第6話

「…だーっ、クソ。今日は散々だったな…」



 鳴海は1日の業務を終え、職場から駐車場までの道のりを歩いていた。

 週末の定時推奨日だというのに、業務が押してしまい、残業が必要になってしまったのだ。


 いつも通りの業務計画だった筈なのに、上手く回らない日がある。

 こうなってしまったのは、部品搬入で手違いがあり、自分の作業している4Fから、地下部品庫、工場を行ったり来たりする羽目になったことだ。

 その上、30分程度の会議が2度有り、ほぼ自分の業務をすることが出来なかった。

 それを見て柊が一緒に残業して作業を手伝うよう申し出てくれたが、指示を出すことで二度手間になり、かえって時間がかかってしまう恐れがあったため先に帰らせることにした。

 柊もそれがわかっていたのか、あっさりと引き下がった。それが大体2時間程前のこと。



「…さて」



 自分が車を停めている駐車場まで、徒歩で15分。

 鳴海は自然な所作で片耳にイヤホンを刺し、一度周囲を警戒した。



「今日は、これかな。────」



 残業が終わった人通りのない時間帯。更に言えば日が落ちて顔が判断できないことも計算に入れている。

 鳴海は、ストレスを感じたときの解消法として、好きな歌を口ずさみながら歩くことを、しばしばおこなっていた。



「────。うーん、良い曲」



 夏空の一枚絵が曲調からも印象に残る、寂寥感のあるポップバラード。音の高低差とラスサビの転調がポイントだな、と一人唸りながら一曲通してしまえば、自分の車が見えてくる。

