第3話 死出の旅、待ち時間

 その音が何だったのか。気にしていたのは和泉だけではなかった。振り返る者もいれば、職員の顔色を窺う者もいる。漠然とした嫌な予感は、はっきりとした像を結ぶ前にかき消される。まさかそんなはずは、と。


 だがその疑問は、ほどなくして晴れた。それも最悪の形で。


 突然、講堂のドアが勢いよく開け放たれた。


「杉方さんが、杉方さんが……」


 卒業生代表を連れ出た職員が、息を荒らげながら部屋に飛び込んできたのだ。


 そして告げた。首を吊りました、と。


 誰もが理解した。あの音は椅子が倒れた音なのだと。かき消したはずの悪夢のようなイメージが、今度こそ鮮明に浮かび上がる。白い空間に吊るされる、赤い少女の姿が。


 講堂に静けさが満ちる。少女たちは状況の理解が追いつかず瞠目するばかりであったが、職員たちの沈黙は少女たちのそれとは様相が違った。


 ある者は静かに涙を流し、またある者は穏やかな表情をしていた。だが反応に差異はあれど、狼狽えていないことだけは共通している。まるでこんなことが起きると想定していたかのような。それを見ると、声を荒らげていた職員すらも、取り乱しているのではなく、走って来たためにただ息が上がっているようにしか見えなくなってくる。


 園井はゆっくりとした足取りで飛び込んできた職員のもとへ行くと、落ち着き払った声で言った。


「まずは落ち着いてください。報告はそれからでも大丈夫です」

「は、はい。すみません」


 職員は息を整えると、報告を再開した。


「杉方さんが出立の準備を終えるのを外で待っていたのですが、いつまで経っても出てこなかったんです。送迎バスもそろそろ出発しないといけなかったので、様子を見に行こうとして、それでドアを開けたら、首を吊っていて……」

「首を吊ったのはいつ頃か分かりますか?」

「おそらく、二、三分前だと思います」

「そうですか……」


 先ほどまで一緒にいた少女が首を吊ったという報告を聞いても、園井は眉ひとつ動かさず、不気味なほど穏やかな表情だった。


「それで、きちんと対処しましたか?」

「はい、そのままにしています」

「よろしい」


 そのままにしています。


 聞き間違いだろうか。和泉は自分の耳を疑った。ともすれば今聞いた言葉が日本語ではないのでは、とすら思った。


 人が首を吊っているというのに、それを助けもせず放置しているのだ。あまつさえ、その事実を淡々と報告している。


 勢いよくぶら下げられるならまだしも、首吊りの様式によってはすぐに救助活動を行えば助けられることもある。放置することを良しとするということは、確実に死ぬのを待っているということだ。


 少女たちは、自分たちと職員の間に深く、大きな溝があるのを感じた。越えることの出来ない、そして越えてしまえば元に戻れないような溝。


 静まり返っていた講堂に、どよめきが広がっていく。


「和泉さん……」


 不安に耐えきれなくなったのか、かなおは泣きそうな顔で和泉の袖をつまんだ。


「大丈夫だって、かなお」

「そう、ですかね……」


 和泉はかなおを抱き寄せながら、根拠も意味もない気休めを言った。杉方がこの施設にいて気が病んでしまったのか、元から病んでいたのか。和泉には知る由もないが、ここには自殺する準備がなされている。その事実だけで、どんな言葉も空虚な気休めになり果てる。


「皆さん、落ち着いてください」


 言い聞かせるように、園井は少し声を張る。だがその言葉は、相変わらず理解したくもない言葉の羅列だった。


「皆さんが狼狽うろたえる気持ちも分かります。ですが、安心してください。彼女は健全な心を手に入れたからこそ、自死という道を選んだのです。驚き、恐れる必要はありません。彼女が自分自身と向き合い、選び取った道を私は誇らしく思います。そんな彼女の旅はまだ途中。未だ生死の境にいることでしょう。我々にできることは待つことだけ。旅の終わりを待つことだけなのです」


 職員たちの拍手が響き渡る。彼らが感動しているのは演説か、それともか。


 園井の言葉は、驚くほど支離滅裂であった。健全な心があれば、何故自殺するのか。自殺が自ら選んだ道だからといって、それを止めようとしない理由になるのか。話が飛躍しすぎている。


 和泉たちが口を閉ざすと、自身の鼓動以外の音が消え去ったかのような静寂が訪れた。この息が詰まるほどの沈黙の時間は、杉方が完全に死亡するまでの待ち時間でもあった。


 職員たちはもちろん、少女たちも杉方を助けに行こうとはしない。この異常な空間において、下手に動くことが死に繋がると感じ取ったからだ。


「うっ……ひっく……」


 かなおは和泉に抱きついたまま泣き始めた。


 この施設は一体何なのか。「皆さんには今から殺し合いをしてもらいます」と、いきなりデスゲームが始まった方がよほど分かりやすい。


 園井は職員たちに何やら指示を飛ばすと、部屋を出て行く彼らを見送ったあと、講演台に戻った。


「お騒がせしてすみません。これでは入所式どころではないですね。ここでは本人の自主性を重んじているので、時折が起きるんですよ。その際は、落ち着いて近くの職員を呼んでください。それ以外にも、困ったことや相談ごとがあれば呼んでくださってかまいません」


 少女たちの不安を払拭するためか、園井の声は明るい。しかしその声色とは裏腹に、この施設では自殺者が多数出ているという暗い事実を告げていた。


 すすり泣く声と足を揺する音が、少女たちの不安に拍車を掛ける。


 それからは、施設での過ごし方を軽く説明された。今日から一か月間、施設内にある寮に住むことになる。部屋は四人一部屋らしく、同居人は事前に決められているという。そして『心の養育プログラム』とやらは、さっそく明日から受けさせられるようだが、その内容についての詳しい説明はなかった。ただ、内容は部屋割りとは別に決められたグループによって違うとのこと。ちなみに、プログラム外の時間は自由に過ごしていいらしい。


 一通りの説明が終わったとき、頃合いよく職員のひとりが講堂の扉を開け、園井に目配せをした。


 園井は一度小さく頷き、笑顔になる。こんな状況なのにわざとらしくない自然な笑顔は、ひどく醜悪に見えた。


 異常だ。


「どうやら杉方さんのが終わったようなので、式を激励の言葉でもって終えたいと思います。皆さん、健全な心を育て上げ、立派な人物になりましょう! 私たちは、あなたたちの善き心を信じています!」


 部屋に園井の拍手がむなしく響く。うすら寒く感じるのは、きっと冬の空気のせいだけではない。


 和泉たちは職員たちの指示に従い、講堂を後にする。園井は全員が出て行くまでずっと、笑顔で手を叩いていた。和泉には彼が、壊れた玩具のように見えた。

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