最終話 新月にレクイエムを
「……ハッ……」
「……」
――空には雲一つなく、清々しく晴れている。漆黒に染め上げられた空に、月はない。街灯すらもない路上で、私たちは向き合った。刃の長いナイフを携え、黒江ツバサは問う。
「……何のつもりだァ? わざわざこんな路上まで連れ出すたァ……罠か何か仕掛けてるんじゃねェだろうなァ?」
「それは無理だな。私もついさっきまで拘束されていたんだ。罠を仕掛ける暇はない」
「……言われてみれば、それもそうか」
ハッと笑い、彼は少し離れたところに立っている菜摘乃を一瞥した。
「で……2対1かァ?」
「いや。菜摘乃は単なる見届け人。……私がお前を殺したと、証明できる人間が要るだろう?」
「成程なァ……つまり俺がお前を殺せれば、そいつは俺の証人になるってわけだ」
菜摘乃は電柱にもたれ、ただ私たちを見守っている。元々彼が持っていた武器は、私と黒江ツバサに渡すためのもの。彼自身はあえて武装せず、ただ成り行きを見守ることに徹している。私はそんな彼から視線を外し、黒江ツバサを正面から見据えた。腰のホルダーからナイフを抜き、彼に向ける。
「……御託はいい。始めないか?」
「おう、望むところだ――ぜッ!!」
言い終わらないうちに、彼は地を蹴った。長いナイフが振り上げられる。私は冷静にナイフを構え、投擲した。そのままもう片方の手でナイフを抜き、黒江ツバサの刃を受け止める。弾き、後退し、拳銃を抜いた。一発、二発、銃声を轟かせる。黒江ツバサは軽やかなステップでそれを回避し、再び接近する。ナイフの一撃を軽く身を捻って回避し、カウンターの拳を叩きこむ。
「げほっ……!?」
咳き込みながらも踏みとどまり、彼はナイフを構え直す。私の銃撃にも怯まず踏み込み、最低限の動作でナイフを突き出した。心臓を狙った一撃をバックステップで回避し、背後に回ると、その背中を十字に切り裂いた。
「ぐっ……!」
「いい加減に諦めないか?」
思わず膝を突く黒江ツバサに、静かに問いかける。しかし彼は褪せた銀髪を振り乱し、荒々しく声を上げた。カラコンが外れた緑色の瞳が、私を睨む。
「諦めてたまるかよ……俺は零闇様になりたい。その願いだけが俺の原動力だ! 零闇様は俺に希望をくれた。すべてを諦めていた俺を、導いてくれた! そんなあの人に報いる手段なんて、ひとつしかねェんだよ!!」
「……はっ。笑わせてくれる」
瞳をすっと細める。拳銃を持った腕を伸ばし、肩口を撃ち抜く。荒い息を吐きながらも私を睨む彼に、言い放った。
「だからといって、罪は消えない。自分のために師匠を殺した、罪は消えない」
「……お前、どうしてそれをッ!」
深い緑色の瞳が、見開かれる。その顔がさっと青ざめ、彼は歯を食いしばった。反対側の肩口を撃ち抜き、さらに続ける。
「隣の牢獄だったからな、すべて聞こえていた。……だが、私がお前を殺すのは、復讐のためじゃない」
「じゃあ、なんでッ! 俺は許せなかった。俺よりもお前を選んだ零闇様が、そしてあのお方に選ばれたお前がッ! 許せないなら殺すだろ、なァ、暗殺者ならそうだろッ!? なんでお前はそんなに平然としてられるんだよ、大事な師匠を、憧れの人を、殺されたっていうのにッ!!」
「……」
私はそっと拳銃を下ろした。彼の言葉は決して間違っていない。嵐の夜のように荒れ狂う彼の声に、私は逆に凪いだ海のように語りかける。
「……怒っていないといえば、嘘になる。お前のことは憎いし、許せない。だが、それとこれとは別だ」
「はぁッ?」
「暗殺者はあくまで仕事として殺しを行うものだ。自分のために殺しを行う者は、最早暗殺者ではない。……それが、師匠の教えだったはずだが?」
「……ッ!」
小首を傾げて言い放つと、黒江ツバサは弾かれたように顔を上げた。極限まで見開かれた瞳が、一瞬強く輝く。それは優しい親に殴られた子供のようで。その目の端に水晶のような輝きが生まれ、彼はバッと俯いた。ひどく歪んだ、ノイズのような声が夜の路上に響く。
「……じゃあ、どうすればよかったんだよ……ッ」
彼はゆらりと、幽鬼のように立ち上がった。腰のホルダーから拳銃を抜き、子供が泣き叫ぶように乱射する。褪せた銀髪を振り乱しながら、彼はどこか縋るように引き金を連打した。
「どォすればいいんだよ、この感情、この苦しみ……この嫉妬ッ! 憧れの人を自分のものにしたいだなんて、誰でも考えることだろォ!? なのに、なのに……俺は選ばれなかったッ! だったらよォ、殺すしかないだろォ……!? 殺すしかなかったんだよッ! それしかなかったんだよ、俺にはァ!!」
