第拾弐夜 招かれざる客人

 年金を受給し始めて間もない父が、今や二人に一人が患うという病を得てこの半年の間に二度ほど手術をした。

 私が進むべき人生の針路を示してくれた母方の祖父の七回忌を滞りなく済ませたのが昨夏のことで、私自身どうこうしたという訳でもないのにただそれだけで何事かやり果せたかのような心地良い余韻を引き摺って安穏としていた秋口に齎されたのは、まさしく青天の霹靂、既に一度目の手術を済ませたという事後報告だった。


 告げられた病名には流石に少なからず吃驚こそしたものの、それでもどこか冷静に状況を呑み込んでいる自分がおり、父も父で身体の感覚とその仰々しい病名とが必ずしも上手く意識の上で接合していなかったらしく、電話口でどこか他人事のように自らの病について語っているのが不思議だった。そしてまた、命に関わる問題の当事者というか、その直接的関係者になってみれば、平均余命だとか術後の生存率だとかいった類の数字がいかに気安めにしかならず、ただただ0か100かで語ることにしか意味を見出し得ないのだということも痛感させられたことだった。事ごとに医療技術の日進月歩を称揚する私とても、いざそういった状況に陥ったからには、正常値やら平均値やら確率やらと、数値ばかり相手にして生身の患者を診ることを現代医学は忘れてしまったのではないかなどと、遣り場のない文句の一つも言いたくなってしまうのだから、浅はかで、随分と現金なものだ。


 父の病は現況、二度とも内視鏡手術で済む程度の、直ちに大事となり得るものではなかったし予後も悪くないながら、私の家族――念のため附言すれば、父と母とが親族核〔Kinship core〕となって為された、私にとっての定位家族〔Family of Orientation〕、即ち私が生まれて初めて属した家族――にいよいよ押し及んで来た老いの波の慥かさと、家族成員の誰もが若く快活で、生命を左右する病とは無縁であった頃の時の流れと今後のそれとが質的差異を示すだろうとの実感が、祖父の亡くなった時分の心裡に起こった波瀾よりもより大きく私に迫った……否、もはや過去形で語ることの出来ない、父の病は現在進行中の事況として捉えるべきなのだろう。

 

 自ら決めるでなしに、向こうから独りでにやって来る「終わり」がある。それは恰も誰に気取られることもなくいつしかふと隣りに座っている滑瓢(ぬらりひょん)のような招かれざる客人として、避け難く今後も折々に私の家族の中に忍び込んで来るに相違ない。幾ら用心して門鎖してさえ、畢竟するところ門にせよ扉にせよ決して開かない鍵、というものはない。我々は外出する時に何の疑いもなく施錠するけれど、鍵屋もいればスペアキーを持つ大家や管理会社もあるという当然の事実は、自分以外の誰かがその扉の開闔を意のままにいつでも容易くしてしまえるということを証明しており、だのに私は平生、そのことに気付かないというか、努めて考えないように、忘れている節がある。不都合な事実を直視せず側向いていることにはたと気付かされる。


 否応ない「終わり」がある一方で、自ら決められる「終わり」もある。今後も経過観察と要に応じて定期的に検査入院が不可欠であるとのこともあって、「ご迷惑になるから」と父は定年退職後に求めた再就職先を僅か一年で去ることを早々に決め、この四月からは名実ともに隠居生活に入ってしまった。

 昨年度、その再就職先のホームページに、父が新任者として写真付きで取り上げられていたことがまだ記憶に新しい。自分の子ども――つまり私と私の妹――よりも遙かに若い、けれどもまだ孫ほどには年端の隔たってはいない若者達に混じって微笑む父は、その写真の中で生き生きとして見えていたというのに……。

 

 久し振りに実家に帰って見出した小さな変化がある。それは家の匂いであった。父から電話で病を告げられた時、意想外であったのは、その同じ電話口で父から「煙草を止めた」と聞いた時のその寂しげな口吻の方が予期せずして私の胸に迫ったことだった。物心ついた時から私にとって煙草は父と別ちがたく結び付き、父を象徴するもののように思えていたからだろう。「文化は悪徳が高い分、深い」という名(迷)言を残して煙草の文化を擁護し、肺癌で亡くなった著名な愛煙家のニュースキャスターがいたけれど、そのことが俄に頭を擡げてきた。禁煙というか断煙は、父の人生においてそれ以前と以後とを決定的に画するような、そういった告白であったような気がした。

 私にとっては、父が命に関わる病を得ることよりも、煙草を止める時の来ることの方が俄に信じられないのだった。父は恐らく今後二度と、煙草を銜えることはないのだ。


 今ひとつ見出した変化は、キャビネットに列んだ大量の古いレコードだった。殆どが1970年代から80年代の西ドイツ製、一体こんなものどこにあったのか、私が実家に暮らした日々にも目に触れたことのないものばかり。ピアノ曲集が多く、瞥見しただけでもホロヴィッツ、サンソン・フランソワ――この人は何と煙草の似合う人であろうか!――、グールド、マリ=クレール・アラン(※彼女はオルガンだった)、今でも存命なのはポリーニとアシュケナージくらいだろう、といった感じ。隠居して低徊趣味にでも走るつもりかと揶揄したくもなるけれど、何よりそれは私を安心させるのだった。のみならず、カレンダーに平日と休日とを問わず飛び石のように書き込まれたゴルフの予定によって、体力を温存できる内視鏡手術のお蔭もあってか病を得てからも気心の知れた人達とこれに勤しむことを許してくれているらしいと察せらること、それだに頼もしかった。


 引き替えて返す返すも情けないと思うのは、私が父の病を聞いて直ちに採った行動が、二度目の手術を控えた父に平癒の御守りを送ったことだったと、少しく時も過ぎた今こそここに告白させて戴きたい。実家に帰ったのは、ひとまず所願成就に利益のあったその御守りを私の手ずから再び神社へ返納するためということでもあった。

 娘――つまり、私の妹――ですら送らなかった、息子からの御守りを見て、父は何を思っただろうか。こういうのは恐らく娘が送るほうが効果があるのだろうに……

送った息子の側からしてみれば、そのような発想しか出来ない自分の幼さに忸怩たるもの禁じ得ず、とはいえ、そのお守りを握って手術を受けてくれたと母から聞いた時は嬉しかった。


 にしても一体、いい歳をした息子からの御守りを受け取った父の心境とはいかなるものであったろう。私に分かっているのは、そのような御守りを送られるよりも、恐らく私が自動車の運転免許を取得したとでも聞く方が父を遙かに悦ばせるであろうことだけだ。私が折々に弄する「見た目はオトナ、頭脳はコドモ」なる言辞は強ち自嘲とばかりも言えない切実さをもって私に迫る。


 先日、酒気帯びのtwiterや酒気帯びのネット通販を自らに禁じたはずの私も、酒気帯びの投稿だけは、余計な逡巡を霧消してくれるその効果に甘えて止められないらしいことを思いながら、そろそろ眠るに相応しい時間も過ぎて、漸う花紺青に染まる空が眼路に映ずること避けられそうにない。そして、何ともいえずそんな私を慰めてくれる、日曜と月曜との混濁するこの心地良い時間と世界とが、いつまでも続かないことを分かっておりながら、それでもずっと続いて欲しいことを庶幾せずにはいない……本当に莫迦ですね。


* * *


われらは何して老いぬらん 思へばいとこそあはれなれ


【『梁塵秘抄』巻第二 法文歌・雑法文歌235】

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