第2話 椅子と縄と卒業生

 その椅子と縄は、まるで展示されているかのようだった。椅子は土台の上に置かれ、縄はそのために作られているとしか思えない梁から垂らされている。


「講堂はこちらです」


 少女たちの困惑などまるで意に介さず、扉を開けた女性職員が朗らかな声で案内する。


 彼女は見たところ、年齢は自分たちとそう変わらない。高校生か大学生ほどの若さ。落ち着いた印象を受けるが、化粧っ気のなさのわりに肌に瑞々しさがある。


 多くの少女が椅子と縄から目を逸らして講堂へと急ぐ中、和泉は講堂に向かいながらもそれらを注意深く観察していた。


 縄は梁にしっかりと結ばれており、先端の輪っかは少女たちでも首を掛けられる位置にある。


 単なる展示ではなく、実際に首吊り自殺ができるように準備しているとしか思えなかった。そうする意図までは分からなかったが。


 エントランスを右に抜け、廊下を歩いていく。この施設は外部だけでなく内部までもが、目が痛くなるほど清潔な白色で塗り潰されている。その中にあって、先程の椅子と縄の薄茶色だけがやけに存在を主張していた。


 講堂にたどり着くまで和泉は周囲を観察し続けていたが、もうひとつ気がかりなことがあった。


 少なくともエントランスから講堂までの間に、窓がひとつも無いのだ。思い返してみれば、外から施設を見たときに窓を見た記憶がない。和泉は建築に関する法律はよく分からないが、これほど窓が無いのはまずいということだけは分かる。


 黒塗り窓のバスといい、窓そのものが無い施設といい、徹底的に外部との繋がりを断つつもりらしい。


 まるで牢獄だ。


 白い廊下を通り、白い扉を抜け、和泉たちは講堂へとやってきた。


 講堂は学校の教室ほどの広さで、ここも同じく白い。安っぽいホールチェアが並び、奥には一段高くなったステージがある。そのステージの真ん中に講演台が設置されており、そこに六〇代ほどの男が佇んでいた。


「皆さん、こんばんは」


 この男も人のよさそうな人物だった。顔には微笑みをたたえ、恰幅の良い体型をしている。声は穏やかながらもよく通り、微塵も険がない。ついでに見事な禿頭で、頭には髪の毛一本もない。あるのは小さな傷跡だけだ。


「端の方から詰めて座ってください」


 和泉たちが指示通りに端の方から詰めて座ると、数人の職員が入室し、部屋の横に並んだ。


 清廉さすら感じられる白い施設での集会は、まるで新興宗教の集会のようだ。だが部屋に宗教的なシンボルがあった方が安心できるほどに不可解な状況だった。何かしらの宗教であった方が納得できる。


「では、これから皆さんの入所式を始めます。まずは私の自己紹介から。ここの所長を務めさせてもらっている園井そのいです。どうぞよろしくお願いします」


 訳の分からないまま訳の分からない場所に連れてこられ、勝手に自分たちの入所式が始まってしまった。そして入所式という場であっても、この施設の名前を口にすることはない。


 もしかすると、本当に名前のない施設なのかもしれない。


 存在してはいけない場所。そんな馬鹿馬鹿しい考えが脳裏をよぎった。拉致されたのならともかく、学校に介入できる権力が裏で動いているのは確かだ。むちゃくちゃな場所であるはずがない。……とも言い切れない。違法建築ぶりを見てしまったあとでは。


「それぞれがそれぞれの理由でここに集められています。皆さんの中には、その理由が分かる方も分からない方もいると思いますが、ここでやってもらうことはひとつです。それは、健全な心を育むことです」


 周囲の少女たちは園井の言葉に、少なからず反感を覚えていた。健全な心を育むためということは、つまるところ不健全な心を持っているというレッテルを貼られているということだ。