 今日はこの後、外食でもして一人カラオケに行ってしまうかなどと他愛もないことを考えつつワイヤレスの鍵を使って、遠方からロックを解除した。

 すると、その車の影から、この場には居ないはずの人物が声を発しながら姿を現した。



「……な、鳴海先輩、ですよね…? お疲れ様ですっ!」

「!? え、柊? なんでここに?」



 急に現れた柊に面食らいつつもお疲れ様と挨拶を返す鳴海は、頭の中が疑問符でいっぱいになってしまった。

 柊は鳴海からの問い掛けに対し答える。



「…実は、困ったことになりまして…。頼れるのは鳴海先輩しかいないって思ったんです!」

「いや、だからその困ったことを説明して」



 柊は、自分の置かれた状況を、少し気恥ずかしそうに語った。

 柊は、鳴海より先に定時上がりした後、一度自宅まで帰った。

 しかし、家に着いてから自宅の鍵が無いことに気が付き、会社まで戻り守衛室の落とし物預かりとなっていることが発覚。無事鍵は回収出来た。

 だがその後、運の悪いことに帰宅方面の電車が人身事故の影響で停止状態になっており、困っていたという。



「そこで、鳴海先輩を頼ろうと思って携帯に連絡したんですけど…」

「あー。…サイレントになってたか。全く気が付かなかった」

「はい。あの、先日の歓迎会で車種と駐車場の番号は記憶していたので、此処で待たせてもらってました。すみません」

「いや。確か柊は結構駅乗り継いでた来てたな。流石に歩いて帰ることができる距離じゃない。送ってくよ、助手席乗ってくれ」



 ありがとうございますと頭を下げ、助手席に乗る柊と対照に運転席側に回り車内に入る。

 シートベルトをした柊を確認し、鳴海はナビの設定を行う。



「ほら、住所。入れてくれるか?」

「あ、わかりました。……ところで先輩。聞きたいことあるんですけど」

「? 何?」

「さっき、先輩が来るときに歌声聞こえちゃったんです…それで、その」

「…。そこは聞かなかったことにして欲しかった…。いや、無防備な俺が悪いんだが」

「いや、そういうことじゃなくてですね…」



 まさか柊に弄られると思っていなかった鳴海はバツの悪そうな顔で希望的観測を伝えたが、どうやら何か異なることが気になる様子。

 まるで言うのを本当に迷っているような素振りを見せる柊に、実は社会の窓が全開だったりしないかと鳴海は視線を落とすも、そんな事実はなかった。

 そんなくだらないことをしている間に覚悟が決まったのか、キッとこちらを見つめ。



「鳴海先輩って実は女性だったりします…? 重大な秘密を偶然握ってしまいましたか、私…」

「………その心情の理由を述べよ」

「何故現代文出題形式!? や、さっき近づいてきたとき聞こえた歌は、どう考えても女性の声だったと思って! でも普通に先輩だったから本当に驚いたんですよ!?」

「……あ、そっち」

「? 他にどっちが???」

「いや、なんでもない」



 余りに突拍子のないことを告げられ思わず真顔でテスト問題形式で質問を返してしまった。

 へったくそな歌とか、変な人とかそういう方向のレッテルを押し付けられるかと内心冷や冷やしていたのもあって冷たい返しになってしまったのもある。

 事実なので、何も言えないのだし。



「とりあえず、俺は男だ。心配しなくてもいい」

「そ、そうですよね…。………」

「………」

「……………」

「…なあ。近くないか?」

「…いえ、その。先輩、産毛とか薄いですね。お肌つるっつるだし…。うわ、睫毛長っ!? 男装…?」

「お前正気か?」



 いつのまにかシートベルトを外し、助手席から乗り出すような形で、顔を寄せている柊にじろじろ見られるのは気まずさが嵩む。

 何より、本気で探りに集中しているのか、柊自身この状況を本当の意味で理解できていないのではないだろうか。

 良い大人である男女が、密室で、キスをしてしまいそうなくらい顔を近づけているこの状況を。



「…いやでも先輩喉仏とか全然出てないし…うーん」

「!?!!?」



 首元に顔近づけたと思うと、手で喉の辺りを人差し指で撫でてきた。

 そして、そのまま鳴海の胸に手を伸ばし───



「…胸、無いですね。むしろ硬いです…。わ!先輩お腹も硬っ。これは割れてますね絶対!!」

「………柊」



 予想以上に鳴海の胸や腹が筋肉質だったことに驚き、はしゃぐ柊。

 しかし、鳴海は気が気ではない。先程から胸や腹筋の割れ目に沿って指を這わされているわけで。

 いくら服の上からとはいえ、くすぐったいのと恥ずかしいのが入り混じって表情筋が既に限界近い。

 ため息混じりに彼女の名前を呼び、一言物申す。



「一度深呼吸して、今の現状を客観的に考えて。はい、吸ってー」

「わーわー! …? はい、すーっ」

「吐いてー」

「ふー……。………」



 夢中になっていても指示に従うところは素直だなと思いながら、あと十数cmで唇同士が触れ合ってもおかしくない距離で深呼吸する柊を見る。

 深呼吸を終え、柊は目を開く。

 二、三度瞬きをしたと思うと、無言で、若干カクついた動きで、助手席に戻り、俯く。



「…柊」

「ダメです」

「いや、柊」

「…ダメですって」

「顔赤いぞ」

「~っ! なんで言っちゃうんですか! ダメだって言ったのにっ!?」



 柊は図星をつかれ尚慌てふためく。

 思い返すと、大胆なことしかしていない。

 チラリと鳴海に視線をやるも、目は合わせられず下に向かう。

 視線の先は鳴海の腹部、胸、喉と徐々に上へ移動し、先程の感覚を嫌でも意識する。



「あのさ、じろじろ見られると恥ずかしいんだけど」

「ひぇっ」

「…ええー…。俺が悪いの…?」

(鳴海先輩、大人の男って感じだ…!!)



 テンパっているのは柊だけで、鳴海は冷静。少し呆れている節まであるように見える。

 それが少し悔しいという思いに反して、いつまでも胸の高鳴りは収まる気配がない。

 鳴海の心境は、半ば自棄になってるだけとも知らずに。


「…ずるいです。今からカラオケ付き合ってください」

「え、なぜ?」

「あ、夕飯まだなんで、まずはご飯付き合ってください」

「いや、だから」

「鳴海先輩。お願いします。本当に…、察してくださいよぉ…」

「…ごめん、途中からちょっと面白くなってた…」

「もぉー!!!!!」



 その後、鳴海はご飯とカラオケを奢りでしっかりと詫びていったのであった。

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