第5話 ファイトクラブ

 「いやあ,良かったよ悟志,お前もジーマスターに馴染めたようで。父さんも安心したよ。」

 朝倉という腹黒い男から渡された,地方新聞の地方記事欄に小さい写真入りで紹介されたとても小さな記事を手にして,嬉しそうに目を細める父が居た。その記事によれば,朝倉なる植樹祭の警護に当たっていた軍人が,機転を利かせてAEDを使用して参加者を救命したとのことであり,同人は,『皆さん,AEDの使用を恐れないでください。そうすることで,救える生命がきっとあります。』と訴えたとのことである。素晴らしい。しかし,ジーマスター,悟志に関する記事は,当然のように一切掲載されていない。

 「なあ悟志,この写真に写っている人が,お前の相方の朝倉さんという人なのか?若いなあ,歳は一緒ぐらいかな。」

 「そうですよ。頭は良いけど,私生活が充実している,とっても感じの悪いヤツですよ。」

 悟志は,嫌悪感を露わにして即答した。

 「まあ最初の内は,色々とあるよな。父さんも織田さんともそうだったよ。織田さんは,ホントに厳しい人だったよ。でもな悟志,相方の事を悪く言わない方が良いぞ。これからの任務は大変になるばっかりだから,お互いの信頼関係が大事になるんだ。信頼ってのはな,有り体だけど,日々の積み重ねの結果なんだぞ。父さんに言うのは構わないけど,あんまり口外はしない方が良いぞ。」

 あえて,『私生活が充実している』は,人を嫌う理由にはならないと,親として口にはできない父だった。

 「そうは言われても,アイツは強烈なんだよ。多分俺が悪く言っても,屁とも思わないようなヤツだよ。それより父さん,今日は何しに来たの。仕事,忙しいんでしょ。」

 「いやあ,仕事は確かに忙しいよ。昨日もほぼ徹夜だよ。だけど悟志,お前も同じぐらい大変だろうなと思ってな。父さんは先代のジーマスターだぞ,俺たちにしか分からない苦労もあるだろうと思ってな。どうかな?」

 父は,一見,心配げな眼差しをして,悟志の様子を伺っているように見えたが,悟志には,父が,自分の方にジーマスターの『火の粉』が飛んでこないように心配しているようにも見えた。

 「あのさ父さん,このジーマスターってさ,やっぱり俺じゃないといけないわけ?父さんじゃ無理なの?父親として,子どもにこんな無茶をさせて,心苦しくない?」

 「父さんも,ジーマスターやってた頃はそう思ってたよ。なんで俺だけがこんなことをしなくちゃいけないんだって。でもな,ジーマスターは女性経験を持ってしまうと失われてしまう能力なんだ。今は,世界でお前にしかできない大事な仕事なんだ。これは,ジーマスターの家系に産まれた男子に課された宿命なんだよ。受け止めるしかないんだ,頑張ってくれ。父さんには,お前の気持ちがよく分かるし,応援もしている。」

 「じゃあさあ,なんで今まで話してくれなかったの。あらかじめ知っていれば,俺だって少しは覚悟だとか,対処もできたはずじゃん。彼女を作るとかさ。」

 「悟志,言いたいことは分かるが,父さんは,お前たち家族に普通に生きて欲しいと願ったからこそ,名字も変えて,今まで軍から身を隠して生活していたんだ。お前が,普通に成長して,女性経験さえ積んでくれたら,本当に良かったのにな。でもな,父さんも含め,何故だかジーマスターの家系って,女性にモテないんだよなあ。なんでだろうなあ。」

 身も蓋もない,父からのあまりの回答に,斉藤悟志からは,怒る気力さえも消え失せた。

 「でもな悟志,考えようによったら,歌舞伎の家系のようなものだぞ。一子相伝の技の継承。なんだか格好良いじゃないか。世界に俺たちだけなんだぞ。胸を張っていい。」

 「父さん,あっちはその家を継ぐだけで人間国宝確定で,こっちは生きているだけで下半身露出確定って,エライ違いだと思うんですけど。」

 「うん,それは父さんもそう思う。」

 気休めでも良いから,何らかの反論を期待していた悟志にとっては,失望しか残らない父の相づちだった。

 「でもさ,悟志,お前が,後ろ向きに考えている限り,父さんはお前を慰めることしかできない。だけど,お前が前向きにジーマスターを考えてくれるんだったら,先輩として,色んな助言だとか,経験談を話すことはできると思うんだ。実は,今日は,そのために来たんだ。何かないかな?その,聞きたいこととか。」

