第17話 憧れ
「がはっ……!」
醜い声を上げ、菜摘乃花の全身が弛緩する。彼女だった亡骸の胸から刀を引き抜くと、朝焼けのような紅の血潮が噴き出した。ドサリ……と静かな音を立て、亡骸は天井を仰いで倒れる。俺はそれから視線を外し、胡桃に、愛しい義妹に一歩近づいた。呼応するように後ずさる彼女の瞳は、下水道に落ちた豚でも見るように冷たい。だが、それでこそ――俺が育てた至高の暗殺者だ。手放すわけにはいかない。
「……胡桃、本当に陽の当たる世界に行きたいのか?」
液体窒素を押し付けるように問うと、胡桃は何の気無しに頷く。まるで自分の名前を問われた時のように。恐らく彼女にとって、その望みは絶対なのだろう。彼女は普通の子供が夢を告白するように、口を開いた。
「胡桃はね。ずっと、外に出たいって思ってた。陽の当たる世界に行きたいって思ってた。冬真にーさまが願いを叶えて自殺するつもりなら、胡桃は『プレアデス』なんてぶち壊して、自由になりたいって思ってる。……おうちに帰りたいって、普通だった父さまと母さまがいる、普通のおうちに帰りたいって! 冬真にーさまに押し付けられたものじゃない、胡桃自身の夢を見つけたいって、そう思ってる!」
不意に彼女の瞳が、心臓のように激しく波打った。赤くて赤い激流のような光が瞳の中によぎる。俺の腹の奥で粘性を持った黒い液体がふつふつと沸く。それを自覚しながら、
「冬真にーさまは自分の願いのために、胡桃を利用するの。そして子供は大人の真似をして育つものだよ。胡桃にだって、叶えたいことがあるんだもの! 外の世界への憧れがあるんだもの! だから、胡桃は冬真にーさまを利用する。にーさまを殺して、『プレアデス』を壊して、胡桃の夢を掴むの!」
「……チッ」
思わず舌打ちが漏れた。お前もか、お前もか。黒い液体はマグマと化し、俺の喉から溢れんばかりに。その衝動を無理やり飲み下しながら、彼女の瞳を真っ直ぐに見据える。
「……憧れを抱くなと、あれほど言っただろう」
憧れは人を滅ぼすだけだ。憧れのせいで。零闇は命を落とし、修太はツバサになり、長谷川優梨は『特課』の信用を失い、その後輩は殺された。あれほど教え込んだはずなのに、まだ、まだ足りないというのか。
「何故――そんなものを抱くッ」
「にーさまが言っても、説得力ないよ。昔の
不意に胡桃の手が動いた。銀光が
「二刀流なんて……誰に教わったんだ?」
「ワカメ2号。あっちはトンファーだったけど。学習した」
「……流石は、至高の暗殺者だな。全く違う種別の武器から、ほぼ自己流でここまで――」
「やめてッ!」
不意にその声は、琴の弦を切ったような悲痛さを帯びた。彼女は次から次へと斬撃を放つ。その斬撃が徐々に荒っぽくなっていくのを観察しつつ、俺は回避に専念する。
「胡桃は、胡桃は、暗殺なんてしたくない! 陽の当たる世界で、笑い合いたい! それだけが、胡桃の願い! 胡桃の憧れ! にーさまの憧れは叶って、胡桃の憧れは叶わないなんて……そんなの、不公平!」
――ザクッ
遂に斬撃の一つが、俺の肩口を引き裂いた。じわじわと思考が痛みに冒され、白い羽織が汚い紅色に染まっていく。唇を噛み、正気を保つ。傷つけるわけにはいかない。俺は肩を押さえつつ、胡桃に一歩近づく。震える手を伸ばし、長いナイフを奪おうとして……肘より先を斬り落とされる。さらなる痛みが脳を侵食する中、俺はそれでも、と語りかける。
「胡桃……どうして、憧れなんて抱いたんだ? 憧れは人を滅ぼすだけだと、何度も言っただろう? これ以上誰も狂わないために、お前は必要なんだ。なのに……」
「にーさまも、肖像に憧れてたくせにッ」
「だからこそ……終わらせる必要があったんだッ! 何も失いたくない、何も傷つけたくない。その一点だけは、俺とお前は……はぁッ、同じだろう?」
気付くと俺の声は懇願するような響きを帯びていた。視界が徐々に滲み出す。それは痛みのせいなのか、それとも違う意味があるのか。わかりたくもないけれど、俺は偶像に縋るように言葉を紡ぐ。
「なぁ……どうか、協力してはくれないか? 憧れを、終わらせるために……憧れのせいで狂う者を、これ以上出さないために……ッ」
――あまりの痛みに膝を突く。荒い息を吐きながら、胡桃の瞳を見上げた。その瞳は相変わらず、下水道に落ちた豚を見るように冷たくて。あまりの痛みに動けない俺に、胡桃はナイフを持ち上げた。毒蛇が巻き付くように、首筋に冷たい刃が当てられる。
「やだ」
短いひとことと同時、首を中心に爆発するような痛覚信号が走った。高圧電流のように全身を焼き尽くす勢いのそれに、意識が閃光のように炸裂して――……
最後に胡桃の表情が視界に映り、黒く塗り潰される。
その表情はどこか沈痛で、神に罪を懺悔しているようだった。
◇
「……向こうは片付いたみたいですね。さぁ、黒江ツバサのもとに」
「ああ」
菜摘乃の言葉に、私は牢獄から一歩踏み出す……と、視界に映ったのは紅白に彩られたヒトガタだった。長い髪、白い羽織、高い身長……見覚えがある。しかし、彼がやられるとは到底思えなくて。さらに、その隣に立っている赤いロリータの幼女。まさか、彼女が?
「……お嬢。本当にやったんですね……」
隣に立った菜摘乃が、ひどく乾いた声で呟く。紅く染まった長いナイフを携え、幼女は私たちを振り返った。
「……ワカメ、血糊。冬真にーさまは、殺したよ」
その声は、何故か酷く震えていて。まるで、はずみで親を殺してしまった子供のように。どこか泣きそうな眼をした彼女は、両手に持ったナイフを投げ捨てた。その表情がぐにゃりと歪む――ひどく純粋な、朝日のような、笑みの形に。
「……?」
「胡桃はね、胡桃はね、自由になったの。もう、人なんて殺さなくていいの」
「お嬢……」
「だからね、だからね、血糊」
幼女は兎のように跳ね回り、私の前で止まる。普通の子供のような笑顔を浮かべ、口を開く。
「――あなたも、憧れ、叶えていいんだよ。憧れること自体は、罪じゃないから」
その表情は、雨上がりの虹のように晴れやかで、愛らしく。普通の子供らしい無邪気な言葉が、私の胸にすとん、と落ちる。私はそっと視線を落とし、星のように輝く彼女の瞳をじっと見下ろした。
「……分かっている。ありがとう」
「うふふ、どういたしまして」
そう言って彼女は振り返り、歩いていく。その先にあるのは、地上への階段。赤いロリータ姿が一歩一歩、ひなたの世界に近づいていく。だけど……夜は、まだ明けない。私は隣の菜摘乃に向け、口を開く。
「――黒江ツバサを連れ出そう。外へ。そして、彼を正々堂々、殺す」
「――了解。俺はどこまでも、アンタについていきますよ」
陽気に笑う菜摘乃に一つ頷き、私たちは第4牢獄に歩み寄る。――姑息な手を使うことは、きっと師匠も望んでいないだろうから。
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