第28話 温かい地獄、冷たい地獄

「そういうことか……」


 和泉は思わず呟いた。


「施設からあっさり抜け出せたのも、どのみち逃げ出せないからだったんだよ。橋を渡れば絶対見つかるし、海を泳ごうとすれば凍えて死ぬ。単純で完璧な脱走対策だね、これは」


 施設は、外周をぐるりと山で囲まれた島の中心にあった。急勾配の凹地状の地形を見るに、ここはおそらくカルデラなのだ。


 向こう岸へと架かる橋は数百メートルはある。冬にここを泳ぎ切ろうとすれば、まず助からない。途中で低体温症で死ぬのがオチだ。


 橋を渡っていくにしても、向こう岸には何やら建物があり、明かりがついている。陸路ではそこを通らざるを得ない。その建物で監視しているからこそ、施設自体は脱走対策に腐心していないのだろう。


 三人は力が抜けたように座り込む。


「ここまで来たのに、そりゃないよ……」

「エントランスに自由に行けなかったのは、勝手に自殺しないようにってだけなんだろうね。罪と向き合って更生したからこそ自殺を選んだっていう、確証が欲しいんだよ」


 どれくらい経っただろうか。しばらく海を眺めていた。


 足が動くのを拒むのは、疲れているからというだけではない。前に進もうとする心が、ぽっきりと折れてしまったのだ。


 逃げ出す算段は立ちそうもない。


 冬の海に浮かぶ孤島。唯一の陸路には監視所らしき建物。逃げる道筋が見えない。詰んでいる。俗に言う「無理ゲー」だ。


 見れば不安になるほど黒々とした海の上をさざ波が走り回り、自分たちを嘲笑っているような気がする。


 海も、波も、満月も、当たり前のような光景だ。それが今では、憎しみを覚えてしまうくらい現実を突き付けてくる、醜悪な絵画に見えた。目指した場所は手の届かない遥か遠い場所だ、と。そう告げてくる。


 汗ばんでいた体が夜風で冷えてきた。そろそろ戻ろう。


 和泉はおもむろに立ち上がる。


「そろそろ戻ろっか」

「そうだね……」

「結局振り出しか……」


 二人も和泉に続いて立ち上がる。


 施設に戻ったところでどうにもならないが、少なくとも寒空の下にいるよりはマシだ。温かい地獄へ帰ろう。


 三人は来た道をそのまま戻り始めた。下りであるのに、上っていたときより足取りが重たい。足が鉛のようだ。


 常緑樹に生い茂る葉の間から、静かに照らされた施設の全貌が見える。


「ねえ、なんか思ったより大きくない……?」

「思ってたのより二倍くらい大きい」

「なにがどうあれ、今更驚かないよ、僕は。気にするだけ無駄。いや、もう何もかも無駄だよ」


 終わってるんだよ、僕たちは。治日は最後にそう呟いた。


 豆腐を組み合わさたかのような施設は、予想よりも遥かに大きかった。職員たちの居住区画や病棟だけでは足りない。


 やはり、それなりの規模を必要とする設備を用いて、何かが行われている。


 何が行われているか。それを知るのは、人生が終わるときかもしれない。


 そんな未来を回避する方法は、後で考えよう。今はただ、温かい部屋に戻りたい。


 無限にも思えた下山は、いつの間にか終わっていた。目の前では、白い壁が自分たちを見下ろしている。


 施設に入る前に、靴に付いた土を落とす。土は靴裏だけでなく靴の中にまで入っており、結局三人はここで靴も靴下も脱いだ。


「お風呂入りたーい……」

「分かる」

「勝手に入ろっか。シャワーなら使えるだろうし。水しか出ないかもしれないけど」

「それでもこのまま寝るよりマシだって……」


 靴を手に、玄関を開ける。


 そこで予期せぬ人影を目にして、三人の足はびたりと動かなくなった。


「おや、皆さん、夜の散歩ですか?」


 首吊り縄をじっと眺めていた園井が、こちらに気づくなりゆっくりと振り返って言った。


 足元灯によって曖昧に照らされ、人の形をした暗闇のようにも見える。


 和泉たちは声すら上げられず、体は逃げることすら忘れていた。


 どう切り抜ければ――。


 和泉は瞬時に頭を回し始めた。だがすぐに、園井のおかしな様子に気づく。


 園井の顔には、咎めようという意思が見受けられないのだ。入所式で見せたような柔和な笑顔で、こちらを優しく見つめてくる。


 相変わらず不気味だ。何を考えているか分からない。


 そのとき和泉は、自分が施設の職員たちを「『おかしい』の方向が想定外」と評したことを思い出した。


 もしかすると園井はその表情通り、こちらを咎めようというつもりがないのかもしれない。


 和泉は賭けに出た。


「はい、ちょっと外の空気が吸いたくて。自分と向き合うためにも頭をすっきりさせないとって思ったんです」


 笑顔には笑顔で返す。あからさまな嘘を、嘘と感じさせないような誠実な態度で吐いた。真尋と治日が何を言ってるんだと目で訴えかけてきたが、すぐに意図を汲んでくれて笑顔になった。