 「あのさ。」

 「何かな?」

 「父さんって,ジーマスターやってた頃,本当に下半身裸で活動していたの?」

 「いやあ…。」

 先代ジーマスターは,現在のジーマスターの率直な質問に対して,どのような道筋を示せばよいのかと,言葉を選んでいるようだった。しかしその言葉を選んでいる時点で,現在のジーマスターには,先代の考えが筒抜けになってしまうとは,少しも考えてはいなかった。

 「父さん,下半身裸だったんだね。」

 「うん,そうだね。下半身裸だったね。」

 悟志の父は小柄で,元から童顔ではあるのだが,息子からしても『下半身裸』を告白する父の姿はとても可愛らしかった。

 「でもな悟志,父さんの時代には,AVも今みたいに種類が豊富じゃなかったし,でっかいビデオテープだったから,そんなに持ち運びもできなかったんだぞ。それにモザイクもキツくて,複写された裏モノのAVは画像も荒かったんだぞ。だから,基本雑誌,エロ本がジーマスターの武器だったんだ。だけどな,雑誌はどうしても飽きちゃうんだよなあ。だからさあ,勃起状態を維持するために,仕方なく,父さんはジーマスターのときには,刺激を与えやすいように常時下半身裸だったんだよね(笑)。」

 父親の,明け透けな青春ぶっちゃけトークを,出来れば耳にはしたくなかった悟志であった。

 「でもさ,一度中東で急な敵襲を受けたときはさ,織田さんと一緒に,車に飛び乗って逃げ出そうとしたんだよ。父さんは,下半身裸のままだったんだよ。そしたら織田さん,ギアと間違って,俺のペニスを握っちゃてさ。丁度サイズが一緒じゃん。『まさに,発車(発射)オーライだな。』ってね,あのときは二人で大爆笑だったよ(笑)。」

 『父よ,子として,あなたの話の何が面白いのかさっぱり分からないよ。』と,戸惑うばかりの悟志だった。

 「まあ,そういうことだ悟志,お前もジーマスターとしてこれから辛いことが沢山あると思う。あんまり役に立たないかもしれないけど,父さんの話を思い出して,信頼関係を大切にな。分かったかな。」

 『そういうこと』と言われても『どういうこと』なのかさっぱり分からないし,それに『あんまり役に立たない』じゃなくて,今の話を『どういう風に役に立てればいい』のかさっぱり分からない,それにそれに,突っ込み所が多すぎて,何をどう言えば良いのかさっぱり分からない,そんな風に,一層困惑してしまう悟志だった。

 「じゃあ悟志,また来るよ。」

 父は,悟志の肩に手を置いて温もりを伝えると,満足げな表情を浮かべ,そのままその場を後にしてしまっうのだった。

 そして,それと入れ替わるようにして,公式な相方である朝倉がづかづかとミーティングルームに入ってきた。

 「公私ともに充実している嫌な奴,朝倉です。」

 笑顔で,いきなりそのように申し述べる朝倉である。さすがは屁とも思わない男,鮮やかな先制パンチである。

 「今日もオヤジとの会話を盗聴していたんですね。」

 「前にも言ったじゃないですか,あなた方の会話は国家の機密事項だって。軍事機密ですよ,こちらには把握する義務があります。当然ですよ。それにお父さんもおっしゃってたじゃないですか,相棒との信頼関係が大事だって。斉藤さん,もっと私を信頼してくださいよ。」

 オヤジのペニスが車のギアと間違えられて握られた話が国家の機密事項であるならば,それは宇宙人に関するMJ12の調査報告書のように,永遠に国家の機密事項として闇に葬り去られて欲しいと,切に願う悟志だった。

