第14話 黒江ツバサ
……思い出すのは、モノトーンの世界。
昼のはずなのに、部屋はひどく暗い。ボロアパートの壁は薄く、隣の部屋のテレビの音が無遠慮に響く。飢えと渇きが思考を縛り付け、俺はふらりと立ち上がった。強い異臭が鼻を突く。自分の匂いだとはわかっているけれど、水道はとっくに止められている。週に数度、公園のトイレで身体を拭くのが精一杯だ。……いや、今はそんなことはどうでもいい。食べるものを確保しなければ。震える脚で歩き出し、玄関に向かう――と、金属が軋むような音。見上げると、濃い緑色の髪の女が立っていた。その目元には深いクマが刻まれ、全身は不健康に細い。全身から酒と煙草の香りを漂わせながら、女はハイヒールを脱ぐ。
「……ババア」
「……」
余韻を残し、旋律が途切れる。不意にずいっと俺に顔を近づけ、彼は小さく首を傾げた。心臓が絶え間なく飛び跳ねる中、彼の甘い声が心臓を穿つ。
『……アレ。お前の親か?』
『……』
肯定の意味を込め、頷く。赤い瞳の男はしばらく
『……ネグレクトか。子供ほっといて男遊びのホステスたぁ……この世の屑だな。ヤクの密売に関わっていなけりゃ、殺されることもなかったものをよォ……』
そして彼はふと俺の方に手を伸ばした。……不思議と恐怖はなくて。骨ばった手がそっと頭に触れ、わしゃわしゃと撫でられる。息ができない、心臓の鼓動が痛い。甘く溶けるような感覚の中――……彼の言葉が、天啓のように響いた。
『――来いよ。俺たちの、暗殺者の世界に』
その声が、その笑顔が、俺を導く。
――彼のようになりたいと、初めて俺は、夢を、憧れを持った。
◇
思考が徐々に浮上する。甘い微睡みから追い出され、俺は数度瞬きをした。……最近、いつも同じ夢を見る。零闇様と出会った時の夢だ。あの時俺は、確かにその背に黒い翼を見た。その銀髪、紅い瞳、あの人の声、狂気じみた笑顔……そのすべてが俺を惹きつけて、離さない。零闇様、零闇様、零闇様。俺の血液の細胞の全てが、あの人になりたいと渇望している。
……だからこそ、許せなかったんだ。
握りしめた拳に、長い爪が食い込む。
血痕を塗り重ねたような赤い髪。細い体。零闇様の視線の先には、いつだってあいつがいた。長谷川優梨。あいつは零闇様の視線を俺から奪って、俺がいるべき場所に当然のように居座って。思い出すだけで内臓が裏返るようだ。血反吐を吐くように荒い呼吸を繰り返し、緑色の瞳で虚空を睨む。
許せなかった。……俺よりも長谷川優梨を選んだ、零闇様が。俺だけを見ていてほしかった。誰よりも零闇様に憧れ、恋い焦がれ、零闇様を敬愛していた俺だけを。なのに……と、爪が皮膚を裂く。なのに、零闇様は長谷川優梨を選んだ。俺は聞いてた。零闇様が、後継者に長谷川優梨を選ぶところを。あの時、俺は、雫石修太は思ったのだ。
――零闇様を、殺そうと。殺して、自分のものにしようと。
任務が終わるや否や、零闇様に毒針を撃ち込んだ。
駆け付けた冬真に、重傷を負わせた。
黒江ツバサと名を変え、『ヒュアデス』を立ち上げ、長谷川優梨を殺す土壌を整えて。……そんな矢先に、これだ。手を動かすと、鎖が擦れて鋭い痛みが走る。
……それでも、俺は負けねェ。零闇様になるのは、俺一人で十分なのだから……。
◇
「……暇」
ナイフを弄びながら、ぽつりと呟く。今日は冬真にーさまは単独任務。胡桃はお留守番。だけど、暇でしかない。仕方がないから投げナイフの練習をしていると……不意に練習場のドアが開いた。振り向くと、セーラー服の襟が揺れる。派手なウェーブヘアをハーフアップにした少女が腕を組んで立っていた。
「……ワカメ2号」
「うっ……あ、相変わらず辛辣っスねぇ、お嬢様。アタシは菜摘乃花っスよォ、覚えてくださいっス」
「何しに来たの、ワカメ2号」
名前なんてただの記号。胡桃にわかればそれでいい。そんなことを考えながら問うと、ワカメ2号は盛大に溜め息を吐きながら歩み寄ってきた。
「大事な話っス」
「なに」
「……アンタ、利用されてるっス」
ふざけた口調とは裏腹に、その言葉はずしりと重かった。胡桃の表情が一瞬で消え去る。かくりと首を傾げ、スタッカートの質問を重ねる。
「誰に」
「御当主に」
「何で」
「鬼武零闇の時代を、終わらせるためっス」
「……ふーん」
目を細める。冬真にーさまが胡桃を利用してたのは、実はわかってた。『偶像にはなるな』と口を酸っぱく言い聞かせていたことも、捕らえた
「哀れなにーさま。かわいそうなにーさま。組織に囚われて、憧れに囚われて」
「……」
「まるで囚人。看守にして囚人。がんじがらめで、もがくことすらできずに」
できそこないのマザーグース。十三歳のマザーグース。胡桃は、本当は、本当は。
……小さく息を吐き、もう一度ナイフを投げる。反対側の的の中心に突き刺さったそれを見つめながら、胡桃は独り言ちる。
「胡桃には、やりたいことがある。でも、それは、人殺しじゃない」
……わかっていて、冬真にーさまのもとにいるなんて、胡桃も大概かわいそう。自らを嘲笑いつつも、片手はナイフを弄ぶ。不意にワカメ2号の方に振り返り、かくん、と首を傾げた。
「……胡桃は、胡桃のやりたいことをやるべき?」
「さぁ? アタシの知ったことじゃないっスけど、まぁ好きにすりゃいいんじゃないっスかー? 人生って短いらしいっス。やりたいようにやりましょうよー」
「……」
飾らない言葉が、心にすとんと落ちる。派手なウェーブヘアを揺らし、ワカメ2号は大きく伸びをした。そのまま扉に向かって歩きつつ、マーガリンのような言葉を吐く。
「ま、この情報を得てどうするかはお嬢様次第っス。アタシは関知しないんで。んじゃ」
小さく手を振り、ワカメ2号は扉の向こうに消えていく。それを見つめながら、胡桃は遠くの的にナイフを放り投げた。
――胡桃は考えない。やりたいことをやるだけ。なりたいようになるだけ。
今までも、これからも。
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