第陸夜 住まいと座表軸、そして眩暈

(承前)

 旧居で荷造りの最中、久方振りにあの赤と緑に金帯の、まさしくクリスマスシーズンの今時分に似合わしい彩りを帯びた上下の二冊、村上春樹『ノルウェイの森』の単行本を手に取った。大学一年生の春休みに、モニク・アースの弾くラヴェルのピアノ曲集をCDで――今やYouTubeで聞けるとは!――聞きながら下巻の終盤を読んでいると、ちょうど「ある曲」が耳に流れて来た頃おいに、奇しくもこれと同じ曲が作中で演奏される場面に出会して鳥肌が立ったことが懐かしく思い出される。「この瞬間は将来、必ず何度も思い起こすことになるだろう」と予感させる瞬間というものがある。誰かにその時のことを話す度に「出来過ぎだろう」と作為を疑われないことはないので半ば諦めてはいるものの、さりとてこの不思議な体験は私にとって誰かについ話したくなってしまう類の大切な思い出であって、この『ノルウェイの森』という小説のクリスマスカラーは、不思議と今以て色褪せることなく、そしてだからこそ私の青春の一コマを今後も色褪せず鮮やかに甦らせてくれるのだろう……そう思ったのが旧居でのこと、実はその後、新居に引越し果せてから同作のことでもう一つふと思い出したことがあって、それはこの物語が主人公のワタナベによる「僕はいまどこにいるのだ?」との自問で終わることだった。何故そのことを思い出したのかといえば、新居で暮らし始めてより、いつしか私の心裡に、というより脳裡に瀰漫して、二ヶ月ほど経った今も完全には晴れない「靄」、頭脳朦朧とさする違和感が、件のワタナベの自問に含意されるものと相通ずるのではないかと思い至ったからで、これが今回の本題となる。

 荷造りについて記し留めた前篇に続いて、後篇は引越し後に俄に萌したこの違和感について綴りたい。

 これを惹起する要因には既に見当が付いていて、それは「住まいを変えておりながら生活圏が変わらなかったこと」ではないかと推断している。実は新居は旧居から歩いてもせいぜい十分程度の近場にあって、だから利用する最寄りの駅もバス停もこれまでと変わらないし、買い物や飲食をする商店街のお店、ポイントを溜めているスーパーやドラッグストアにせよ、深夜帯の店員と顔馴染みになって久しいコンビニにせよ、ちょっと無愛想な夫婦が営むクリーニング店にせよ、行列の絶えない人気ラーメン店にせよ、ともかく何にしても、旧居と新居で住まいこそ変われどその周辺環境は全く変わっていない。ところが、そのように環境としては何も変わっていないはずなのに、どうにも変わってしまったとしか思えないものがあって、それは風景の「見え方」、私の空間認識の在り方ということになるだろうか。それまでと同じはずの風景を、引越しの後では脳がそう認識していないような感覚、お店など建物の中ならばまだしも、商店街を歩いている最中など特に、常に乗り物酔いのような感覚が眩暈を伴って容易に抜けない。見慣れたはずの風景が見慣れないものに映るのだから、「僕はいまどこにいるのだ?」という自問が自ずと頭を擡げるのも致し方ないことのように思われる。

 あるいはこれがもし、全く見ず知らずの新天地に越していったとあれば、恐らくここまでの違和を覚えることはなかったのではなかろうか。住まいを変えるということが、譬うればx、yの直交座標系の原点をズラすような仕儀だったとして、その原点から拡がる一定度の範域が私の日常的な行動圏内、知覚範囲なのだとしたら、仮に原点がうんと遠い座標平面上に移動していれば、これを基点とする範域は「初めて見る風景」として脳内に新規作成されて上手く認識できただろうに、今回はなまじ原点が微動しただけでかつての活動の範域が殆ど変わらないから、スマートフォンの液晶保護フィルムをピタリと貼るのにしくじって何度も貼り直しているような、ズレた分が僅かであるだけに逆にその微調整に時間が掛かるという、そんな段階でもあるのだろうか、などと考えてもいる。

 してみれば、私にとって住まいというものは、世界を認識する時に立つその原点、立ち位置でもあるらしい。少なくとも旧居の存在感は今や自分でも驚くほどに私の中から喪われてしまっており、これに代わって新居という、移動した「原点」の求心力は私の意識をそこに引っ張るように強く作用しているような感じがする。ただ、原点が移動してリセットされた座標軸にあっても、旧居を原点としていた時の残留思念のようなものは、更新されずに未だ残っているのだろう。いずれにせよ、住まいを変えるということは思っていた以上に大事になり得るのだと改めて気付かされる。私に否応なく足枷を嵌めて紐で括り付け、いかに自由に動き回ろうと結局はそこに戻らざるを得ないような、そういう強固な「引力」が住まいにはあるのかも知れない。

 ところで、引越しに伴って生じたと思われる空間認識の変化という点では、引越し直後のキッチン空間での難儀がこれと面白い比較の対象になり得るような気がする。新居のキッチンに立って暫く、私は何かにつけて、もたつく、ぶつかる、落っことす、という三重苦に苛まれた。調理器具の位置や調味料の位置、食器の位置からダストボックスの位置まで一々が当然ながら旧居とはまるで変わってしまったから、体が勝手に動いたその先に目当てのモノがない、といったような「空振り」が頻発することになったわけで、いうなれば「無意識の世界の崩壊」といったところだろうけれど、このキッチンにおける座標軸のリセットとその後の補正は今では概ね完了しつつあるように思われ、外出時の眩暈ほどに大事とはならずに済んでいる。ただ、何故こちらの方が早く補正できているのかは未だによく解らない。

 ということで、こうして漸く落ち着きを取り戻すまでの間にも、カクヨムに登録してちょうど二年を迎え、三島由紀夫が自決して五十年の正日も過ぎていた。日月廻の駿駒隙を過ぐ……いつしか今年も残すところ数日を残すのみとなっている。早く眠りたくとも眠られぬ年末年始をカレンダーの視圏に収めつつ、これに備えて今こそは何とか早く眠りたいと心より願っている。

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