第14話 黒江ツバサ

 ……思い出すのは、モノトーンの世界。

 昼のはずなのに、部屋はひどく暗い。ボロアパートの壁は薄く、隣の部屋のテレビの音が無遠慮に響く。飢えと渇きが思考を縛り付け、俺はふらりと立ち上がった。強い異臭が鼻を突く。自分の匂いだとはわかっているけれど、水道はとっくに止められている。週に数度、公園のトイレで身体を拭くのが精一杯だ。……いや、今はそんなことはどうでもいい。食べるものを確保しなければ。震える脚で歩き出し、玄関に向かう――と、金属が軋むような音。見上げると、濃い緑色の髪の女が立っていた。その目元には深いクマが刻まれ、全身は不健康に細い。全身から酒と煙草の香りを漂わせながら、女はハイヒールを脱ぐ。

「……ババア」

「……」

 かすれた声が喉から滑り落ちる。女――ババアは俺を一瞥もせず、足早にキッチンに向かった。棚を開けると、大量のガラス瓶が零れる波のような音。ババアはそのうちいくつかを鞄に突っ込み、再び立ち上がる。……まるで、俺などそこにいないかのように。壁に寄りかかり、俺は思わず唇を噛む。握りしめた拳から血が流れ、鋭い痛みが走った。このババアさえいなければ……もっと違う親の元に生まれていたら、きっと幸せだったはずなのに。父親がいて、普通の母親がいて、いっぱいの愛情を受けて育って……そんな家に生まれたかった。荒く息を吐き、ババアを睨む。振り返りもしないババアに、足音を殺して近づき――その首に手を伸ばした瞬間だった。


 ババアが胸を押さえ、崩れ落ちる。長い髪が揺れ、床に広がり……見上げると、そこには初めて見る人影。思わず見開いた瞳は、に囚われて離れなくなった。思わず崩れ落ち、彼の朝焼けのような紅色の瞳を見つめる。銀色の髪と黒コートが強い風に揺れ、どこか狂気じみた笑みがその口元を彩る。響くのは、どこか歪んだ旋律。嘲笑うようなそれを“レクイエム”と呼ぶのだと、後から知った。高鳴る心臓、熱くなっていく頬……。すべてが、初めての感覚。モノトーンだった世界が、孔雀の羽根のように極彩色に塗り替えられていく。逆光の中に立つその姿は、まるで――……黒い翼の、天使のようで。

 余韻を残し、旋律が途切れる。不意にずいっと俺に顔を近づけ、彼は小さく首を傾げた。心臓が絶え間なく飛び跳ねる中、彼の甘い声が心臓を穿つ。

『……アレ。お前の親か?』

『……』

 肯定の意味を込め、頷く。赤い瞳の男はしばらくババアだった人形ヒトガタを眺め、次に部屋を見回した。

『……ネグレクトか。子供ほっといて男遊びのホステスたぁ……この世の屑だな。ヤクの密売に関わっていなけりゃ、殺されることもなかったものをよォ……』

 そして彼はふと俺の方に手を伸ばした。……不思議と恐怖はなくて。骨ばった手がそっと頭に触れ、わしゃわしゃと撫でられる。息ができない、心臓の鼓動が痛い。甘く溶けるような感覚の中――……彼の言葉が、天啓のように響いた。

『――来いよ。俺たちの、暗殺者の世界に』


 その声が、その笑顔が、俺を導く。

 ――彼のようになりたいと、初めて俺は、夢を、憧れを持った。



 思考が徐々に浮上する。甘い微睡みから追い出され、俺は数度瞬きをした。……最近、いつも同じ夢を見る。零闇様と出会った時の夢だ。あの時俺は、確かにその背に黒い翼を見た。その銀髪、紅い瞳、あの人の声、狂気じみた笑顔……そのすべてが俺を惹きつけて、離さない。零闇様、零闇様、零闇様。俺の血液の細胞の全てが、あの人になりたいと渇望している。


 ……だからこそ、許せなかったんだ。

 握りしめた拳に、長い爪が食い込む。

 血痕を塗り重ねたような赤い髪。細い体。零闇様の視線の先には、いつだってあいつがいた。長谷川優梨。あいつは零闇様の視線を俺から奪って、俺がいるべき場所に当然のように居座って。思い出すだけで内臓が裏返るようだ。血反吐を吐くように荒い呼吸を繰り返し、緑色の瞳で虚空を睨む。