 だが、和泉以外に反感を覚えている者は少なかった。園井の話をまともに聞いている方が少ないのだ。


 こういう『お話』は退屈なものだと相場が決まっているからというのもあると思うが、なによりもステージ端に佇む人物に皆、目を奪われていたからだ。


 その人物は、まるで人形のように生気がなく、派手な赤色の服を着た少女だった。


 真っ白な壁を背景に、血のような鮮烈な赤が際立っている。その赤にどのような意図があるのかは分からないが、どう見ても普通の精神状態ではない。ともすれば、この世の者ではないのではと疑ってしまうほどの非現実めいた存在感を放っていた。


 廃人じみた落ち着きの彼女に集まる視線に気づいたのか、園井は赤い少女を手で示し、紹介し始めた。


「ああ、こちらは杉方すぎかたさん、前期卒業生の代表です。この式は卒業式も兼ねているんです。ここでの暮らしを通して、彼女は見ての通り、健全な心をつつがなく育むことができました。皆さんも彼女のように成長できると、私は信じています」


 言っている意味が分からなかった。


 死んだように身じろぎもせず、瞳には底冷えするような諦念を覗かせる少女のいったいどこに健全な心が宿っているというのだろうか。そもそも、卒業生代表以外の卒業生がいないのはなぜなのか。


 不安に口を閉ざしていた少女たちは、口々に困惑をこぼし始めた。


「あの子、本当に生きてる……よね?」

「あのハゲ、頭おかしいんじゃないの?」

「帰りたい……」


 戸惑うばかりの少女たちを見てもなお、園井が微笑みを崩すことはない。


「皆さんには長くて一か月間、彼女と同じ『心の養育プログラム』を受けてもらいます」


 一か月という、決して短いとは言えない期間。ざわめきは一層大きくなり、今度ははっきりとした反発の声が上がった。


「ふざけんなっ!」


 張り上げられた怒声に、部屋は静まり返る。


 態度の悪い少女はちらほらといたが、その中でも群を抜いてガラの悪い少女が立ち上がっていた。


 明るい茶髪を後頭部で雑にまとめ上げ、耳にはピアスの銀色が目立っている。傷だらけの拳頭からは、日常的に何かを殴っていることが窺える。上背のある体格も相まって、殴り合いであれば並みの男性相手なら勝てそうな威圧感だ。


 茶髪少女はずかずかとステージ上にあがり、園井の胸ぐらを掴んだ。


 そのとき、微笑みを絶やさなかった園井の顔が真顔になった。何の感情も見いだせない無表情は、見間違いかと思い込んでしまうほど一瞬で、文字通り瞬く間に柔和な笑顔に戻っていた。

 

 それを間近で見ていた茶髪少女は何を感じ取ったのか、怒声を発したときの威勢は尻すぼみになっていく。


「なんでアタシがこんな……ところに……」


 言葉は最後まで紡がれることはなく、少女は軽く突き飛ばすように手を離した。少女は苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちし、しかし肩で風を切りながら席に戻る。


茨戸ばらとさん、落ち着きましたか?」


 向こうはこちらのプロフィールを把握しているようで、茶髪少女を「茨戸」と呼んだ。呼ばれた茨戸はそっぽを向き、むすっとした表情で押し黙る。


 暴力沙汰まであと一歩という状況だったが、それでも職員たちは止めようとはしなかった。まるで殴られることを予期していないような。茨戸の言動に意識が逸れる者が多い中、和泉はその異様な光景を見ていた。


「おっと、もうこんな時間ですか」


 園井は腕時計を見ながら言った。


「本来なら、杉方さんに卒業生代表としてひとこと言ってもらう予定だったのですが、時間も時間なので先に卒業式を終えたいと思います。ひとことですが、祝辞を。杉方さん、卒業、おめでとうございます! あなたは立派になられた!」


 園井とほかの職員たちが一斉に拍手をし始める。めでたい雰囲気が一切ない中、相変わらず無表情の杉方は職員に連れられて講堂から退室していった。


 それから続いた入所式は、お約束通り退屈なものだった。健全な心とは何か。心が健全ならば人生がどう変わるか。まったく興味がない。


 それにしても、一か月間というのはどういうことなのだろうか。


 施設自体の話題を聞きたいと思っていたとき、部屋の外から何かが倒れる音が小さく響いてきた。硬質でいて、軽やかな音。

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