青に沈む夢の果て

伊島糸雨

青に沈む夢の果て


 世界は水底にある。眼球の上にフィルムを一枚被せたように、あらゆる光は青に満ちる。

 白衣の色、肌の色、髪の色、机の色、床の色、天井の色。

 どれもこれも一様に青の系統に属して、冷ややかな温度でそこにある。


「わかりました。お薬の服用だけ、お忘れなく」


 特に話すことはない、というと、先生はにこやかな表情のまま頷いた。本来10分は取られている診察時間は半分も消化されない。私から新しく報告すべきことも、言いたいことも別になかった。今日も何も変わらない。私はいつもブルーのままだ。

 軽く会釈して診察室を後にする。待合室は空白で、やわらかなオルゴールの音色に耳をすませながら、長椅子に腰掛けて名前が呼ばれるのを待った。受付で次回の診察の時間を決めて、外に出る。

 階段を降りて自動ドアをくぐると、煌々と照る落日が、空も街をも青に染め上げていた。それはまるで水槽を照らす明かりのようで、私は魚の気持ちを想像しながら、人気のない道を歩く。息を吐くたびに、それが気泡になって浮かんでいくのを思い浮かべて、手を突っ込んだパーカーのポケットをヒレのように小さく動かした。

 暑苦しい夏が過ぎ、秋も深まって風は冷たさを増している。半袖の上から上着を羽織っていると、袖の隙間から風が入り込んで、二の腕が粟立った。魚……、ぷっくりと膨れた金魚の真似をして身体を温めつつ、グロテスクな色合いのアスファルトを蹴る。住居の数の割に閑散として、娯楽施設も本屋程度しかない小さな町。たまにすれ違う人は死体のように青ざめた顔を俯かせて、まるでゾンビか何かのようだ。越してきてからこっち、言葉を交わした相手は非常に限られている。私が言えた義理じゃないけれど、すれ違っても皆よそよそしく、変な人が多かった。

 アパートの2階に上がって、自分の部屋を通り過ぎ隣をノックする。「浅間あさまだよ」声をかけると、数秒して鍵の開く音がした、ドアを開けて、身体を滑りこませる。


「おかえり」

「ただいま」


 立花たちばなは相変わらず冷めた表情で私を出迎える。それは寒色であるところの青白さと相まって、うまい具合にマッチしているけれど、私は彼女が振る舞いや言葉の割にお人好しで面倒見がいいのを知っている。


「今日は鍋だっけ」


 青白い彼女は頷いて、「そう」とだけ言った。


「楽しみ」

「浅間は準備だけして待ってて」

「はーい」


 さっさと台所に向かう立花を追って、箸を出すなどしてちゃぶ台の前に大人しく座り込む。以前手伝った折に私には料理が向いていないらしいということが判明してからというもの、立花は私を台所に入れてくれなくなった。何かやることはないかと近づこうとすると「来ないで」と激しく牽制を食らうので、もう諦めることにしたのだった。

 立花が小さく鼻歌を歌っている。機嫌がよさそうでなによりだ。安くなっていた豚肉には功労賞をくれてやろうと思う。

 しばらく、とんとんとリズミカルに野菜を切る音が続いた。「鍋出すよ」「お願い」最低限の雑用はお任せあれと、調理器具の棚から鍋を取り出して台所の空いたスペースに置いた。「ありがと。戻っていいよ」帰還命令が出て、ついでにコンロを確保した私は再びちゃぶ台を前にして座りこむ。


「今日はどんな花が咲いたの」


 台所は声が聞こえにくいからと、少しばかり声をはりあげる。立花は変わらぬ調子で、


「右の肩甲骨のあたりにリンドウが咲いた」


 まず彼女の肩甲骨を想像し、続けてそこから顔を覗かせる豊かな緑色の茎と紫色の花を思い浮かべる。もちろん私には青っぽくしか見えないから、かつての記憶の掘り返しになる。……綺麗なんだろうけど、なんだかちょっといやらしい感じだ。もちろん、口には出さない。


