第4話 汚臭 ――死の痕跡――

「うっ、何このにおい……」


 講堂を出ると、少女たちはすぐさま汚臭に気づいた。微かにではあるが、臭いと直感的に感じるにおい。


 講堂から寮となっている居住区画へは、もう一度エントランスを通ることになる。つまり、首吊り縄が設置されている場所――杉方の自殺死体があった場所を通らなければならないのだ。


 自殺現場へと近づくにつれ、汚臭は酷くなってくる。ここまで来ると、それがもう何のにおいであるのか嫌でも分かる。


 死体から流れ出た糞尿のにおいだ。


 死ねば当然、全身の筋肉は弛緩する。特に首吊り自殺では、重力に従って糞尿が垂れ流されることになる。汚臭の正体はそれだ。


 首吊り縄は相変わらず梁から垂れていた。倒れていたであろう椅子も、縄の下に置き直されている。撤去するつもりも、首を吊らないように対策するつもりもないらしい。


 見た目だけは綺麗に清掃されているが、臭いにまでは手が回らなかったらしく、悪臭が漂ったままだ。窓が無いので、換気は天井にある小さな換気扇が必死に担っていた。


 誰からも悲しまれることのない自殺は、汚らわしい糞尿の臭いだけを痕跡として、確かにそこにある。


 和泉は思わず鼻を腕で覆った。


 しかし、袖から匂ってくる洗剤の香りに掻き消されることなく、汚物の臭気は鼻奥にまで伝わってくる。その臭いが和泉に、逃れられない凄惨な末路が待っていることを想起させた。


 忌避感に駆り立てられるようにエントランスを横切ると、居住区画に繋がっているらしいドアが見えた。


 誰かがドアを早く開けるように急かす。


 職員が鍵を開けていると、茨戸が集団をかき分けて先頭に立った。刺々しい視線と舌打ちを物ともせず、そこにいるのがさも当たり前であるかのようなすまし顔で、ドアが開くのを待っている。


 鍵を開け終えた職員がドアを開けようとすると、すぐさま茨戸は自分でドアを押し開け、向こう側へと消えていった。


 これがデスゲームであるならば、自分勝手な行動をする茨戸は何らかの罠で死んでいることだろう。だが、残念ながらこれはデスゲームではない。和泉は、今この瞬間だけはデスゲームであってほしかった。というか、茨戸だけデスゲームをやってほしかった。


 ドアの向こう側までは臭いは広がっておらず、和泉は清潔な空気をめいっぱい吸った。深呼吸を二、三度繰り返すと、鼻の冴えはすっかり元通りになる。


 深呼吸をする和泉のそばで、数人が具合が悪そうにしている。中には、臭いにやられたというよりは、胸のあたりを押さえて何かに耐えているような顔をしている者もいる。直接見てはいないとはいえ、人が死んでいたということから受け取る感情は様々だ。


「そこの角を曲がれば皆さんの部屋がありますので、ドア横の表札を見て自分の部屋か確認してください」


 そう言いながら、職員はドアの鍵を再び閉める。


「閉じ込められた……」


 かなおが小さく呟いたのを聞いて、和泉はかなおの手を握る。子供扱いしすぎたかとも思ったが、弱くはあるが握り返してくるかなおを見て安心した。


 だがおそらく、閉じ込められたというのは間違っていない。そのことについて安心させることはできなかった。


 こうまで徹底的に外部との繋がりを断っているのだ。そう易々と外には出してくれないだろう。


 短い廊下の先を曲がると、等間隔にドアが並ぶ廊下が目の前に現れた。すでに何人かは、ドア横の表札を確認している。


 廊下にはこれまでと同じように一切の窓がなく、天井と足元にある白色灯が真っ白い廊下を照らしているだけ。病院よりもなお無機質な意匠が、ここは人がいるべきではない空間だと訴えかけてくるようだった。


 よからぬ想像を振り払い、和泉も先人にならって表札を確認していく。


 違う、ここも違う、と表札を眺めていくと、思ったよりもすぐに自分の名前を見つけた。手前から三つ目の部屋だ。


 表札には、「葛城和泉」「菊塚治日」「椎名真尋」「藤宮愛歌」と書かれてある。


「あ、ここも違う……」


 残念ながら、かなおとは別の部屋だった。かなおも同じ思いなのか、背中を少し丸めて俯いている。


「まあ、部屋が違うからって会えなくなるわけじゃないんだし、自由時間のときに会えばいいでしょ?」

「い、いいんですか?」

「いいって、いいって。せっかく知り合ったんだから、もっと仲良くなりたいし」

「私なんかのために、すみま……あ、いや、ありがとうございます」


 かなおはまた謝ろうとしていることに気づいて、言葉を変えた。


「じゃ、また会お」

「はい!」


 和泉が軽く手を振ると、かなおの顔はぱあっと明るくなった。


 後から知ったが、かなおはあの茨戸と同室になったらしい。


 廊下は暖房が効いておらず、握ったドアノブは指先が痛むほど冷たい。


 部屋の中に先客はいないようで、うっすらと暗い。和泉はドアのすぐ横にある照明のスイッチを入れると、言うまでもなく白い室内が明るみになる。


 ついでにエアコンもつけ、部屋の中へ踏み入った。部屋の中央には和泉らが持ってきた荷物が置かれており、それ以外は施設の備品のようだ。


 手前から人数分のクローゼット、二段ベッドが設えられている。そして部屋の奥には、四人が横並びになって座れる長い机が椅子とともに配置されていた。机といっても、台を金具で壁に固定しているだけの簡素なものだが。あとはゴミ箱くらいか。


 風呂やトイレは部屋の中にはないことから、共用のスペースらしいことが分かる。和泉は、なんとなく部活の合宿を思い出した。


 机の上にふと目をやると、一枚の紙が置かれていることに気づく。


 手に取って見てみると、一日のスケジュールや施設の簡易的な地図などが書かれてあった。起床就寝や食事の時間、入浴に関する注意点、相談室を兼ねた医務室では生理用品も扱っているということ。


 軽運動室や自習室、貸衣装室もあるという。特に貸衣装室が気になったが、まさか一か月も滞在することになるとは思わず、持ってきた着替えが少ない人向けに貸すのだろう。


 こうして見てみると普通の合宿所のようで、おかしなところなど無いように思えてくる。


 エアコンから漂ってくる生温い風を受けながら案内プリントを読み込んでいると、背後から明るい声が聞こえた。


「お、もしかしなくても同室の人だよね? 今日からよろしくー」

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