第15話 行方

 九日目、火曜日。


 和泉たちは昼食後、医務室へと向かった。


 白いスライド式のドアをノックすると、「どうぞ」と朗らかな返事が返ってくる。


「失礼します」


 医務室のドアを開けると、栽原さいはらの笑顔と消毒液のにおいが和泉たちを迎えた。医務室はオフィスデスクや棚、診察台とありきたりな設えだが、室内に相談室が併設されているという点は一般的なものと違う。


「こんにちは、栽原さん。早速ですけど、今、愛歌と面会できますか?」

「はい、大丈夫ですよ。容態は安定していますけど、産後なので短めにお願いしますね。疲れていると思いますので」

「分かりました」


 栽原は椅子から立ち上がると、医務室の奥へと向かった。


「では、こちらにどうぞ」 


 和泉たちは黙ってついていく。


 医務室の奥にあった少し大きめのスライドドアを開けると、その向こう側には広い廊下が続いていた。ここが病棟ということらしい。


 和泉は一度、探索のために医務室に訪れたことがあるが、そのときは奥の扉が病棟に繋がっているとは思わなかった。


 病棟の廊下には手すりが設置され、等間隔に病室のドアが並んでいる。ドアには縦長のすりガラスが嵌め込まれており、室内の様子はおぼろげにしか見えず、物の輪郭すら曖昧だ。また、廊下は防滑性のビニル床で、ドアのすりガラスから漏れ出た光をうっすらと照り返していた。


 廊下の両側に五つずつ、合計十部屋ある。ドアには病室番号が黒色で印字されており、真っ白な空間に黒々とした番号だけが浮いているようにも見える。


 徹底的な白色にはこれまで病的な不気味さを感じていたが、病棟というだけで、不思議とここでは無機質さや清潔さを感じとってしまう。


 たがそれは色に対しての感想だ。廊下には和泉たち以外は誰一人としておらず、ドアも全て閉じている。物音は和泉たちの歩く音だけで、他には何も聞こえない。


 人の気配が途絶えた空間は、まるで生者を拒んでいるようだ。


「こちらの部屋です」


 案内されたのは、右手側一番手前にある1号室。表札はない。番号でしか識別されないことから、どことなく物のように扱われているような印象を受ける。


 栽原がドアをノックすると、何もない廊下を突き抜けるように反響した。


「藤宮さん、面会です」


 ドアを引き開けられると、ベッドに横たわる愛歌の姿が見えた。今は眠っているようだ。


 部屋に入る前に、ちらりと廊下の奥に目を向ける。突き当りから左右に続く通路が見えるだけで、それ以外の情報はない。


 普通入ることがない区画ならと期待していたが、あてが外れてしまった。そもそも、逃げる余地を見出させない構造になっているのかもしれない。普段行き来している区画も結局はどこも閉鎖的で、それらしい逃げ道はエントランスくらいだ。


「愛歌、来たよ」

「んー?」


 和泉の呼びかけで目が覚めた――といっても眠そうなままゆっくりと体を起こした。


「何かあれば呼んでください。外で待機していますので」


 三人が部屋に入ると、栽原はそう言ってドアを閉めた。面会に同伴しないのはありがたいが、それでも廊下にはいるので下手なことは話せない。


「あ、みんな来てくれたんだね」


 ようやく意識が覚醒したようで、いつものようにぽわぽわとした笑顔になる。とはいえ出産で疲れているのか、心なしか声と表情に元気がない。


「出産おめでとう、愛歌」

「おめでとう、お姫! 元気?」


 口々にお祝いの言葉を述べるが、治日だけは拗ねたように口をつぐんでいる。


「あれ、治日ちゃんは祝ってくれないの?」

「はいはい、おめでとう。これでいい?」

「えへへ、ありがと」


 投げやりなお祝い。そもそも面会に来ている時点で祝いの気持ちはあるはずだが、なかなかに気難しいお年頃だ。弟や妹ができると親の愛情がそちらにしか向かないのではと子供は不安になることがあるらしいが、それと似た感情だろうか。