 「それで次の任務についてですが…」

 朝倉は,机上に書類を慌ただしく並べ始めた。

 「斉藤さんは,ファイトクラブって御存知ですか?」

 「ファイトクラブ?ナイトクラブではなく?」

 「素ボケの割には面白くとも何ともないですね,ファイトクラブです。」

 相変わらず,クスリともしない朝倉である。

 「なんかの格闘技団体ですか?名前からして,何となく想像は出来ますけど,俺,あんまりそんなのに詳しくないんで。」

 「まあ,大体はそんなとことです。」

 そのように口にしながら,朝倉は広げた書類の中から一枚の写真を取りだした。そこには,見るからに喧嘩早そうな厳つい若い男性が写されていた。臨戦態勢のポーズを取っており,まるで,写真の向こう側から,こちら側を威嚇しているような眼差しである。

 「こういう男たちが,己の腕試しを,素手で行っている団体です。いわゆるストリートファイトのようなものです。何でもありの格闘技です。ただ,ストリートファイトとの違いは,地下で,つまりはアンダーグラウンドで,限定された観客のみに対して定期的に開催されており,多くの場合は,賭け事の対象となっている点です。つまりは,非合法組織です。八百長も当然行われています。そして今お見せした写真が,現在のファイトクラブにおける無敗のチャンピオン,覇天王,と名乗る者です。」

 「まあ,見るからに,そんな感じの方ですね。で,俺にどうしろって言うんですか?」

 そんな悟志の言葉を聞いた朝倉は,目を丸くして,しばし呆れるようにした。

 「何をしろって,斉藤さん,あなたは超人ジーマスターでしょ。戦わないでどうするんですか。」

 「嫌ですよ,俺,こんな奴。関わりたくないですよ。危ないじゃないですか。」

 悟志は,目の前に提示された覇天王の写真を,朝倉の方に押し返した。

 「斉藤さん,超人ジーマスターが危険を恐れてどうするんですか。超人なんだから,我々が行けないような危険に,自分から進んで突っ込んで行かなきゃ我々が困りますよ。」

 「あの朝倉さん,俺,思ったんですけど…」

 悟志は,父が残していった地方新聞を手にした。そして小さな記事を指さした。

 「ここに乗ってるじゃないですか,この前のことが。これって十分人の役に立ってますよね。俺は表舞台に立たなくて良いですから,せめてこんな風に,人の役に立つような仕事をしたいんですけど。なんでわざわざ自分から扇風機に手を突っ込まないといけないんですか?」

 「それはあなたが,扇風機に手を突っ込める資格を有する者,ジーマスターだからです。」

 咄嗟に,『嫌な資格だな,それ。』と感じてしまう悟志だった。

 「それにお言葉ですが斉藤さん,今回のファイトクラブだって十分に人の役に立つ仕事です。アンダーグラウンドで繰り返される不法な暴力行為と賭博行為を,超人ジーマスターが圧倒的な力をもって叩きつぶす。警察なんかが現場に踏み込んで制止するよりどれほど効果があることか。ジーマスターの活躍する姿を想像するだけでも,興奮しませんか。どうです?」

 「あの,斉藤さん,さっきも言ったとおり,俺はできるだけ,平和的に活動したいですし,ひっそりと活躍したいんです。この前言ってたじゃないですか,花見の場所取りだとか。花見の場所取りは,さすがにちょっとアレですが,なんかないんですかね。そういう危険でない,身近に役立つ任務とか。」

 「斉藤さん,だからと言って,ジーマスターが『蕎麦屋の出前』もないんじゃないですか。宝の持ち腐れですよ。第一,私が言いにくい。『ジーマスター!3丁目の毛利さんから至急の出前だ,ただちに出動せよ!』なんて。私はどんな立場の人なんですか。それに,3丁目の毛利さんの奥さんだって困りますよ。急ぎで出前を頼んでみたら,ジーマスターが,バイクも使わずに走ってきて『はあはあ』と息を荒げながら『奥さん,お待たせ。』なんてパンツ一丁の姿で口にした日には,もう立派な犯罪ですよ。しかも,3丁目の毛利さんが,3分で届けられない場所だったらどうするんです?あなたは,ただの役立たずじゃないですか。」

