第29話 菊塚ハルヒの喪失

 シャワーを浴びしばらくすると、脱走失敗の疲れが一気に押し寄せてきた。ベッドに横たわると、眠気が一気に襲ってくる。


 割れた窓から冷気が漂ってくるが、そんなことはどうでもよくなっていた。


 今日一日で多くのことがあった。あってほしくないことが目白押しで、今だけは夢の中に逃げたい。


 目を閉じると、まるでベッドに沈み込んでいくような心地だった。ベッドはそこそこ硬いので、実際には全然沈み込んでいないのだが。


「あのさ……」


 そこで不意に、静まり返った部屋に声が湧いた。


「親が病院やってるって、前言ったよね?」


 治日だ。


 和泉が微睡まどろみに差し掛かったとき、治日が静かに言葉を紡ぎ始めた。


 それは治日の身の上話。単なる世間話ではあるが、こんなときに語るということは何か意味があるのだろう。和泉は静かに耳を傾けた。


「父さんがゴミみたいな古い価値観持っててさ、病院継ぐのは男じゃなければならん、なんてこと言ってたんだよね。だから僕は男の子みたいに育てられたんだ。継がせるつもりはないけど、男の子が欲しかったからって理由でね。代替品以下の、気を紛らわすための道具だよ。愛情なんてなかった。僕に向けられた視線が、僕のことを見てないってことを理解できる年頃になったときにさ、弟が生まれたんだ。すると手の平返したように、僕に女の子らしい生き方をしてもいいなんて言うんだ……。自分勝手だろ……?」

「ハルちん……」


 治日は感情を噛み殺すように、ゆっくりと語る。


「僕がこんなわざとらしい喋り方なのも、全部親への反抗なんだよ。お前のせいでこうなったんだぞ、って。そんなことしてたから、いつの間にか偽物の愛情も向けられなくなって、ついには干渉してこなくなった。だから僕は、親からの期待に応えようと努力してる奴らにクスリを売ってたんだ。下らない嫉妬で、努力してる人間の人生を台無しにしようとしてたんだよ。笑えるだろ?」


 和泉は治日の方へ目を向けたが、治日は壁の方を向いていて顔が見えない。


「ごめん、急にこんなこと話して。でも誰かに言っておきたかったんだ……」


 つらい経験を吐露しているというのに、その声は不思議なくらい落ち着いていた。


 和泉はその話を聞いて、些細な違和感を抱いていた。


「愛情が偽物なら、女の子らしい生き方していいなんて言わないんじゃない?」

「…………」


 愛情が偽物なら、そもそもそんな干渉をしてこないような気がしたのだ。


 そしてそうならば、愛想を尽かして干渉しなくなったということにも疑問が湧く。


「あと、干渉してこなくなったんじゃなくて、どう干渉すればいいのか分からないでいるのかもしれないし」

「…………」


 しばらくの沈黙のあと、呆れたようなため息が聞こえてきた。


「やっぱ和泉は、真尋の言う通り人たらしだね。ネジ何本もぶっ飛んでるけど」

「え、私そんなに飛んでる?」

「飛んでるよ、かなりね」


 うんうん、と上のベッドから聞こえてきた。そんなに変だと思われているのか。


「和泉の言うように愛情はあったのかもね。でも、どのみちもう会うことないだろうし、愛情があったかどうかなんて今更どうでもいいよ。……じゃ、おやすみ」


 治日は無理やり話を締め、喋らなくなった。


 おやすみ、と返し、和泉たちも微睡まどろみに身を任せた。まるで穴に落ちるように、すとんと眠りに落ちていく。目覚めたときに襲ってくるであろう筋肉痛が、今から憂鬱だった。


 * * *


 十六日目、火曜日。


 和泉は起床時間を告げる音楽に起こされた。起こされたといっても、しばらくは目を開けるつもりはない。昨日の出来事で心身ともに疲れ果て、今日一日だけは怠惰に過ごしたかったのだ。


 だがそんな和泉の体を、真尋が必死に揺する。


「ねえ、ねえ、イズミン……、イズミンってば……」


 面倒くさそうに目を開けると、困惑に満ちた表情の真尋が目に入った。何か事件が起きたようだ。


「なに? 何かあった?」


 だるい体をだるそうに起こすと、真尋の向こうに未だ寝ている治日の姿が目に映った。治日はもともと目覚めが悪い方だが、今日は起きようとする素振りすらみせない。


 だが、そんな見当はまるで外れていた。


「なんか……ハルちん、息してないんだけど……」

「……はあ?」


 和泉は飛び上がった。体のだるさなどお構いなしに、勢いのまま治日のもとへ駆け寄る。


 布団をめくって見てみると、確かに胸が動いていない。首に手を当ててみるも、まだ温かくはあるが脈はない。


「やっぱり、死んじゃってるの……?」


 真尋は目の前の状況を受け入れがたいようで、そわそわと手を動かしている。


「息はしてないけど、まだどうにかなるかも。真尋、医務室に行って誰か連れてきて」

「分かった!」


 真尋は部屋を飛び出していった。


 和泉はとりあえず、心臓マッサージがしやすいように治日をベッドから引きずり下ろした。


 すると、何かがベッドから転がり落ち、硬く澄んだ音を奏でた。


 それは瓶だった。


 親指ほどの大きさの小瓶が、治日の手元にあったらしい。蓋は落ちた弾みで取れたわけではなく、はじめから外れており、中には何か透明の液体が少量残っていた。


 ――毒だ。


 和泉は直観的に理解した。


 それが何という毒で、どういう効果があるのかは、専門的な知識があるわけではない和泉には分からなかった。だが、これを飲むことによって自殺しようとしたのだと推測することだけは容易にできる。


 服毒した場合、胃の中のものを吐き出させた方がいいらしいが、意識がないのでそれはできない。毒で心肺停止した場合どうすればいいかなど分からないが、なんにせよ脳に酸素が行かないのはまずい。


 和泉は授業で習った通りに心臓マッサージを行う。そして人工呼吸しようとあごを持ち上げたとき、すんでのところで止まることができた。


「毒が、付いてるかも……」


 口に毒が付着している可能性がある。人工呼吸はできない。


 和泉はとりあえず心臓マッサージだけを続けた。この救命処置がどの程度効果があるのかは分からない。でもやらないよりはマシだ。


 心臓マッサージを続ける。


 心臓マッサージを続ける。


 すると、真尋が栽原と他の白服を連れてきた。ぞろぞろと白服たちが駆けつけていることに気づき、野次馬たちがドアから顔を覗かせる。治日はそんな好奇の目に晒されながら、ストレッチャーで運ばれていった。


 そして、帰ってくることはなかった。

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