 許せなかった。……俺よりも長谷川優梨を選んだ、。俺だけを見ていてほしかった。誰よりも零闇様に憧れ、恋い焦がれ、零闇様を敬愛していた俺だけを。なのに……と、爪が皮膚を裂く。なのに、零闇様は長谷川優梨を選んだ。俺は聞いてた。零闇様が、後継者に長谷川優梨を選ぶところを。あの時、俺は、は思ったのだ。


 ――零闇様を、殺そうと。殺して、自分のものにしようと。


 任務が終わるや否や、零闇様に毒針を撃ち込んだ。

 駆け付けた冬真に、重傷を負わせた。

 黒江ツバサと名を変え、『ヒュアデス』を立ち上げ、長谷川優梨を殺す土壌を整えて。……そんな矢先に、これだ。手を動かすと、鎖が擦れて鋭い痛みが走る。

 ……それでも、俺は負けねェ。……。



「……暇」

 ナイフを弄びながら、ぽつりと呟く。今日は冬真にーさまは単独任務。胡桃はお留守番。だけど、暇でしかない。仕方がないから投げナイフの練習をしていると……不意に練習場のドアが開いた。振り向くと、セーラー服の襟が揺れる。派手なウェーブヘアをハーフアップにした少女が腕を組んで立っていた。

「……ワカメ2号」

「うっ……あ、相変わらず辛辣っスねぇ、お嬢様。アタシは菜摘乃花っスよォ、覚えてくださいっス」

「何しに来たの、ワカメ2号」

 名前なんてただの記号。胡桃にわかればそれでいい。そんなことを考えながら問うと、ワカメ2号は盛大に溜め息を吐きながら歩み寄ってきた。

「大事な話っス」

「なに」

「……アンタ、利用されてるっス」

 ふざけた口調とは裏腹に、その言葉はずしりと重かった。胡桃の表情が一瞬で消え去る。かくりと首を傾げ、スタッカートの質問を重ねる。

「誰に」

「御当主に」

「何で」

「鬼武零闇の時代を、終わらせるためっス」

「……ふーん」

 目を細める。冬真にーさまが胡桃を利用してたのは、実はわかってた。『偶像にはなるな』と口を酸っぱく言い聞かせていたことも、捕らえた血糊長谷川優梨粗悪品黒江ツバサのもとに同行させているのも、すべて冬真にーさまの目的のためのはず。ナイフを的に向けて雑に放ると、それは夜の空気を切り裂き、的の真ん中を貫いた。

「哀れなにーさま。かわいそうなにーさま。組織に囚われて、憧れに囚われて」

「……」

「まるで囚人。看守にして囚人。がんじがらめで、もがくことすらできずに」

 できそこないのマザーグース。十三歳のマザーグース。胡桃は、本当は、本当は。

 ……小さく息を吐き、もう一度ナイフを投げる。反対側の的の中心に突き刺さったそれを見つめながら、胡桃は独り言ちる。

「胡桃には、やりたいことがある。でも、それは、人殺しじゃない」

 ……わかっていて、冬真にーさまのもとにいるなんて、胡桃も大概かわいそう。自らを嘲笑いつつも、片手はナイフを弄ぶ。不意にワカメ2号の方に振り返り、かくん、と首を傾げた。

「……胡桃は、胡桃のやりたいことをやるべき?」

「さぁ? アタシの知ったことじゃないっスけど、まぁ好きにすりゃいいんじゃないっスかー? 人生って短いらしいっス。やりたいようにやりましょうよー」

「……」

 飾らない言葉が、心にすとんと落ちる。派手なウェーブヘアを揺らし、ワカメ2号は大きく伸びをした。そのまま扉に向かって歩きつつ、マーガリンのような言葉を吐く。

「ま、この情報を得てどうするかはお嬢様次第っス。アタシは関知しないんで。んじゃ」

 小さく手を振り、ワカメ2号は扉の向こうに消えていく。それを見つめながら、胡桃は遠くの的にナイフを放り投げた。

 ――胡桃は考えない。やりたいことをやるだけ。なりたいようになるだけ。

 今までも、これからも。

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