 悟志は確信した,この朝倉という男は,出来るだけじゃなく,想像力が非常に豊かな男であると。

 「いやでも,朝倉さん,何も蕎麦屋の出前じゃなくても,例えば,消防隊でレスキューに当たるとか,そんな任務もあるんじゃないですか。それなら,あなただって,面目も立つんじゃないんですか。俺だって人の役に立てますし。」

 「斉藤さん,いくら素早く動けるからって,あなたは人間ですよ。火災現場の酸素がない場所で活躍できるわけないじゃないですか。まさに,飛んで火にいる夏のジーマスターですよ。しっかりしてください。」

 悟志の面目を,ことごとく徹底的に潰す朝倉だった。

 「もう分かりましたよ,要するに,俺は朝倉さんに言われたとおりにすれば良いんですね。そのファイトクラブとやらに行って,その覇天王とやらを倒せば良いんですね。あの夜の事件の経験からすると,きっとジーマスターとなった俺なら問題ないんでしょうね。分かりましたよ。」

 「そう来なくっちゃ。それでは早速,私から今回の作戦を説明します。」

 悟志が承諾するや否や,正面に腰を下ろして,今回の任務内容を説明し出す朝倉だった。

 「そう言えば,斉藤さん,あなたのお父さんが我々にお土産を持ってきてくれましたよ,浜松名物,うなぎパイ。あなたの分もありますから,後から食べますか?」

 ジーマスターに夜のお菓子の差し入れかと,父の心遣いに感心する悟志だった。

 「そう言えば斉藤さん知ってます?うなぎパイって夜のお菓子って言われますけど,アレって精力が付くとかいうゲスな話じゃなくて,うなぎパイをお土産に買った出張帰りのお父さんが,夜に家族で食べるから,家族で夜に食べるお菓子って意味なんですよ。」

 悟志の心の内までも見透かしている朝倉だった。


 朝倉と悟志は,夜の繁華街の片隅に駐車されたワンボックスカーの中に身を隠していた。そして,悟志は,当然のようにして,カーナビの小さな画面で,朝倉が用意したAVを視聴していた。

 朝倉の検討した今回の作戦内容はおおよそ次のとおりである。まず朝倉が,単身ファイトクラブの会場に乗り込む,そして覇天王の対戦が始まる前に,いきなりリングに上がり込み,『お前が真の最強ならば,俺のファイターの挑戦を受けろ。』と煽る,頃合いを見計らい,連絡を受けた悟志がリングに上がり込む,そして覇天王とその対戦相手を圧倒的な力でなぎ倒す,そして周囲でも一暴れした上で,『二度とこんな事をするんじゃねえぞ。』と啖呵を切ってその場を去る。なんだろう,この分かりやすくて,躍動感のあるシナリオは。まるで,アメリカンヒーローのような物語じゃないか。

 しかしである,その計画を聞いた悟志には,2点ほど,どうしても拭いきれない不安があった。

 「あの朝倉さん,計画の内容は,非常に分かりやすくて単純なんですけど,それって3分こっきりで片付くようなものですかね?俺の考えでは,どう頑張っても,退場するまでに5分は掛かりそうな気がするんですけど。そうなると,途中で超人ジーマスターが,普通の俺になっちゃうわけですから,大変なことになっちゃうじゃないですか。最悪,その覇天王と戦っている最中に,俺のジーマスターの能力が切れちゃったらどうするんですか?それって,やばくないですか?」

 「安心してください,あなたの屍は,後日,私が責任を持って回収しますし,国が責任を持って埋葬します。」

 後日という所がミソである。朝倉は,危険になれば単身逃げ失せる気でいるのが明らかである。

 「はあっ,マジすか,それ?そんな危ないこと,俺にはできないですよっ。しかも,なんであなたは一人逃げ出す気でいるんですか。」

 「なに本気で慌ててんですか,あなたの3分は通常の人の5倍でしょう?つまりは,あなたには,体感15分の猶予があるんですよ。分かりますか。」

 「ああ,なるほど。それなら大丈夫そうですね。」

 あっさりと単純に,胸を撫で下ろす悟志であった。

 「でも朝倉さん,俺が上手いこと勃起状態を維持できなかったら,どうなるんですかね。途中で射精したり,まあ,中折れして元気がなくなってたりしたら。そうなると,タイムロスが生じますよね。」