 どのみち見つかった時点で終わっているようなものだ。そもそも賭けに出る以外の選択肢はない。


 明らかに逃げ出そうとしていたのに、それを咎めようとする素振りはない。先程の問い掛けにしても、何をしていたか尋ねただけで、それ以上でもそれ以下でもない可能性がある。「健全」と絡めた嘘を言うのが正解だと思った。


 おかしな話だが、ここでは普通のやり取りを期待しては駄目だ。


 そして案の定、園井は笑顔を崩さずに答えた。


「それは良いことですね。でもこんな時間です。冷えたでしょう? すぐに温かくしてくださいね。風邪を引いたようでしたら、すぐに医務室に行くように」

「はい、そうさせてもらいますね」


 園井の口から出たのは、和泉たちを心配する言葉だけだった。


 精神的に追い詰めるくせに、一方で見を案じてくれる。その価値観は理解できないが、そんなものだと納得するほかない。


 和泉たちはいつも通りの足取りで園井の前を過ぎ去り、寮区画へのドアへと向かった。ドアは和泉が開けてからずっとそのままらしく、施錠されていなかった。


 すんなりと開いたドアを通り抜け、園井と壁一枚隔てる。最後まで園井は笑顔でいた。


 急いでドアの鍵を閉め、三人は逃げるように部屋に戻った。脱走を企てていたことが他の部屋にバレても、もうどうでもよかった。深夜の廊下にドタバタと音を散らしていく。部屋の暖かさなど感じている余裕はなかった。


「ねえ、なんなん? なんで怒られなかったん? わけわかんないんだけど!」

「私にも分からないよ。でもここの連中って嘘というか、裏がないような気がするから、本当に言葉通りのやり取りだと思う……」


 予想外の展開に、真尋は取り乱した。態度には出していないが和泉も同様で、ただただ憶測しか言えない。それでも確かに敵意は感じられなかった。理解できず不気味ではあるが、何か一貫性のようなものを白服たちから感じる。


「あのさ、ちょっと気になったんだけど……」


 考え込むようにしばらく口を閉ざしていた治日が、怪訝な顔のまま懸念を口にした。


「ここって、ルール……あったっけ?」

「ルールなら……」


 今更なにをと思いつつ、これまでのことを頭の中で追う。


「あれ、ない? ほとんどないかも」

「うん、食事や授業とかの時間は決まってるけど、それ以外は何も言われてない」

「はあ? じゃあ、外に出るのも最初から許されてたってこと?」

「落ち着いて、真尋。そもそも外に出たところで逃げられないのは変わりないよ。これまでこのことに気づいたのは私たちだけじゃないだろうし、そのまま逃げられるのならもっとネットで賑わってるはずでしょ?」

「ごめん、そうだよね……。じゃあ、ルールがないから何なの?」

「それは二人が考えて」

「なんじゃそりゃ……」


 確かにルールと呼べるものは、この施設にほとんど存在しない。食事や授業は時間が決まっているが、それは白服たちの都合だろう。労働時間のこともあるし、収容者たちの生活サイクルを考えてのことかもしれない。


 入浴時間が決まっていることについては、混雑させないためなのと、なによりボイラーを稼働させないといけないから。


「何か制限されたっていうのは、愛歌との面会くらい? 病棟区画に関わるのは流石にNGってことかな」

「多分ね。勝手にうろちょろされて機材とか壊されたらたまったもんじゃないし。もっとほかの理由もあるかもしれないけど」

「ほかの、ねえ……」


 そういえば、と和泉は思い出した。愛歌と最後に会ったとき、報告では医者たちの雰囲気はこちらで見かける白服たちと違って冷たいものだったということだった。


 白服たちと何かが質的に違うのだろうか。……いや、そもそも白服たちだけがおかしいのか。洗脳されているような価値観、絶やさない笑顔。


「まあそんなことよりシャワー浴びに行こう。綺麗にしておきたい」

「そうだった、泥だらけだったんだった」

「やっぱお湯出ないんだろうなあ……」


 考えねばならないことは山ほどあったが、そんなことより体を清潔にすることの方が優先事項だった。足は泥まみれ、顔や手は擦り傷だらけだ。このまま寝るのは流石に無理だった。


 三人は静かに浴場に向かう。そのとき和泉は、治日が何か憑き物が落ちたような顔をしていることに気づいた。だがその表情の意味に思い至ることはなく、浴場にたどり着いてしまう。


 そして案の定、シャワーは使えるもののお湯は出なかった。


「「「冷たッ!」」」


 ここはまさしく地獄だ。

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