「へぇー。見えなくて残念だな」


 私が言うと、下ごしらえを終えた彼女が鍋を持って現れて言った。


「……別に気持ちのいいものじゃないでしょ」

「そんなことないよ」


 ごとりと重量を感じさせる音を立てて、中央、コンロの上に鍋を置いた。そのまま対面に腰を下ろし、無言のままに点火する。

 本心からの言葉なんだけど、信じてもらえている様子はない。彼女にとってそれは忌避すべきものなのだろう。

 私は見たいけどな。立花の綺麗な青白い肌に、いくつもの花が寄生してるの。

 妄想を繰り広げつつ、ぐつぐつと煮えていく具材達を眺める。青いネギ、青いもやし、青い人参。青い汁。

 そして傍らには紫色の肉。普通なら食欲とか消え失せる色なのだろうけど、私はもう慣れてしまってさしたる影響はなかった。汁が沸騰して野菜が少しくたっとなったところで、菜箸を使って肉を放り込んでいく。さすがにこればかりは私の役目だった。なにもできないのはちょっと寂しい。


「たくさん食べなよ、立花はさ」


 肉を投入し適当にひっくり返したりしながら私は言った。「体力つけよう」


「体力つけても治らないけどね」

「そりゃそうだけどー」


 毎日が少し楽になるよ、というと「まぁ、それは確かに」と素直に首肯した。


「私肉アレだからさ。青いから。野菜食べるわ」

「嘘」


 一瞬で見抜かれてしまった。私が嘘つくの下手なのか、立花が鋭いのか……前者なような気がする。あんまりにも適当すぎた。


「まぁ、さすがに慣れたからなんともないんだけど……はい、肉」


 取り繕いつつ、彼女の皿に青灰色の肉を放り込む。自分の分も確保してから一旦箸を置き、手を合わせて、


「いただきます」「いただきます」


 あとはもう、黙々と食べる。私は深夜のバイトがあるから、ここである程度しっかり食べとかないと途中でへばってしまう。自分の皿にせっせと供給しながら、時折立花のところに放り込む。


「私のことは気にしないでいいから、食べて」


 立花はそう言って、菜箸を押し止める。いつものことだった。私は「わかったよ」と素直に手を引っ込める。

 立花は少しずつ、その小さく開かれた口に野菜を運んでいく。それから肉も。薄紫色の唇に触れて、押し込むように。汁の油が唇を濡らして、ぬらりと光った。

 立花は普段から小食なのを知っているので、今更思うことはほとんどない。強いて言うなら、それで足りるのかな、という淡い心配くらい。最初に会った時と比べればいくらかマシなんだろうけど、それでも肋の浮いた身体を見るたびに、簡単に手折れてしまいそうだと思う。強引に指を押し込めばすぐそこに生暖かい肉の感触があるというのが、ありありと感じられるから。

 立花の箸を運ぶ手はぎこちない。身体の周りに何かがあるように、それを避けて腕を動かしている。

 立花には、私には知覚できないものが見えている。私が、立花には見ることのできない色彩に溺れているように。

 彼女の主観において、その身体には植物の根が張り巡らされ、皮膚を破って花を咲かせているのだという。彼女自身、それが幻覚だとわかっていながら、その眼に映る生々しさには逆らうことができないのだった。

 確か、この間は腕にスミレで、その前が肋にスイレンだった。他には首筋にコスモスだとか、脚に夕顔、背中にラベンダーというのもあったような気がする。だから、今彼女の肩甲骨には、確かにリンドウが花開いているのだろう。リンドウの花言葉は、なんだったっけ。

 考えるうちにも、鍋の中身は静かに減っていく。食事中、会話はほとんど生まれない。そういう団欒は、精神に余裕のある人たちが穏やかに繰り広げてこそだと思う。私たちにはいささかハードルが高い。

 ごちそうさま、と唱和して片付けに入る。食事を終えて、洗い物は共同でやるのが通例だった。食洗機なんてハイテクなものはないから、立花が洗い、私が拭いてはしまっていく。そういう流れ作業でとっとと終わらせて、あとはしばらく腹休め。立花はソファに座って本を読み、私はその隣でヘッドホンをして音楽を聴いていた。

 私の世界が水底に沈んでからずいぶんと経つけれど、青が一番薄くなるのは決まってその時間だった。元に近い形で色が見えるから、立花のことを見ていると、肌色がどんなものだったかも鮮明に思い出せそうな気がする。



 私を担当する先生は、この症状を心因性のものだと言った。立花も、同じようなことを言われたそうだ。眼球がどうとかそういうのではなくて、私たちの頭がそういうふうに世界を捉えるのだと。望むと望まざるとに関わらず、私たちは今そういう状態にあるのだと。