 「そんなこと私は知りませんよ。斉藤さん,あなたがジーマスターとして,きっちり己を仕上げれば問題はないことです。」

 ツンデレという言葉があるが,朝倉はどうしていつもこうツンばかりなのかと不思議に思う悟志だった。

 「…まあ,それはそれとして分かりました。しかしですよ,朝倉さん,そんなヤバイ連中の中に素顔のままで殴り込んだら,後々ヤバイんじゃないんですか?俺ってそんな世界には全然詳しくないんですけど,ヤクザとか,その筋の人も居るんじゃないですか?後々大丈夫なんですか?心配なんですけど。」

 「大丈夫です。」

 朝倉は,悟志の不安をよそに,きっぱりと断言すると,助手席に置いたビジネスバッグに手を伸ばした。そしてその中から,黒いサングラスといかにも軍人らしい大きな帽子を取りだした。

 「これを付ければ大丈夫。斉藤さん,私がなんだか怪しいプロモーターのように見えませんかね?」

 「ええ,いかにも,そうですねえ…。」

 斉藤には,黒いサングラスがよく似合う。いかにも,悪巧みをしていそうな怪しい感じの男である。しかしこの変装,確か歴史の教科書でもみたような気がする,そうだ,パイプを銜えれば,若き日のマッカーサー元帥に瓜二つなのだ。さすが朝倉,変装しても大物だ。

 「朝倉さんはサングラスで良いとしても,リングに上がることになる俺は,どうすればいいんですか?サングラスは,危険ですよね?」

 「ああ,それなら…」

 朝倉は,またもや傍らにあるビジネスバッグに手を伸ばしたのであるが,それがいつぞやのドラ○もんの姿によく似ていた。その時点で,悟志には嫌な予感しかしなかった。

 「これなんかどうです?」

 あれだ,いつぞやの紐パンティだ。

 「で,それをどうしろと?」

 「あれ?この前も言いませんでしたっけ。あなたがこれを頭に被るんですよ。私,まだ彼女に返してなかったんですけど,丁度よかったですよ。」

 「で,そうすることで,周囲の者が思わずジーマスターから視線を反らす,それで万事オッケーと?」

 「そうです。ちゃんと覚えているじゃないですか,斉藤さん。」

 二人は,互いの顔を見て,しばし笑い出すのだった。

 「俺,やっぱりこんな任務やってられません。もう帰ります。」

 「まあまあ斉藤さん,あなたの緊張を解すためのジョークですよ。いつものお約束ですよ。」

 車から降りようとする悟志の二の腕を,あやすかのようにして両手で掴む朝倉だった。

 「実は,この前のほかのグッズも鞄に入れたままなんですよ。ほら。」

 朝倉は,ビジネスバッグから,例のホッケーマスクを追加で取りだした。

 「これなら大丈夫でしょ。」

 「あなたは,ビジネスバッグに,いつも嫌らしい下着だとか,変なマスクだとかを入れているんですか?おかしいんじゃないんですか?」

 「この前のままですよ,忙しくて。でも,これなら大丈夫でしょ?このマスクを被って颯爽と登場すれば,それで問題はないでしょ?」

 「まあ,それならば,まあ,良いでしょう…」

 渋々と了承してしまう悟志であった。

 「ああそれから斉藤さん,再度の確認ですが,今回あなたがリングに上がり込んで叩きのめす相手は,覇天王とその対戦相手であるクレイジードッグと言われる挑戦者です。」

 「二人とも戦うんですか?覇天王一人で十分じゃないですか?その方がさっさと片づけられますよ。」

 「考えてもみてください斉藤さん。どうせ八百長も仕組まれてもいましょうから,今日も勝ち残るのは覇天王でしょう。でも,戦った後の傷ついた覇天王と戦って勝ったところで,どうなります?意味がありませんよね?覇天王が万全の状態,クレイジードッグと戦う前に叩きのめすから,意味があるんですよ。違います?」

