『施設』 更生への道は善意で敷き詰められている

すめらぎ ひよこ

第1話 名前のない施設

 病的なまでに清白せいはくで、おぞましいほどに清廉せいれんな広間に、椅子の倒れる音が響く。


 残響消えゆく中、人ひとり分の重さを吊るした縄が、ゆっくりと、静かに揺れていた。


 * * *


 バスの車内は、冷えた沈黙で張り詰めていた。


 どこを走っているのかも分からない。どこに向かっているのかも分からない。何が目的なのかも分からない。分からないことだらけだ。


 不明が不安を生み、不安が不言を生む。白色灯に照らされる三十人近くの少女たちは、誰一人として明るい表情をしていない。


 葛城かつらぎ和泉いずみは、窓ガラスに映る自分の顔を眺めていた。真っ黒な車窓はまるで鏡のようで、鏡像はきつい目つきそのままに睨み返してくる。


 それほどまでに車窓が黒いのは、窓の外に夜が広がっているからではない。窓に黒色フィルムが貼られているからだ。


 日よけやプライバシー保護のためにしては黒すぎる。完全に外の景色が見えない。つまりはそのためなのだろう。フロントガラス越しに外を見ようにも、運転席との間に仕切りがあって見ることができない。


 外界を見せまいと車窓を黒く塗りつぶしている薄膜が、このバスの行き先が暗澹あんたんたる場所であると告げているようであった。


「はあ……」


 何度目かのため息。その小さな吐息でさえ、静まり返った車内ではいやに大きく聞こえる。


 バスが坂道に差し掛かったのか、微かにだが、背中を引っ張られるような感覚を覚えた。


 本当にどこに向かってるんだか。和泉がそう思った矢先、今度は右へと大きく引っ張られた。どうやら急カーブを曲がっているらしい。そこかしこで小さく動揺の声が上がる。


 慣性に身を任せ窓に寄りかかっていると、通路側の席に座っている少女が和泉の肩にぶつかってきた。


「ご、ごめんなさい……」


 消え入るような声で、少女は謝る。少女はすぐさま身を持ち直そうとしたが、さらに体勢を崩してしまった。


「ごめ……あ、なさ……」


 気が動転しているのか、少女は息切れしているかのように呼吸が乱れ始めた。謝罪の言葉は言葉にならず、意味を成さない途切れ途切れの音となって口からこぼれ出る。その様子を見ていると、自分が彼女をいじめているように見られないか心配になってくる。実際には周りはそれどころではなく、ただの杞憂であったが。


「いいよ、別に謝らなくて」


 落ち着かせるように、和泉はできるだけ優しく声をかけた。それでも少女の気は静まる様子がない。その姿を見て、和泉は彼女のこれまでの境遇を何となく察した。


 いや、この顔のせいかも……。


 和泉は再び窓ガラスに目を向ける。そこには、相変わらず強気に見える表情で睨み返してくる自分の顔があった。


 クラスメイト曰く「女帝顔」とのことで、見る者に妙な圧を与えているらしい。


 バスがカーブを曲がりきると、少女は飛び退くようにして和泉から離れた。そして数度の深呼吸を経て、ようやく落ち着きを取り戻した。


「落ち着いた?」

「は、はい。すみません……」


 やはり謝ってくる。不可抗力であっても、悪いのは自分だと思い込んでしまうらしい。


「だから謝らなくていいって、別に悪いことしてないんだから。えっと、名前は?」

「の、芒崎のげざき……かなおです」

「かなお、ね。私は葛城かつらぎ和泉いずみ。よろしくね、かなお」

「よろしく……お願いします……」


 かなおは俯いたまま、目を合わそうとはしてくれない。左腕を抱きかかえるように体を小さく丸めている。その態度の根底には、申し訳なさというより恐怖や警戒があるように見える。


 かなおの体は小柄で細く、髪は切り揃えられていない。生活環境の悪さがそこかしこから見て取れる。長袖の袖口からチラつく包帯を見るに、単なる貧困というわけではなさそうだった。いじめか、虐待か。あるいはその両方か。健全な生活ではないことだけは確かだった。


「私、高二で十七だけど、かなおは?」


 同い年には見えない体躯や、向こうから敬語を使われたというのもあり、反射的にタメ口をきいてしまったが、一応年齢を聞いてみる。


 目的地がどういう場所なのか不明であるが、今のうちに誰かと仲良くなっていた方がいいと和泉は思った。自己紹介はその第一歩である。


「十六の、高一です」


 思いの外、年が近かった。とても一つ下には見えない。


「一個下か。あ、でもタメ口でいいよ」

「いや、それはちょっと……」

「うーん、まあ、かなおの気が休まる方でいいよ」


 かなおはこくりと頷く。その顔は、先程までより幾分か和らいでいるように見えた。


 気づけば、ぽつりぽつりと話し声が聞こえだした。


 会話で不安を紛らわせたいが、沈黙を破るのも勇気がいる。そんな緊張を和泉は今まで感じ取っていた。かなおとのやり取りは、図らずも会話の契機になったようだ。相変わらず沈黙を貫く席もあるが、ほとんどの席ですぐさま会話が始まった。