 大丈夫ですよ、と先生は微笑んだ。そして「落ち着いて過ごせる環境と時間があれば、自然と治癒するケースは多いです」と私に語った。

 立花と出会ったのはその後のことだ。落ち着いて過ごせる環境とやらを求めていたところで、ちょうど同じ目的を持っていた彼女と遭遇し、紆余曲折を経た果てに今がある。まぁ、紆余曲折と言っても、一緒に住みませんか、とか場所決めましょうとかそんなあれこれで、これといって葛藤だとか衝突があったわけじゃない。今のところ、私たちはうまくやりくりできている。

 だからこそなのか、時々、もし立花が心身ともに健康になったら私たちはどうなるのだろう、なんてことを考える。彼女の表情は生気を取り戻し、肉体は健康的なふくらみを持って、諦観の滲むあの冷めた瞳も温かな色を思い出す。そんな未来があるのだとして、この生活は終わってしまうのか。目的は達したと彼女は私の元を去ってしまうのか。そして私は、そんな彼女を祝福できるのだろうか。

 よかったね、これでもうあの生き苦しさとはおさらばだ。おめでとう。立花が幸せなのが一番いいよ。

 立花は私の気も知らずに、綺麗なブラウンの瞳をころころ動かして文字列を追っている。形の綺麗な爪を乗せた細くて骨っぽい指でページをめくる。その仕草はなんだか愛撫するかのようで、妙に色っぽく見えた。


「……なに?」


 じっと見つめていたら怪訝そうな視線を寄越されて、慌てて目を逸らす。胸中をつまびらかにする気は起きなかった。いくら立花でも……いや立花だからか。「いや、なんでもない」と手を振りつつ、そそくさとバイトに向かう準備をする。時計を見ると、時間はちょうどいい塩梅になっていた。


「もう行くの?」

「うん、行かないと」


 バッグを肩に下げて言うと、彼女は「そ」と小さく呟いた。「行ってらっしゃい」


「行ってきます」


 じゃあね、と手を振る。立花が胸元で控えめに返すのに満足して、私は悠然と青褪めた夜の世界へと繰り出して行く。



 バイト先のコンビニは病院と家の中間くらいにある。人気も車通りも完全に失せた道を鼻歌交じりに歩くのは開放感があって気持ちがいい。頼りない街灯の青い光と、家々の窓から漏れる生活の灯火だけが頼りだった。途中に通り過ぎた電話ボックスには蜘蛛の巣が張って、それと知らずに蛾が踊っていた。

 自動ドアをくぐるとすっかり聞き慣れた電子音が流れる。日を跨ぐ前のこの時間はまだ客がいてもおかしくないはずだけど、ここは利益の程が心配になるくらいにはがらんとしているのが普通だった。給料が少なめな分、楽でいい。

 レジの前でぼんやりしていた私の前のシフトの人に挨拶をして、ほとんど対角線上にある従業員用の入り口に入っていく。タイムカードだとか着替えだとかの諸々を済ませてから、定刻になってレジを代わった。

 夜から夜中にかけての時間帯は本当にやることがない。かといって何か時間を潰せるものがあるでもなく、ひたすらぼんやり突っ立っている。まぁそれでも、日中忙しく立ち回らないといけないのに比べたら何倍もマシだと私には思えた。

 客は30分に1人くらいしかこない。それもたいていは毎日同じ時間に同じものを買いに来るタイプで、例えば12時頃に何かしらカップ麺を買っていく中年くらいの男だとか、1時過ぎになるとラッキーストライクのライトをボックスで買っていく美人だとか、あとは2時とかその辺になるとやってきて10分ほど雑誌を立ち読みして何も買わずに帰っていく若い男だとか、そういう人ばっかりだった。

 私が出会う客はみな一様に沈んだ表情をして、内面の抑鬱を皮膚の上に刻みこんでいるように見えた。何か悪いことがあったとかじゃなくて、ずっと凹んでしょぼくれたまま。消えてしまいたいけど死にたくないから生きて、ほとんど人と会わなくて済む時間になってようやく自分の好きなものを買ったりして、ちょっとだけ楽しい気分になる。でもそれがささやかかつ束の間の幸福だってこともわかっていて、だから何度も同じことを繰り返す。安全を求めて儀式を積み重ねていく。そしてまた、失望する。


 あーあ、何も変わんない。


 私はその感覚をよく知っていた。それこそが私を水の中に沈めたものだということも、よくわかっていた。

 彼らにはほんのりとシンパシーを感じている。けれど、私の方は彼らと心温まるエピソードを生み出すでもなく、相変わらず青い水槽の中で口を開けて息をするだけ。

 私はぽこぽこと気泡を吐き出す金魚。それしか能のない水槽に飼われた哀れな金魚。

 そんな妄想を、節操なく繰り広げている。

 その構図はいってしまえば、死んだみたいに真っ青になってゾンビのように深夜徘徊する客と金魚店員だ。B級ホラー映画とかに出てきたらたぶんいい勝負になる。どっちも人のこと食べちゃえばいいのだ。サメブームが終わったら金魚を軸にするのがいいと思う。いつそのブームが終わるのかは全然わかんないけど。