 「それだったら,戦う前の覇天王一人だけと戦えば良いんじゃないですか?その方が,より分かりやすいですよ。」

 「それだと私が言いにくいんですよ。『ちょっと待て!俺のファイターが最強であることは,その対戦相手,クレイジードッグを秒殺して証明してやるよ。』なんて,上手い煽り文句だとは思いませんか。」

 なんのことはない,いつものとおり朝倉様の御都合主義である。

 「まあ,クレイジードッグは,力任せのマッチョマン,覇天王は希代のスピードスター,いずれも薬物とかの類をバンバンやってるでしょうから,通常の人間よりは手強いと思われますが,事前の打ち合わせでお伝えしたとおり,いずれも超人ジーマスターの敵ではありません。十分に手加減をしていただくよう御配慮をお願いします。本気でやって,また大惨事になったら,私どもの後始末が大変ですから。」

 そう言って,意味なく,右手をニギニギしながら,車内を後にする朝倉だった。

その後,悟志は,朝倉与えられた小さな無線機(イヤホン)を耳に忍ばせて,朝倉から時折与えられる指示に耳を傾けながらAVを鑑賞していた。慣れというものは怖いもので,前回の山間部での任務に比べ条件が悪い(騒がしい)にも関わらず,悟志は順調に己を高ぶらせ,その時を待つことができていた。

 「斉藤さん,そろそろ始まりますよ,準備はいいですか。」

 雑然とした騒音の中に響く朝倉の声が,イヤホン越しに聞こえてきた。

 「えっ,もうですか。」

 「そうですよ。大丈夫ですか。」

 「えっ,まあ,大丈夫です。」

 「それじゃ,私は今から,リングに上がり込みますから。」

 「あの,ちょっと待ってください!」

 無線を切られそうに感じた悟志は,咄嗟に朝倉に声を掛けて,会話を続けさせた。

 「何ですか,もしかして,高ぶってないんですか。」

 「いや,そんなことはないです。俺なら,大丈夫です。」

 「じゃあ行きますよ。こういうのはタイミングが大事なんですから。」

 「あの朝倉さんっ!」

 「なんですか。」

 「俺のリングネームってなんですか?本名はやめてくだいさいよ。」

 「そんなもん,ジーマスターに決まってるでしょう。」

 「ジーマスターですか。」

 「そりゃそうでしょ,他に何があるんですか。」

 「分かりました,それで良いです。」

 「じゃあ,行きますから。」

 当然とばかりに言い放つと,一方的に無線を切ってしまう朝倉だった。

 それから間もなくして,トランクスを履いてマスクも被ってスタンバイ十分の悟志の耳に,例の指示が鳴り響いた。

 「出動だ!ジーマスター!」

 「了解っ!」

 悟志は勢いよく飛び出すと,ファイトクラブが開催されていると目されるスタジオの入り口に急いだ。営業していないかのように薄暗いその入り口には,柄の悪そうな男が,柄の悪い服装で一人立っており,パンツ一丁でホッケーマスク姿の男が猛烈な勢いで突進してくる様子を怪訝そうに伺っていた。通常であれば,呼び止められ,腕を捕まれ,スタジオ内には入れないところであるが,そこは超人ジーマスター,ガードマン風の男が反応できない程の素早い身のこなしで,男の手をあっさりとすり抜けてしまった。そして,あっという間に,スタジオ内に進入してしまうのだった。

 「殺せ!」

 「やっちまえ!」

  スタジオ内は,多くのヤバそうな男たちの殺気と熱気でむせかえっていた。悟志がスタジオ内を見渡したところ,リングだとかステージだとか,覇天王が戦うようなステージは存在しなかったが,多くの人混みの中に,手を伸ばし「ここだ!ジーマスター!」と叫ぶ声がした。悟志が人混みを軽くかき分け,その場に辿り着くと,そこには人垣に囲まれただけの直径6~7メートルほどの丸いリングが存在した。

 「待ってたぞジーマスター!」

 殺気だった厳つい二人の男,覇天王とクレイジードッグの挟まれても,堂々と振る舞う男,朝倉の姿がそこにはあった。

 「こいつがジーマスターだ!まずは挨拶代わりに,クレイジードッグを血祭りに上げてやるぜ!行けっ!ジーマスター!」

 朝倉は,サングラス越しに悟志を見やると,まるで犬に指示するがのごとく指先で悟志に攻撃を指示してきた。段取りもへったくれもない,ほとんどが朝倉のアドリブ,スタンドプレーである。