「このバス、どこに行くんだろうね」


 なぜかスマホのGPSは機能していない。


 自分自身見当もついていないので、多分かなおも分からないだろう。そうだとしても、話の種くらいにはなる。その程度の話題のつもりだったのだが……。


「え、少年院じゃないんですか……?」

「少年院?」


 思いがけない推測が飛び出し、和泉は聞き返した。


「そんなところに行く心当たりがないんだけど」


 少年院に行かなければならない心当たり。かなおにはあるのかもしれないが、少なくとも和泉自身にはなかった。そもそも少年院に送致されるならば、警察による調査や家庭裁判所の決定を経なければならない……はず。


「え? あ……」


 かなおは一瞬目を見開いたが、次の瞬間にはほっとしたような、困惑したような顔で俯いた。


「じょ、冗談です……」

「もう、変な冗談やめてよ。変な汗かいたでしょ」


 和泉はかなおの頭をわしわしと撫でた。


「すみません、こんなこと言うの慣れてなくて」

「また謝った。かなおは謝るの禁止ね。自分が悪い、なんてことは案外少ないよ。ちょっと厚かましいくらいが丁度いいって」


 かなおは冗談ですとは言ったが、こちらが心当たりがないと言ったときの驚いた反応から察するに、冗談のつもりはなかったようだ。


 だが、後ろ暗い施設に向かっているという予想を微塵もしていなかったといえば嘘になる。


 数日前のこと。和泉はクラス担任に生徒指導室に呼ばれ、週明けにとある施設に行ってもらうという旨の連絡を受けた。先生自身どういう施設なのかも分かっていないようで、ただ持っていくべきものを大雑把にまとめたメモを渡された。そのメモには服や下着、タオルなどが書かれており、泊りがけということしか分からない。


 名前すら分からない謎の場所。どうしても楽観的にはなれなかった。


 とはいえ、分からないことを悩み続けるのは不毛だと重々理解している。和泉はかなおとの会話に意識を向けた。


 あの急カーブから数十分ほどした頃、今度はいやに真っ直ぐと、そして止まることなくバスが走っている。


 高速道路でも走っているのかと思っていると、バスは徐々に速度を落としていき、少し曲がって止まった。


 ようやく目的地に着いたのかと車内はざわつく。


 多くの少女が戸惑っている中、運転席と少女たちを分断していた仕切りが折りたたまれていき、白い服の好青年が姿を現した。


「お疲れ様です皆さん、到着しました。急がずに降りてください」


 明るくはっきりとした声で指示を出すと、男は先んじて降車していった。


 和泉たちは最後部に近い席に座っていたので、前の席に座っていた少女たちがぞろぞろと降車していくのをぼんやりと待った。


 ようやく動き出した流れに乗ってバスから降りると、肺を刺すような冬の空気が和泉を迎えた。いつの間にか日は暮れており、バスの中と同じような黒い景色が広がっている。ただひとつ、目の前に横たわる建物を除いて。


 車寄せからは全貌を見ることはできないが、第一印象は「白い」だった。隅から隅まで真っ白に塗装され、銘板や装飾の類は一切ない。両開きの玄関扉もドアハンドルが付いていること以外の特徴がなかった。


 景色が黒と白の二色で塗り分けられている。


「荷物は後で部屋に届けるので、皆さんは中の職員の案内に従って講堂に向かってください」


 施設の中から女性職員が扉を開けると、それに吸い寄せられるように少女たちは歩を進め始める。


 和泉は歩きながら、何気なくスマホを起動させた。時間が気になっただけであったが、液晶画面には時刻よりも意識が向いてしまう表示が映し出されていた。


「圏外……」


 都会育ちの和泉にとって、馴染みのない表示だった。「圏外」という二文字が、この施設が外部と断絶された場所であるという事実をまざまざと突きつけてくる。暗くてよく見えないが、木々のさざめきから考えるに山の中なのかもしれない。


 和泉は苦い顔をしたが、前が詰まっていることに気づいて顔を上げた。


 入り口に差し掛かった少女たちは一様に口を閉ざし、足を止めている。何かあるのかと、和泉は並び立つ少女たちの隙間からエントランスホールを覗き見た。


 を見た和泉は、ぴたりと身動きが取れなくなった。


「何……あれ……」


 誰かが口を開き、声を絞り出す。発された疑問とは裏腹に、目の前にあるものが何なのか分からない者はいない。


 少女たちの視線の先には、木組みの椅子と、梁から垂らされている首吊り縄があった。

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