蜘蛛の糸に縋るように、彼は引き金を連打する。私はあえて避けようとせず、両手に持ったナイフでひたすらに銃弾を弾く。その語尾が耐えきれずに震え、顔を上げると――彼は子供のように、ボロボロと涙を流していた。まるで、愛していた親を殺してしまった中学生のように。醜く、それでも透明な涙に目を奪われた、刹那――腹に殴られるような衝撃が走った。数歩後ろによろけ、踏みとどまる。荒い息を吐き、黒江ツバサを睨む。彼は親を失った子供のように泣き喚きながら、ナイフを握り直した。どこか覚束ない足取りで私に歩み寄り、脳天を割ろうと刃を振り上げる。
「なァ、俺はどうすればよかったんだッ!? どうすれば、どうすれば、この苦しさを手放せるっていうんだよッ!? 答えろよ、長谷川優梨ィ――……ッ」
――私は腕を伸ばし、黒江ツバサの腕を掴む。ナイフを持った刃を頭上で固定され、その腕がビクンッと震える。私は彼の瞳をただ見上げ、語りかけた。秋雨のように、凪いだ海のように。
「……なりたいものは、ちゃんと見ろ」
「……は、ぁ?」
「師匠が人を殺すのは、すべて任務のためだっただろう? 決して、自分のために人を殺すことはなかった。何より彼は感情に左右されることは、決してなかった……なぁ、黒江ツバサ。あの人に憧れたのなら、そうなりたいと思ったのなら……どうして、内面を見ようとしなかったんだ?」
「……ッ、うッ」
私の頬に、大粒の涙が落ちる。黒江ツバサはただ、ただ涙を流していた。そもそもが間違っていたのだ。彼も、私も。『そうなりたい』と願ったのなら……暗殺の腕と同時に、内面も彼に近づけるべきだったのに。黒江ツバサの手からナイフが落ち、派手な音を立てて転がった。彼の膝から不意に力が抜け、力なく
「……師匠」
黒江ツバサを見下ろしながら、密やかに呟く。彼は、私のもう一つの可能性。もしかすると、私もこうなっていたかもしれない。師匠が私ではなく、彼を――雫石修太を選んでいれば、私も黒江ツバサになっていたかもしれない。
憧れを抱くことは、それ自体は罪ではない。
ただ、その方向性を間違えては、ならないのだ。
◇
……どのくらい、そうしていただろうか。
「……なァ、長谷川優梨」
「……なんだ?」
泣き腫らした瞳が私を見上げる。その身体はもう傷だらけで、頬には涙の跡がいくつもついていて。彼は死刑囚の溜め息のように、言葉を吐き出した。
「……俺を、殺してはくんねェか?」
その声は死の天使に縋るようで、その瞳は極刑を言い渡された罪人のようで。私は腰のホルダーからナイフを抜き……口を開く。しかし喉から滑り落ちたのは、言うべきではない言葉で。
「……いいのか?」
「あァ……俺は間違えすぎた。もう、戻れねェんだよ……今更、どうしろってンだよ。もう……生きていく、気力がねェ」
「……」
黒江ツバサは私の手をそっと取り、刃を自分の胸に向けた。その手は哀れなほど震えていて、まるで恋人に殺されようとする少女のようで。しかし……その表情に視線を合わせ……私は思わず、息を呑んだ。
――彼は、確かに、笑っていた。
まるで、神のために生贄になろうとする、聡い娘のように。
「……黒江ツバサ……お前ッ」
「いいんだ。暗殺者なら、情けはかけないでくれ。……それが、あのお方の、教えなんだから……」
その頬にはまだ涙の跡がある。彼にどんな心の変化があったのか、私にはわからない。けれど……静かに、覚悟を決めているようで。まるで、短剣を胸に突き立てるジュリエットのように。
「……どうせ死ぬなら、あのお方が認めた、お前に殺されたい。俺の最後の願い、叶えてくれるか……?」
「……ああ」
私は息を吸い、吐き、真冬のような冷気を全身に染み渡らせる。これが生まれ変わった私の、最初の任務。ならば、誠意をもって果たさなければならないだろう。その相手が、誰だったとしても。
震える手に握られたその手を、強く押し込んだ。刃は正確に彼の心臓を抉り、どくどくと鮮血が流れ出す。私の手を握っていた両手が、だらりと落ちた。ひどく穏やかな笑顔から血の気が抜けていく。雲の上に眠るように、仰向けに倒れる彼の胸から、ナイフが抜けた。その血を黙って受けながら、私は呟く。
「……どうか、安らかに」
血が噴き出す音を伴奏に、私は静かに口を開く。レクイエムの最初の音を、丁寧に唇に乗せた。
「……すべて終わったんですね」
菜摘乃がぽつりと呟く。その声はどこか祈りを捧げるようで。そういえば最初は、師匠の名を騙る者を排除する戦いだった。目的は果たせたといえるだろうが……この戦いは、私にとってはそれ以上に意味があるもので。
――私はこれからは……これからも、師匠のために生きるさ。
そんな決意を込めたレクイエムは、ビルの隙間を縫って、新月の空へと広がっていった。
新月にレクイエムを 東美桜 @Aspel-Girl
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