 世界は青。ここは水の中。息苦しさから逃れて私は金魚になりました。同じ部屋には花の苗床がいて、仲良く一緒に暮らしています。

 空が青白くなる前に、次のシフトの人が来た。私は金魚の物真似をやめて、小走りになって帰路につく。



「……ただいまー」


 声を抑えて、誰に言うでもなく口にする。軋む扉をそっと閉めて、抜き足差し足でリビングに向かい荷物を置く。暗闇に目が慣れてくると、全体がぼんやりと見えてくる。ちゃぶ台は傍によけられて、中央に敷かれた布団の上では立花が寝息を立てていた。

 起こさないように洗面所に向かい、そのまま簡単にシャワーを浴びる。寝間着に着替えて台所で薬を飲んでしまえば、あとは寝るだけだ。こんな時間だから、だいたい昼過ぎくらいまでは寝ることになる。立花はあと数時間もすれば目を覚ますだろう。

 いつも私が起きると、隣には立花が寝ていた痕跡だけが残っていて、彼女の姿はない。私が夜に働いているのに対して、彼女の方は昼間に仕事が入っている。几帳面に畳まれた布団だけが、存在したことを示してくれる。


「……よいしょ、っと」


 立花が敷いておいてくれた布団に潜り込み、身体を動かして横を向くと、視線の先にちょうど立花の後頭部が来る。シャンプーの香りに混じるのは、立花の匂いだと知っている。私に穏やかな日々をあたえてくれる匂い。私を水面みなもに浮かべてくれる匂い。

 立花はその身体を掻き抱いて、生後間もない赤子のように蹲っている。弱々しく、幼く、唯一違うのは、生まれ落ちたこの世界が苦界であることを身をもって知っているということだけ。私は赤子と同じだけの愛らしさを、その背に感じている。


 私の青と彼女の花が、唯一の交点だった。


 私たちはそれぞれの憂いを知り得ないまま、病んだ幻影によって結ばれている。2人で暮らすこの水槽に、この植木鉢の中に。私は酸素を求めて泳ぎ、彼女は身体中に花を抱えて、痛みによってこの部屋に根を下ろしている。

 朝焼けの迫る時刻に、私がその背を見つめて切ない思いに駆られていることを、立花は知らない。伸ばしかけた手を私がどんな思いで引っ込めるのか、彼女はきっと想像したこともないだろう。

 別に知っていて欲しいとかは、ない。

 知らないままでいいと思う。というかむしろ知らないままでいて欲しい。

 想像がつくのだった。指先で触れようとする私の顔は、ひどく醜いに違いないと。

 不意に立花がもぞりと身じろぎをして、転がった挙句私と向かい合う形になる。自然、顔は近くなって、私は横になったまま後退りそうになる。驚きつつ、見開いたままの目で彼女の顔を見る。垂れた前髪が片目を覆っていた。

 吐息は規則的に、静かに響く。水槽に浮かぶ気泡は、ゆるやかに上って、弾けていく。

 ごめんね、と小さく呟いた。



 立花が苦しむ姿を思い描く。

 悲しんでいる彼女を愛おしく思う。

 一人で楽にならないでいて。

 一人で救われないでいて。

 私を置いていってしまうくらいなら、私は立花の幸福を望めない。よかったね、なんて、祝福できない。

 立花がいるから、私はまだこの淡い青の中で浮かんでいられる。痛みを抱えて辛そうに微笑むあなたがいるから、私はまだ溺れずにいる。

 もしいなくなってしまったら、世界はきっと青に沈む。憂鬱は嵩を増して私を覆い尽くし、重くなった身体で、深く、深く、濃度を増した青色の底で、暗闇に啜り泣く自分を想像する。

 カーテンの隙間から青が差し込む。私は瞼を閉じて、微睡みの淵に立つ。


 だから、ねぇ、立花。

 どうか、私を置いていかないで。

 もし叶うなら、この浅い水底に、私と一緒に沈んでいて。

 その根で私を絡みとって、私と一緒に沈んでいって。


 青に沈む、夢の果てまで。


 どうか。

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