応援コメント

第拾肆夜 宛名のない手紙から、字のないハガキへ」への応援コメント

  • こんにちは。
    味わい深い文章で綴られるエッセイを、ここまで楽しませていただきました。
    カクヨムには凄い才能をもった方々が隠れておられて、そんな方と交流できるのが魅力のひとつですね。
    互いに響き合えるような文友を得られたのは、工藤さんの才と真摯な姿勢あってのことだと推察します。だからこそ衝突も避けられなかったのかも、とも。
    呪いのような叱咤さえ糧にして、これからも素晴らしい文を生み出されることを期待して、続きを楽しみにしています。

    作者からの返信

    久里 琳 樣

    何時もご高覧賜りまして有り難うございます。

    眠られぬ夜に萌した想念を、ついついその惰力の存うるに任せて連ねられるだけ書き連ねておりますエッセイ、何かと長々しく仰々しく、お見苦しいところもあったかと存じます。

    誇張でなしに、まさしく此方が目眩を催すような「才能」をお持ちの方が、仰るようにカクヨムには「隠れて」いらっしゃいますね。書き物をする理由は人によって様々でしょうけれども、私はこの第拾肆夜の「その方」の言葉をそれが「呪い」でなく「啓迪」であったと思えるようになる日を夢見て、勿論、それだけを目的とする訳ではないものの、己が心裡に起こっている榾火の熱を維持しつつ細く長く書き続けられればと今は考えられるようになりました。

    ですから、久里琳さんの掛けて下さったお言葉も糧に今後とも精進致します……と申し上げたいところ乍ら、私の想念は持続力が心許ないものですから、早晩、燃え尽きないように按配して参る所存です。思い出したように或る夜、新しい投稿をしているやもしれませんから、その時は是非また遊びにいらして下さいね。

    追伸:
    毎週末、御作の更新も愉しみに致しております。

  • 書き記すことで熟考が深まるということはありますよね。今後も工藤さまが目指したい方向に向かわれることを心から願っています。

    Twitter歴は私も長いですが、PTAやお受験などで忙しかった時期は放置状態でしたし、執筆の方も5年ぐらい断筆していた時期もありましたが、五行歌はほそぼそと続けることができ、その関連でTwitterも復活し、カクヨムを始めるきっかけをいただき、今に至ります。ですから、時々で自分の方向性を見誤らないよう、気をつけていることはあります。

    尚、お恥ずかしながら、私が毎日記しているメモ帳は人に見せられるものではありませんが、けっこう大量にありますし、悩む時など、昔のことで忘れてしまっていることはないかと見返すことがあります。工藤さまの随想録を読んで、そんなことをふと思い出したりしていました。差し出がましいかもしれませんが、少し勇気を出して、コメント致します。

    作者からの返信

    中澤 樣

    早くに拙文ご高覧下さってコメントを頂戴しておりましたのに、今にお返事の遅れましたること、先ずはご宥恕を乞う次第です。失礼致しました。
    それから先だっては、年始のツイート(※「旭旆」投稿のお知らせ)にこのタイミングでいいねを頂戴しましたこと、「原点に戻りなさい」と仰って戴いたようで一等嬉しうございました。有り難うございました。

    「毒にも薬にもならない散文」を標榜する随想のくせに、稍暫くは毒にもなり薬にもなり得るファルマコンのような「夜の言葉」を、twitterでは文字を用いないと決めた分、此方では存分に……などと意気込むつもりでもおりましたけれど、中澤さんのお優しいコメントを拝読しまして、それも程々に、力まずに(若しくは工まずに)連ねて行けば良いのだと気が楽になりました。

    「毎日記しているメモ帳」とは、何を書き留めておられるのか興味の尽きないところですけれど、そうでした、以前、別の拙文に“carnet”という言葉でレビューを頂戴しておりましたこと思い出しました。パリへの「通行証」という意味のその仏語は「手帖」という原義を持つのでした……中澤さんのカルネ、何やら深く納得できたような気が致します。

    今後とも宜しくご交誼の程、お願い申し上げます。

    編集済

  • 編集済

    工藤さん

    素晴らしいエッセイでした。美しい言葉で、微妙な感情や細やかな感性を見事に言語化なさっている、その技術に感服です。私もエッセイのようなものを書きましたが、改めて自分の未熟さを思い知らされているところです。

    こんな壮大な経験をなさっていたのですね。
    私には知も才もありませんが、それでも、誰かの才能に魅入られるあまり自分を失くしてしまう感覚、分かる気がします。
    純粋で、美しくて、とても苦しい思いをされてきたのですね……。

    過去の文学者たちも、食い違う意見を激しくぶつける手紙を送り合い、喧嘩したそうですね。芸術に、言葉に、真摯であればあるほど、スタンスや性質の違いからくる微妙な食い違いが、思いっきり拗れてしまうのでしょう。でもそれは、その方も工藤さんも一生懸命に「大切なもの」を守ったからこそではないでしょうか……そんな気がいたします。

    自分の芸術への誇りを守ることは、表現者にとって必要なことです。例えそのせいで誰かとの別れが来たとしても……私は工藤さんに、ご自身の世界を守ってほしいと思います。

    最近、お心が特にお疲れのご様子で、ご心配申し上げております。暖かくなさり、美味しいものを召し上がり、きっと、工藤さんのペースでお元気になってくださいませ。

    末筆になりますが、今後とも仲良くしたくださると大変嬉しいです。
    なにとぞよろしくお願いいたします。

    作者からの返信

    釣舟草 樣

    拙文、何とも早くにご高覧下さいまして誠に有り難うございました。
    「独り相撲」二月場所の興行を終えてから意気の中々に復ち返りませんで、今にお返事の遅れましたること何とぞご海容下さいませ。

    殆ど逡巡することのなく一時に、筆の赴くままに言葉を鋲打ちするように留めて行く書き物は随分と久し振りで、堰を切った言葉が止め処もなく奔流してし尽くして何も残らない状態(いま少し品のない譬喩を使いそうになりました……危ない!)、全く以て憑き物が落ちたとはこういった状態を名指すのではないかと、私自身も驚いております。

    この度のアポトーシスは必然だったのかもしれません。その心地良い自壊と再生のスイッチを入れて下さり、見届けて下さった釣舟草さんに感謝の念のみが募ります。

    何時ぞや御作にお送りしましたコメントとともに、その御作に描かれた戦火と焚火のこと、思い返しておりました。私は彼らにとっての「火」を「大人」の暗喩と読みましたけれども、翻ってこの度の私にとっての「火」はまさしく「言葉」そのものでした。
    ふらふらと「火」遊びをしている裡に急に足許の不安定となったその立ち位置から目にした釣舟草さんの「火」の持つ不思議な力に私は「ドキッと」して、その火影の先に長く延びた幻を懼れたのかも知れません。如何なる「火」であるか、ということとともに、その「火」と如何に対するか、それは銘々の「足場」にもかかっているようで、だからこそ見える景色も異なるのでしょうね。

    「世界」……この言葉を何の躊躇いもなく使っておりましたものの、今は倨傲のように思われ、些か面映ゆくもなって参りました。それこそ顔から火が出そうですけれども、兇暴な「火」の乱舞を経てそれでも遺された(遺した)「世界」があるならば、それが風燭なろうとも屹度、大切にして参りたいと存じます。そう思わせて下さいましたこと、重ねて御礼申し上げます。

    絶妙にズレたお返事となっておりますね……何時も何時も相済みません。

    そして此方こそ、twitter上での変わらぬご交誼に深謝申し上げます。また遊びに来て下さいますと幸いです。

    編集済