 なんにせよ、指摘するのは野暮だ。


「ははーん、さてはハルちん、お姫の子供が生まれて不安なんでしょ。自分に愛情向けられなくなるんじゃないかって」


 だが野暮なことをするのが真尋だ。


 治日は無言で真尋の背中を叩いた。病室にバチンッという強烈な音が響き渡り、真尋はあまりの痛みに仰け反る。


「いったあ! マジのやつじゃん……!」

「バカがバカなこと言うからだよ」


 その様子を、愛歌は微笑ましく見守っていた。


「ふふ、赤ちゃん産むのって、疲れるね」


 元気が無いなりに、精一杯笑顔を作る。今の愛歌には、容易く壊れてしまうようなガラス細工のような儚さがあった。子供を産むということが、それほど大変だったということなのだろう。


「そういうの聞くと、子供作るのが怖くなるよ。まあそもそも相手が見つかる気配もないんだけどさ」

「和泉ちゃんは格好いいから、相手ならきっとすぐ見つかるよ」

「それは……どうだろうね。告白されたこともないし」

「そうなの? 意外……」


 苦笑いするしかなかった。今のところ特に男に興味があるわけでもないし、将来子供が欲しいと思ったこともない。


「んで、お姫の赤ちゃんはどこにいんの?」


 辺りを見渡しながら、真尋は訊いた。部屋には愛歌しかおらず、母子同室できるような設備もない。育児専用の部屋が別にあったりするのだろうか。


 その疑問に、愛歌はこともなげに答えた。


「ええと、どこにいるかは分かんないなあ。でも大切に扱ってくれるんだって」


 和泉たちはこの施設が異常であると、改めて思い知らされることになる。


「え、『扱う』って、そんな物みたいに……。愛歌はそれでいいの?」

「何かダメなの……?」


 不思議そうに、愛歌は首を傾げる。


「ダメっていうか、もしかすると会えないかもしれないんだよ? ここが変な場所だって愛歌も分かってるよね?」

「でも立派な人にしてくれるって、栽原さんは約束してくれたよ? それってつまり愛されてるってことでしょ? それに、愛歌の子が将来誰かの役に立てば幸せの輪がどんどん広がって、愛もどんどん広がっていくの。愛歌はそれだけで幸せだよ」


 真尋は何か言いかけて、結局何も言えず唇を噛んだ。


 施設側が愛歌の子を実際どうするかは分からない。そのうえ、愛歌のいう幸せかどうかには、子供自身の意志は考慮されていない。「誰かに迷惑をかけない」「誰かの役に立った」という結果だけが、愛歌にとっての『幸せ』や『愛』の重要な基準であるような。和泉はそんなふうに感じた。


 話を聞く限り、愛歌は影響されやすい性格をしている。そしてここでは栽原という人物を全面的に信頼しているようだ。


 だが信頼するということは、思考を放棄するという側面もある。この施設で愛とは何かを学んでいた愛歌は、その結果、子供を手放すことに躊躇いもしない思想を形成するに至った。盲信的な性格は思考を棄て、我が子をも捨てる。


 教育とは言わば『洗脳』だ。とはいえ、それが悪というわけではない。人間は社会的動物であるがゆえに、規範が必要だ。なので、属する社会の規範を良しとする人格の形成が重要視される。円満な社会を形成するという目的であれば、教育は良質な『洗脳』と言える。


