第11話 囚人

 罵声がぼわぼわと響く。隣の部屋から聞こえてくる怒号が私の意識を引き上げる。……全身が痛い。まるでアスファルトの上で寝ていたかのようだ。微睡まどろみの中で腕を動かそうとして――手首の皮を剥がされるような痛みに、思わず跳ね起きた。刹那、ガクンッと腕が引かれる。……何?

 数度瞬きをして暗闇に目を慣らす。見下ろすと、鈍い銀色が目を焼いた。複雑に、しかし直線的なシルエットを描くそれを見つめ、初めて鏡を見る赤ん坊のように瞬きを繰り返す。これは……鎖? 手枷? 疑問符が脳裏を黒く塗りつぶしていく。落ち着こうと大きく深呼吸をすると、鼻を塞ぎたくなるほどの腐臭が濃く香った。

 混乱した私がいる一方で、冷静な私は周囲を見回す。窓はない。出口は扉一つ。おまけに手首には枷。自力での脱出は不可能だろう。そもそも私は、どうしてここにいる? 監禁されたと考えるのが自然。私の記憶が正しければ、これは弓場胡桃……『プレアデス』の次期当主と名乗った幼女、あるいはその関係者の仕業だと考えて間違いないはず。彼女は師匠の後継者など要らないと話していた。だが……『めっ! する』とは、一体どういう意味だ? 『プレアデス』は、何を考えている……?


 カチャ、キィィ……。

 金属質な音に顔を上げると、白い光が目を焼いた。逆光になって見えづらいが、片方は小さな姿。派手なシルエットはツインテールとロリータファッションが織りなすものだろう。もう片方はポニーテールに羽織姿の……骨格から言って、男か。そして――私は彼のことを知っている。

「……和泉、冬真ッ」

「目が覚めたか。長谷川優梨」

「おはよう、血糊」

 幼女が扉を閉めながら、空虚に笑いかける。しかし、そんな挑発に乗る暇などない。一刻も早く、確かめなければ。私の前に跪く和泉冬真を睨み、口を開く。

「何の真似だ?」

「聞いてどうする。お前は

「……はぁっ?」

 冴え冴えと光る打刀のような声に、思わず眉根を寄せる。音を立てて扉が閉まり、部屋は暗闇に閉ざされる。和泉冬真は子供に言い聞かせるように、丁寧に口を開く。

「ここは『プレアデス』が所有する地下牢獄。重大な規約違反を犯した暗殺者を監禁し、見せしめにするための施設だ。……ただ、ツバサは別だ。彼は、なんとしてもしなければならない」

「……処刑?」

 どういう意味だ? 彼を処刑するのは私ではないのか? 脳裏が疑問符で埋め尽くされてゆく中、和泉冬真は昔を懐かしむように目を伏せ、口を開く。

「……知っての通り、俺は零闇の相棒バディだった。誰よりも彼を近くで見てきた……自負がある」

「……だから、自分が師匠を継ぐとでも?」

「違う」

 私の疑問をバッサリと否定し、彼は私の瞳を真っ直ぐに見据えた。神託を告げるように、厳かに口を開く。


「俺の目的は、こと。零闇の後継なんか、いてはならないんだ」


「……ふざけて、いるのか」

 枷をかけられた手が震える。それがなければ、私は今すぐにでも奴に殴りかかっていただろう。威嚇するように荒くなる呼吸を抑えながら、私は問う、叫ぶように。

「どうして師匠の時代を終わらせる必要があるんだ? 憧れの人の後を継ぐ自由すら奪うというのか? そんなことは許されない、許されてはならないッ」

「そういうところだ」

 和泉冬真は呆れたように息を吐いた。後ろで幼女が嘲るように首を傾げる。私の鼻先に指を伸ばし、闇の中で彼は暗く言い放つ。

「零闇には異常なカリスマ性があった。そのカリスマ性は人を惹きつけ、時に狂わせる。……ツバサはそのせいで狂ってしまった。零闇の相棒バディなのに、俺は奴を止められなかった」