 クレイジードッグは,大柄な上に,ムキムキのマッチョマンである。普通の会社員時代の悟志であれば,目を背け,なるべく目を合わせないようにするタイプの人間である,それだけに,悟志は勇気を振り絞るようにして腹から声を出して突進した。

 「うおぉぉぉぉっ!」

 クレイジードッグは,ジーマスターの余りの勢いに,反射的に素早く両腕を上げてガードを固めた。そしてジーマスターは,そのガードした腕を,優しく,子どもがじゃれるかのようにして,右手で軽く叩くのだった。

 『ポキポキ』

 二本の腕が,並んで仲良く折れる感触が,ジーマスターの腕に直接伝わってきた。

 「あぁーーーーーーーっ!」

 先ほどまでの殺気が嘘のように雲散霧消してしまったクレイジードッグは,苦痛に顔を歪めると,悲鳴を上げて,そのままその場に膝から倒れ込んでしまった。

 「ごめんなさい!」

 思わずクレイジードッグに謝罪するジーマスターだったが,ボルテージが一層に高ぶってしまった男たちの野太い声で,そんな言葉は一切かき消されてしまっていた。

 「次だジーマスター,さっさと叩き潰せっ!」

 朝倉は,さっきとは逆の手を突き出すと,その指先に覇天王を捕らえた。そしてジーマスターに,すぐさま戦うよう指示をしていた。もはやノリノリである。

 覇天王は,背が高く筋肉質であるものの,細身である。心に余裕をやや持てたジーマスターは,クレイジードッグのときと同じようにして,勇猛果敢に突進した。圧倒的なスピードである。しかしながら,覇天王は,その様子をじっくりと観察しているかのようにして,特にガードを固めることもなく,鋭い眼光でジーマスターの動きを凝視したままだった。ジーマスターは,先ほどと同じようにして,右の拳をそれらしく大きく胸まで引いた。そして,先ほどよりもより繊細に,覇天王の左顎付近を,優しく撫でるようにして叩こうとした,ところ,

 『パシッ。』

 ジーマスターの右の拳が,覇天王の左手で受け止められていた。

 「えっ?」

 ジーマスターは,その右手を素早く元に戻すと,矢継ぎ早に,左の拳で覇天王の顔面の左半分を優しく殴ろうとした。

 『パシッ。』

 同じく,その左の拳も,覇天王の右手で受け止められていた。

 『パシッ,パシ,パシッ…。』

 ジーマスターは,それから拳のスピードをやや速め,覇天王を殴ろうと努めた。しかしながら,ことごとくその拳は,覇天王の掌中に収まってしまうのだった。この時になって,初めてジーマスターは気が付いた,己がジーマスターではなく,ただの斉藤悟志となっている可能性に。

 「あわわわわ…」

 そう思うと,狂犬のような目をした覇天王の鋭い眼差しが,突然恐怖の対象となり,悟志の身体を突き刺すように感じられてきた。そうなると,身体全体が萎縮してしまい,攻撃の手を休めてしまうのだった。

 次の瞬間,覇天王が,ゆっくりとその右の拳を悟志に打ち下ろしてきた。

 「うわっ!」

 覇天王が手心を加えてくれたのか,その拳がゆっくりであったため,悟志は,その攻撃をバックステップで軽く交わすことができた。しかしながら,覇天王は,すぐさまに,二の矢となる左ボディーブローのような攻撃をほどほどの早さで繰り出してきた。ゆっくりではあったものの,胴体への攻撃を想定していなかった悟志は,その攻撃に対して体勢を崩してしまった。そしてその次の瞬間,覇天王が繰り出した次の攻撃,左肩付近への右パンチが悟志を直撃していた。

 「痛っ!」

 覇天王も加減して殴っていることから,そんなに衝撃もないはずなのに,悟志はその打撃に痛みを感じてしまった。そして身体が,一層のこと萎縮してしまった。いわゆる,膠着状態のようになってしまった。