 愛歌が親から受けた教育洗脳は、多数の死傷者を出し、人間関係を破壊した。


 愛歌がこの施設から受けた教育洗脳は、果たしてどのような結果を生み出すのだろうか。


 ともかく話題を変えよう。和泉は予定していた情報収集に向けて動き出す。


「それで、いつ部屋に戻ってこられるの?」


 卒業するということではないので、部屋に戻ってくるはず。そのときこちら側にいて気づいたことを聞こう。脱走へのヒントが何かあるかもしれない。


 しかしながら、またしても期待を裏切られることになった。


「しばらくこっちにいて、そのあとは別の場所に行くんだって」

「別の場所……?」

「うん、栽原さんは『牧場みたいなところ』って言ってた」

「……は?」


 この施設に来てから、予想もつかない展開だらけだ。


 機を逃すと愛歌ともう会えないうえに、愛歌自身はこの施設とは違う妙な場所に移送されるらしい。おそらくそこも、ろくでもない場所だ。


「牧場みたいなとこって……。絶対頭のおかしい場所だって! そんなとこに行っちゃダメだよ!」


 愛歌への仕打ちが腹に据えかねたのか、真尋は必死で説得する。それに対して、愛歌はムッとした顔で言い返した。


「真尋ちゃんは栽原さんのこと知らないからそんなこと言えるんだよ!」


 愛歌の機嫌が悪くなるところを初めて見た。ここで何と言おうと、愛歌の耳には届きはしない。


 それでも言葉を絞り出そうとする真尋を、和泉は手で制した。


「真尋」

「でも……!」


 泣きそうになりながら、真尋は言葉をぐっと飲みこんだ。静かにしている治日も、よく見れば手を強く握りしめている。


 改めて思い知らされた。ここは地獄に繋がっている。


「どうかされましたか?」


 大声を出したからか、ドア越しに栽原が心配そうに声を掛けてくる。


「大丈夫です。気にしないでください」


 おそらく大声で話していた内容は筒抜けだろう。真尋を制止できなかったことを悔やむ。


 和泉は警戒し、顔を近づけて声を幾分落とした。流石の愛歌もその意図が伝わったようで、同じように小声になる。


「じゃあ、ここにいて気づいたことがあったら教えて。逃げるの手伝ってくれるんでしょ?」

「んー、それどころじゃなかったから、よく分かんない」

「まあ……そうだよね」


 経験したことは無いが、出産するまで長期間痛みが波のように訪れるのは知っているし、産後は憔悴しているというのも知っている。何か気づけというのも酷な話だ。ただ、ここまで来て何も情報を得られないことに、和泉は内心苛立っていた。


「それなら、次面会に来られたら色々聞くね」

「うん、分かった!」

「具体的には、『病棟の間取り』『職員の様子』『他に誰が病棟に収容されているのか』『妙な物音はないか』『自分の体に変なことされていないか』『愛歌の行き先はどんな場所なのか』――」

「和泉、愛歌は疲れてるんだよ? そのへんにしとこうよ」


 愛歌の体調のことを忘れ、負担を強いようとしていることを治日は咎めた。


「ごめん、愛歌」

「ううん、愛歌頑張るよ……!」


 それでも愛歌は両手をぐっと握り、やる気を見せる。


「ありがとう。でも今はしっかり休んで」

「えへへ、実はまだ眠たいの」


 愛歌は再び体を寝かせ、布団をかぶった。


「それじゃあ、もう行くね」

「バイバイ、お姫」


 小さく手を振り、愛歌の病室から出る。すると、またしても栽原は痒そうに耳の上あたりを軽く掻いていた。乾燥しているのか、不潔なのか、ただの癖なのか。


「すみません、お待たせしました」

「もう大丈夫ですか?」

「はい、本人が寝足りないようでしたので」

「そうですか。では、戻りましょうか」


 そう言うと、来た時と同じように栽原に先導され医務室に向かう。その道すがら、和泉は次に面会できる時期を尋ねた。


「あの、面会って次いつできますか?」

「藤宮さんは来週の月曜日に出立するので、月曜の朝にできると思います」

「月曜の朝だけですか?」

「面会自体あまり許されていないので……」

「分かりました……」


 それでも面会ができるだけマシだった。これが最後の面会かもしれないという最悪の想定もしていたのだから。

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