第8話 天使

 任務を果たし、ゆみは夜の街を歩いていた。夜明けまではまだ時間がある。『特課』においては、任務は夜明けまでに果たさなければならない。死体の処理も含めて、だ。今回の任務は簡単だったから、数分で果たして後は死体処理班に任せた。……ゆみには、やるべきことがあるから。

 まだ細い月の光。ボブカットの金髪がきらめき、薄い影が背後に伸びる。傍から見れば、ゆみの姿はまるで幽鬼のようだと思う。好きに思えばいい、と口元を歪めた。ゆみが好きなのは優梨先輩だけ。それ以外の人なんて、どうでもいい。

 優梨先輩のためなら、ゆみはなんだってしてみせる。何をしたって許される。『特課』は刑法を無視して動けるし、何より優梨先輩の敵を排除することは、『特課』のためでもあるんだから。


 ターゲットは『ヒュアデス』の首領、黒江ツバサ。

 ゆみに情報をリークしたのは『プレアデス』の構成員、菜摘乃花。優梨先輩の相棒バディたる菜摘乃樹の妹だ。軽い調子の言葉を思い出しながら、シャッターの閉まった店の角を曲がる。

『黒江ツバサの情報、欲しいでしょ? やりますよ。無条件で』

 脳裏でハスキーな声が響き、ゆみはわずかに目を細めた。何か裏がある気がする。けど、ゆみはあえて乗った。腰のガンホルダーに手をやり、その感触を確かめる。たとえ裏があったとしても、始末さえすればそれでいい。ゆみにはそれができる力がある。だって、ゆみは優梨先輩の弟子だから。

 黒江ツバサを倒し、優梨先輩を守り抜く。たとえ、この命に代えてでも。


 花さんに聞いた話を思い出しながら、裏路地を歩く――と、背後に気配を感じた。流れるような動作でホルダーから銃を抜き、放たれたスローイングナイフを撃ち落とす――と、気付いたらすぐ近くに誰かがいた。反射的に蹴りを放つが、脚を掴まれる。そのまま誰かは私の脚を強く引き寄せ……フリスビーを放るように投げ飛ばした。

「あ……ッ!」

 地面に強く打ち付けられ、ゴロゴロと転がる。全身がじんじんと痛い。けれど……と、目の前の人間を見上げ、身体に鞭打って立ち上がる。あの人は、敵だ。毛先だけが赤く染まった銀髪、青白い肌、蛇のような赤い瞳、黒コート……何から何まで、似顔絵の人物。

「黒江……ツバサ……!」

「ハハッ、よく知ってんなァ。そうだ、俺の名は黒江ツバサ。死ぬ前に覚えとけ」

 聞き覚えのある、粗野な声。間違いない。よく目立つ見た目も、特徴的な声も、ゆみが知る“黒江ツバサ”そのものだ。体温が静かに、しかし急激に下がっていく感覚。黒く冷たい炎が肌を内側からチリチリと焼く。

「言っとくけど、ゆみはアンタを殺すまでは死なないよ」

「……はん?」

「アンタ、優梨先輩を殺そうとしてるんでしょ」

 言い放つと、黒江ツバサは猫を虐待するように顔を歪めた。蛇のような瞳を細め、言い放つ。

「ハッ、流石は『特課』の諜報能力だなァ……ああ、その通りだよ。俺の目的のために、長谷川優梨は邪魔でしかねえ。だから殺す。……暗殺者なんて、そんなもんだろ?」

「……」

 半目で黒江ツバサを睨むと、彼は外国人のように肩を竦めた。やれやれと両手を広げ、白い唇を緩慢に開く。

「だってよォ……『特課』の人間ならわかるだろォ? 

 蛇が舌なめずりをするような、それでいて心の底を見透かすような響きにも動じず、ゆみは彼に拳銃を向けた。こんな奴のお喋りに付き合う必要なんてない。引き金を引くと、黒江ツバサは軽く身を捻ってそれを回避する。何度も引き金を引き、銃弾が舞う中で、彼は舞台俳優のように語る。

「ネグレクトって知ってるか? 俺はずっと親に放置されて育ったんだ。戸籍もねえ、学校にも行けねえ、父親もいねえ、ホステスの母親はいつも俺を放置して仕事したり男の家に泊まったり。電気も水道も止められて、生ゴミを漁ったり、万引きしたり。……長い間、独りぼっちで過ごしたよ。小汚ぇナリで、誰にも気づかれずに……」

「随分とお喋りが好きなんだね」

 悲劇的な語り口とは裏腹に、その表情は恍惚としていて、自分に酔っている様が見え見えだ。引き金を引くが、弾丸が出てこない。ゆみは弾切れになった銃を投げ捨て、毒を仕込んだスローイングナイフを取り出す。振りかぶると、黒江ツバサは無駄のない動作でナイフを投げた。無風の空気を切り裂いて飛来するそれは、微かな月の光を反射して銀色に輝いた。真冬のような冷たさを纏い、ゆみはナイフを構え直すと、飛来するナイフを落とす。――しかし、それは見せ技だった。

「――ッ!?」

 そっと金髪を撫でられ、強く引かれる。髪を引き抜かれる痛みに耐えながら顔を上げると、黒江ツバサは触れ合えそうなほど近くに。蛇のような瞳は明確な狂気を孕み、口元は鼠をいたぶる猫のように歪んでいた。息が詰まる、先程とは別の意味で体温が下がる。それでも、と唇を噛み、毒が塗られたナイフを心臓狙って放ちかけ――止められた。おぞましく冷たい手にナイフが奪われ、捨てられる。次のナイフを取り出そうとして――腕に焼けるような痛みが走った。腕の先が軽くなり、感覚が、切り離される。悲鳴を噛み殺しながら、弾かれたように見下ろし……今度こそ、絶叫を上げそうになった。


 ――さっきまで、あったはずの、右手が。

 アスファルトの上に、転がっている。


「あ……あっ……」

「なぁ、わかるか? 『特課』の人間ならわかるよなァ? 俺のこの孤独、無力感をよぉ……なんたって、誰と絆を結んでもいけない可哀想な組織だからなァ?」

 蛇が身体に巻き付き、締め付けられるように動けない。意味のない声を漏らしながら、黒江ツバサの赤い瞳に囚われて、ただ震えているしかなかった。彼は私の頬をそっと撫で、首筋に手を這わせる。喉をそっと圧迫され、ひゅうひゅうと浅い呼吸を繰り返しながら……爪が刺さるほど、左手を握りしめる。――違う。『特課』は、そんな組織じゃない。

「ゆみは……」

「んっ?」

「ゆみは……優梨先輩と……強い絆で、結ばれてるのに……優梨先輩、も……大師匠と……」

 そう言った瞬間……失敗したと、気付いた。

 黒江ツバサの表情が徐々に歪んでいく。先程までの嗜虐的な笑みから……裏切りを受け何もかもを失った貴族の如く、怒り、憎悪、嫉妬、あらゆる負の感情がない交ぜになったような、歪んで引き攣った表情。

「……笑わせるなッ!!」

「――ッ!!」

 ――気付いたら、長い刀身のナイフが胸から生えていた。口の中に血の味が満ち、視界を濁った紅色が汚す。両脚から力が抜け、仰向けに崩れ落ちる最中……生理的な涙で滲んだ視界に……走馬灯が駆け巡る。

 そのすべてに、血のような赤い髪をした女性が、天使のように映っていた。

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