 「オラッ,オラッ!」

 覇天王は,身を屈めてしまった悟志に,次から次にと攻撃を加えた。右と左の拳,そして時折蹴りも交えながら。その圧力に屈してしまう悟志は,

徐々にリングサイドに押しやられた。そして人垣のリングサイドまで追いつめられられると,人垣から戦うように,リング中央部に押し出され,また覇天王の攻撃に晒されるのだった。もうこうなると,袋叩きの状態である。

 「オラッ,オラッ,オラッ!!」

 覇天王は,そんな悟志に対して,攻撃の手を一切緩めることなく,次から次にへと攻撃を加えていた。ジーマスターの効力がますます薄れているのか,徐々にその攻撃は熱を帯び,速度を上げて行くように伺えるのだが,不思議なことに,未だに子ども喧嘩程度のスピードしかなく,悟志に致命的なダメージを与えきれずにいた。

 「距離を取れっ,一旦離れるんだジーマスター!」

 そんなピンチに,朝倉の野太い声が悟志の耳に届いた。

 悟志は,攻撃の間隙をぬって,覇天王から急ぎ足で距離を取ろうとした。『どうせすぐに逃げ場を塞がれる。』と,勝手に決めつけていた悟志ではあったが,思いのほか簡単に,覇天王はその退避を許してくれた。

 「朝倉さん,もうダメですっ!ジーマスターが切れちゃいました,じり貧です!どうしましょう,助けてください!!」

 悟志は,朝倉に助けを求めた。ジーマスターの能力はほぼ時間切れ。目の前には狂犬のような男,周囲には血気盛んな男ばかり,逃げ道のない絶体絶命的な状況である。

 「落ち着けジーマスター!お前が遅いんじゃない,覇天王が異常に早いだけだ!お前の真の力を出せば大丈夫だ!自信を取り戻せっ!!」

 「覇天王がジーマスターなみに早いなら,俺,勝てませんよ!」

 「大丈夫だ!お前なら勝てる!軍での訓練と恥辱の日々を思い出せ!自分の力で道を切り開くんだ!お前にならできる,行けっ!ジーマスターっ!!」

 悟志は,振り返ると,ゆっくりと間合いを詰めてくる覇天王を正面に見据えた。そして,深呼吸を一回挟んでから,全身の力を右の拳に溜め込んで,そのまま覇天王に突進を始めた。

 悟志,いや,ジーマスターは,右の拳で,下から覇天王の腹部付近を目掛けて,あらん限りの力を込めて打撃を加えた。

 「うぁたあっ!!」

 ジーマスターの拳が腹部に届いた瞬間,覇天王は,少しだけ微笑んだ。そしてその次の瞬間,その打撃点を中心にして,覇天王は大きく体を『くの字』に折り曲げると,空中2メートルほどに高く,ゆっくりと舞い上がった。

 「見たかぁっ!!」

 静まりかえったスタジオに,そんな朝倉の絶叫が木霊した。そしてその次の瞬間,覇天王はゆっくりと背中から堅い床面に墜落し,大きな鈍い音を周囲に響かせた。地に落ちた覇天王からは,立ち上がれそうな気配は一切として見られなかった。

 「どうだっ!見たかっ!これがジーマスターの実力だっ!!」

 朝倉は,リングの中央で,勝者のようにして両手を突き上げ,そのように絶叫した。リングサイドの男たちも,その絶叫に呼応するようにして,一斉に雄叫びを上げ始めた。 

 「ジーマスター!ジーマスター!」

 いつしか,雄叫びは,勝者であるジーマスターを称える『ジーマスターコール』となっていた。しかし,一方の悟志は,ただ呆然としていた。

 「行くぞ!ジーマスター!」

 「えっ,行くって,何処にですか。」

 「帰るに決まっているだろっ!こんな場所に長居は不要だ!」

 「えっ,でも覇天王は,ほっといて大丈夫ですか。」

 「ほっとけ,どうせ元から喧嘩上等のならず者だ。どうにかするさ。帰るぞ!」

 「あっ,はい。」

 鳴りやまないジーマスターコールの中,急ぎ足でスタジオを後にする悟志と朝倉の二人だった。

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