 不意にその声は懺悔のような響きを帯びた。伏せられた視線は悲しげな光を宿す。自らの上司にそっと歩み寄り、幼女は彼の背中にもたれかかった。歌うように言葉を紡ぐ。

「でも、それは冬真にーさまも一緒。鬼武零闇に囚われてるのは、おんなじ」

「その通りだ。……だからこそ、終わらせなければならない」

 不意に和泉冬真は立ち上がった。冷たい瞳が私を見下ろす、見下す。背筋をなぞられるような悪寒が走り、見開いた瞳で私は彼を見上げた。師匠の偶像的な美しさとも違う、研ぎ澄まされた包丁のような冷たさ。

「わかってくれ、長谷川優梨。これ以上、零闇のせいで人を狂わせてはならない。俺は零闇を崇拝する者をすべて殺めたのち、『プレアデス』を胡桃に任せて自殺するつもりだ。……お前が協力してくれるというなら、無理に命は奪わない」

 言葉はそっと手を取るように優しいが、その響きはずしりと重く迫ってくるようだ。……しかし、諦めるわけにはいかない。

「……断るッ」

 言い放つと、和泉冬真は微かにその瞳を見開いた。隣で幼女がかくりと首を傾げる。そんな二人に対し、私は噛みつくように言葉を叩きつける。

「私を『特課』に戻せ。師匠を継ぐという一点なら、私が『特課』に属していることに意味があるだろう。何よりお前たちにわざわざ協力しなくても、いずれ『ヒュアデス』討伐指令は舞い込むはずだ。お前たちに協力してやる理由はない」

「……戻れると、思っているのか?」

 不意にその声は吹雪のような冷たさを帯びた。彼が懐から取り出したのは……死斑が浮いた少女の写真。その姿に、心臓を握りつぶされたかのような衝撃があった。ボブカットの金髪が床に広がり、ターコイズ色の瞳からは光が失われている。思わず目を見開き、私は震える瞳でその名を呼ぶ。

「……ゆみ」

「わかるか? この娘は、お前が殺した娘だ」

 子供に言い聞かせるように、和泉冬真は私の瞳を覗き込みながら語る。その響きはギロチンの刃を落とすように、死神の鎌を振り上げるように。

「仲間だったのに、弟子だったのに、可愛がっていたのに、殺した。邪魔だからという理由で、しかも任務外の事象で」

「……」

「ツバサも言っていたが、そんなことをする人間に零闇を継ぐ資格はない。だから、諦めろ。諦めて協力してくれるなら、それでいい」

「……」

 暗い部屋の中、私はただ俯く。全身が細かく震え、水滴を落としたように視界が滲む。……何も、反論できない。唇を噛み、涙をこらえる。彼の言ったことくらい自分でもわかっていて、それが何よりも。

「……俺たちに協力してくれるなら、お前を『特課』に戻すことも可能だ。断るなら、死んでもらうしかないがな……」

「……」

「どうするか、考えておけ。結論が出た頃には、迎えに行く」

 白い羽織の裾が翻る。ポニーテールを揺らし、和泉冬真は踵を返した。幼女も彼を追い……不意に振り返る。ツインテールとロリータの裾が暗闇の中で揺れ、ニワトコの枝を差し出すような笑顔が目に焼き付く。

「……まるで囚人。自分から鎖に繋がれた囚人。可哀相な血糊」

 それだけ言って、ロリータの裾をふわりと翻す。上司を追い、彼女はゆっくりと歩きだした。扉が開き、その向こうに二人は消えていく。

 キィィ……パタンッ。

 再び、地下牢獄は暗黒に閉ざされた。私は思わず倒れこみ、目を閉じる。両の瞳から涙が一粒、二粒……次から次へと。

「――師匠、申し訳ありません」

 私は、あなたのようにはなれなかった。

「――ゆみ、本当にすまない」

 私情に振り回されて、大切な弟子を殺すなんて……師匠失格だ。

 許してもらえるとは、思わないけれど……私は必死に、謝罪の言葉を紡ぐ。

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