第9話 走馬灯
……最初に蘇ったのは、『特課』に正式に入ったばかりの頃。『特課』のすべての新人には師匠がつき、仕事の基本を教え込むというルールがある。そこでゆみの担当になったのが、優梨先輩だった。先輩を初めて見た瞬間、目を奪われた……血のような赤い髪、怜悧な目つき、氷のような白い肌。……まるで、氷の女神のようで。言葉を失うゆみに、先輩は薄い唇を静かに開く。
『……名前は?』
『ひ、昼間ゆみです! 今年、「特課」に正式に入隊しました!』
『そうか、ゆみか。私は長谷川優梨。お前の担当になった。よろしく頼む』
そう言って、優梨先輩はさり気なく片手を差し出した。幾度か瞬きをして、握手を求められていると気づく。
『……はい、よろしくお願いします! 優梨先輩!』
……『特課』の人間を養成する『新月寮』には、厳しいルールがある。
教官に逆らった者は死ぬ。命令を聞けなかったものは死ぬ。課題を遂行できなかった者は死ぬ。友達を作ったものは死ぬ。人に情けをかけた者は死ぬ。……生き残るのは、有能かつ、最高に残酷な人間だけ。
『……ゆみ。今日の任務はチュートリアルだ。私に同行しろ』
『はいっ』
『特課』にいる時点で、その人はあまりにも残酷だ。なのに……優梨先輩は、どうしてこんなにも優しいの? どうして『特課』の人間であるゆみに、こんなにも優しくできるの?
『ターゲットは危険思想を持った男だ。男自体の暗殺難度は高くないが、強力なボディーガードを複数雇っている。それをいかに早く倒すかが課題。……暗殺の基本はわかるか?』
『はいっ。「新月寮」で教え込まれましたっ』
『そうか。なら、いい』
颯爽と歩く後ろ姿が格好よくて、背中に揺れる二つ結びが誘うようで。目が釘付けになって、離せない。ゆみは深く深呼吸して、優梨先輩の後を追った。
『十時方向に敵影。……ゆみ、やれるか?』
『はい、いきます!』
優梨先輩の指示に従い、毒を仕込んだナイフを構える。十時方向に現れた筋骨隆々の敵影の懐に飛び込み、心臓を狙って突き刺した。背後から襲ってきた別の男に回し蹴りを食らわしつつ、ナイフを引き抜くと、紅くて熱い血潮が噴水のように噴き出す。金髪を、顔を、制服を紅く染めながら、ゆみは次のターゲットを処理しようと振り返った。視界の端で血のような赤い髪がなびき、一瞬目を奪われかける。けれど頭を振り、次のターゲットの首筋に刃を突き刺す。できる。実戦でもゆみはやれる! 刃を引き抜き、血を浴びながら次のターゲットに目を向けて――けれど。
『ゆみッ!!』
『ッ!』
鋭い声。振り返ると、ゆみに向けて刃が振り下ろされそうとしていた。刹那、二本のナイフが放たれ、片方がボディーガードのナイフを叩き落とす。遅れて放たれた刃は男の頸動脈を正確無比に貫き、痙攣する男は仰向けにどさりと倒れる。
『落ち着け。冷静になれ、ゆみ!』
『す……すみませんっ!』
叫びながら最後の一人を倒し――現れた、ボディーガードではないらしき人間。彼を視界に捉えるや否や、ゆみは拳銃を引き抜き、二発。銃声が高らかに轟き、危険思想の持ち主は胸を押さえる。中肉中背の身体がうつ伏せに倒れる音を最後に……押し潰されそうな静寂が、辺りを包んで。
『……お疲れさま、ゆみ。これでお前も、「特課」の一員だな』
『優梨先輩……』
拳銃を握りしめながら、ゆみはターゲットを見下ろす。その口元に歪な笑みが貼りついているのを自覚し、浅い呼吸を繰り返しながら振り返った。相変わらずの無表情でゆみを見つめている優梨先輩に歩み寄り、ゆみは笑みをさらに深める。
『ゆみ……やりましたよ、優梨先輩……』
『ああ、そうだな』
端的に答え、優梨先輩はポケットからハンカチを取り出した。ゆみの顔を、金髪を丁寧に拭うと、ゆみの頭をそっと撫でた。刹那、電撃に貫かれるような衝撃。優梨先輩の冷静な瞳から、目が離せない。夏の夜、蝶が光に惹かれて火中に飛び込むように。
『優梨……先輩……』
『だが……冷静になれ、ゆみ。そうじゃないと、暗殺者なんてやってられない』
ゆみの頭を丁寧に撫でながら、優梨先輩は静かに告げた。乾いた土に雨が降るように、言葉が心にしみ込む。心臓が高鳴って止まらない……気付いた時には、ゆみは先輩の胸に顔を埋めていた。細い体を強く、強く抱きしめ、ゆみは震えながら必死に声を絞り出す。
『ごめんなさい……ありがとう、ございます……助けてくれて……』
『……いいんだ。大切な、弟子だから』
大切な弟子。全身が甘く蕩けていきそうだ。必死に優梨先輩にしがみつきながら、ゆみはひたすらに口を動かす。けれど、何一つ、声にはならなくて……。
◇
「優梨……先輩……」
「ゆみ、ゆみ……」
……気付くと、すぐ側に優梨先輩の顔があった。血のように赤い瞳は震えていて、気付いたら我が子が冷たくなっていた母親のようで。かすむ視界を必死に保ち、指をそっと伸ばす。冷たい感触が触れて、優梨先輩がゆみの手を握っていることに気がついた。その冷たさに、必死に意識を保ちながら、ゆみは細い糸に縋るように言葉を紡ぐ。
「先輩……ごめんなさい……ゆみ、やっちゃいました……」
「何で……どうして、こんなことをしたんだ……」
その声には動揺がありありと滲んでいて、普段の優梨先輩らしくなくて。でも、ゆみを想ってのことだと思うと、それすらも嬉しくてたまらない。まるで天国に昇るようだ。微笑みを浮かべ、ゆみは必死に口を動かす。
「先輩、に……喜んで、ほし、くて」
あぁ……もう、限界だ。繋いだ手が、離れていく。先輩の姿が霞む。ここで終わりか……でも、優梨先輩の腕の中で死ねるなら、本望。
……そう、思っていた。
「……そんなの、嬉しくない」
――頭を殴られるような衝撃。遠くなっていく意識の中、その言葉は残酷なほどクリアに聞こえた。必死に目を開き、優梨先輩を見つめると……背中が、地面に強く打ちつけられた。
……どう……して……。
必死に口を動かすけれど、声が出ない。地獄にまっさかさまに落ちていくようだ。必死にピントを合わせると、優梨先輩の瞳は震えていて。それはまるで、自らを裏切った子供が、冷たくなっていた時のようで。
「――師匠の仇を討つのは、私だ。おまえじゃない。他の誰でもない」
全身が凍り付くような衝撃。ターゲットに向けるような、液体窒素のように冷徹な声。それがまさか、ゆみに向けられる日が来るなんて。ゆみは先輩に憧れていたのに。先輩が大好きだったのに。どうして? どうして、そんな顔をするの? どうして、ゆみにそんなかおをみせるの?
……もう、なにもわからないよ。
胸に走る、焼けるような痛みを最後に――……
――世界は、暗転した。
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