいいんだよ、運転手を」
ナイフでさ、と付け加える。
正直、この方法も不確定要素が多い。不可能ではないものの、武器を持っただけの小娘が大人を脅すということがまず困難だ。相手が何人いるのかも分からない。
「スタンガンも催涙スプレーもあるしね!」
真尋が、ベッドに置いている自分のバッグを漁り始める。乗り気になったようだ。
肝心のバスが来る時間だが、自分たちがここに来たのは夜だったが、施設側もそれは想定外だったということは入所式の様子で分かる。
今参考にすべきケースは、愛歌のケースだろう。
愛歌が『牧場』に出立したときは授業終わり頃だった。正確には愛歌が白服に呼ばれた時間なのだが、出立するだけなのでそう時間が経っているとは思えない。
そして今がちょうどその時間帯。
行動するなら今だ。和泉はバッグの奥底に隠していた鍵を手に取る。
今度は足で逃げる必要がないので、武器だけはポケットに突っ込み、バッグを持って逃げることができる。
「いやあ、なんか良い流れが来てるかも!」
「そんなこと言って、油断しないでね?」
「うんうん! イズミンも油断禁物よ!」
逃げる希望が見えたからか、真尋は先ほどと打って変わって調子が良さそうだ。楽しそうに、スタンガンのボタンがどこにあるか確かめている。
白服たちがいる様子はない。和泉たちはバッグを肩にかけ、堂々と廊下を歩いていく。
施設の外に出るまでは簡単だ。出てからが勝負。いかに効果的に脅し、素早く逃げるかが肝心だ。和泉は頭の中で様々な状況をシミュレートする。
だがエントランスに続くドアに鍵を差し込んだとき、和泉の背中に衝撃が走った。
「――――!」
反射的に背中が反り返り、汚く濁った悲鳴が絞り出された。一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
和泉は倒れ伏し、自分を襲った者を睨みつける。
「だから言ったっしょ? 油断は禁物ってさ」
真尋は笑顔のまま、手に持ったスタンガンをひらひらと見せつける。
「な……んで……」
「なんでって、そういう役割だからかな。誰かー! 来てくれますかー!」
和泉が痛みで動けないと確かめると、真尋は白服を呼んだ。
「分かってると思うけど、あたしがいるクラスってさ、情報によって人を追い込んだ連中が集められてたんだよね。それで嫌がらせみたいな授業のほかに、情報を正しく使うためってことで、同じ部屋の子の情報を伝えるように言われてたんよ。最初のうちはイズミンがここから逃げさせてくれそうだったから、黙ってただけでさ。だけどもう逃げられないでしょ、こんな状況じゃ。イズミンも分の悪い賭けだって分かってるよね? だからイズミンを売って、『卒業』すんの。いやあ、脱走を阻止しただなんて、結構得点高いんじゃない?」
いつものように、話し始めると早口で止まらない。
「あたしは信じてる、『卒業』するのが正解だって。うん、正解に決まってる。良いことしたんだもん、変なことされる訳がない……」
白服が駆けつけてくる間、真尋は自分に言い聞かせるようにぼそぼそと呟いていた。自分の行いが分の悪い賭けだということから、目を背けたいらしい。
真尋の声に応じてやってきた白服たちの中に、真尋のクラスを担当している者がいたらしく、真尋は誇らしげにことのあらましを報告する。
ほかの白服たちが和泉を介抱しているなか、真尋の担当は無表情で告げた。
「椎名さん、あなたの卒業を認定します」
感情の抜け落ちたような顔を見て、真尋は青ざめる。
「あの、卒業って、普通に卒業ですよね?」
「はい、これで
先ほどの無表情が嘘のように、今は笑顔に戻っている。
「『なれますよ』って……、どういうことですか?」
「さあ、こちらについてきてください」
「そんな……、嘘ですよね……?」
絶望で抜け殻のようになった真尋は、手を引かれるまま白服に連れていかれる。
そして、帰ってくることはなかった。
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