ムジナ坂の狢川くん

@muuko

第1話

 朝から気を張っていたせいか、頭も体も熱くてぼうっとする。


 保健室で体温を測ったら37度7分あった。クラスメイト達の何人かは、帰り支度をする私を囲んで口々に心配し励ましてくれる。彼女達の声にはホワイトノイズのような音がかぶさっていてよく聞きとれないのに、教室を出ていく時のヒソヒソ声は嫌でも耳に入る。



 蛍光灯のついていない廊下を歩く。お昼休みに入った教室はどこも明るく、女子や男子の騒ぐ声が頭の後ろでぼんやりと響いていて、なんだか無性に”ひとり”だった。昇降口がこんなに暗いのは誰も使わない時間帯だからだろう。早退する生徒なんて私くらいしかいない。


 靴を履き替えて外に出て、校舎内と打って変わった強い光に目を細める。手をかざして空を見上げようとして、やめた。朝は曇りだったのにな。鮮やかすぎる梅雨晴れの空にため息がでそうだ。


 鞄からフェイスタオルをとり出して、頭から首を覆うように被せて両手で端を持ち、駆け出す。太陽の光に体中焼かれながら校門を抜け、はけの道に逃げる。木陰を探して、また次の木陰まで。そんな風に繰り返しながらあの坂を目指す。行く道の木々でさえ風に撫でられてざわざわと賑やかだ。


 ふと思いついて長袖シャツの手首のボタンを外してみるが、たいして涼しくなるはずもなく。お腹まわりは湿って気持ち悪いくらいだ。きっとスカートに巻いたベルトのせいだろう。木陰は私を守ってくれるけれど、ここでは暑さまでは凌げない。



 鬱蒼とした林のトンネルの前にたどり着いた。入り口にある細い看板には『ムジナ坂』と、この坂の名が記してある。暗く人気のない、急な石段が続く坂道だ。『昔、この坂の上に住む農民が、田畑に通った道で、両側は山林の細い道であった。だれということなく、この道をムジナ坂といい、暗くなると化かされるといって、怖がられ遠回りした。』こう、看板には記されている。仮にそれが本当だとして、私にとってはこんなにありがたいことはない。


 おでこと首の後ろにかいた汗を拭いて、タオルはそのまま肩にかけた。うねっているだろう後れ毛を手櫛で撫で付けて、それからもう一度両手で胸を押さえて深呼吸した。




 一歩、一歩と黒く変色した石段を上がる度、かさりかさりと落ち葉がなった。蝉の声に混じってどこかで小さく鳥の声もする。途中で後ろを振り返ると、入口が光って見えた。傍目には近寄りがたいこの坂も、中に入ってしまえば涼しく静かで居心地が良い。まるで別世界だ。まだらな木影がゆらゆらと揺らぐ。


 一瞬、風が止んだ。背後にひたりとした感覚があって、涼やかな声が私の鼓膜を震わす。


「ピヨ」


狢川むじかわくん」


 この声の主を狢川くんと、私はそう呼んでいる。彼は私と同じ第二中学校の制服という格好で、いつもこんな風に現れる。


「また来たの」


 形の良い眉はハの字になり、迷惑そうな口ぶりだ。けれどそこまで嫌そうに感じられないのは、目元が笑っているからだ。


「観音坂の方が緩やかなのに」


「急に晴れだしてさ。太陽が」


「どれ」


 両肩を掴んでくるりと後ろを向かせられ、首にかけていたタオルがしゅるっと首筋から引き上げられる。髪の毛を一括りにして持ち上げられると、さらけでたうなじにひやりとした空気が触れた。いや、ただ肌が熱いだけなのかも。


「日差しは強かったけど、痒いとこはないよ」


「そうなの? でもピヨ、アレルギーなんでしょ? 気にしなよ。少し赤くなってる。なんか首熱いし」


 狢川くんは私のことをピヨと呼ぶ。「僕からすれば君なんてぴよぴよのヒヨっこだから」だそうだ。


「熱でちゃってさ。早退したんだ」


 狢川くんの手がびたっとおでこにあてられて、ついでに目の前も暗くなる。湿った前髪が大きな手に挟まれて、くしゃりとおでこにくっついている。


「それを早く言って」


 狢川くんはおでこから手を離して石段にタオルを引いた。促されてそのまま腰を下ろす。空いた方に狢川くんも座った。首の後ろが赤くなっていると言われたせいか、痒い気がする。手首の内側の、皮膚の薄いところが少し腫れてぷつぷつと湿疹ができていた。無意識にでもかいてしまわないようにシャツの腕のボタンをとめて、スカートから出た足にカーディガンを巻きつける。


「ちょっと休んでから行きな」


 狢川くんが言うがはやいか、地面に映る影が夜のように濃く伸びてきて私たちをすっぽりと覆い隠した。今、確かに坂の真ん中あたりにいるはずなのに、自分の存在が薄くなったような不思議な感覚だ。私の真横を見知らぬおばあちゃんがゆっくりと通り過ぎていく。


「うわぁ」


 つい子供みたいな声が出てしまった。


「最初の時とおんなじだぁ」


「あの時はほんと大変だったからね」


 狢川くんは何か思い出したようで、口元を隠して肩を震わせている。

 あの時というのは、私が第二中学校に転校してすぐの頃。早退して初めて狢川くんに出会った時のことだ。クラスのみんなにサボりだと思われたくなくて、体育の持久走にフル参加しようとしたのだ。日陰のないグラウンドを3周半するはずが、たった1周で顔から腕から真っ赤になって、先生に怒られてすぐさま家に帰された。その帰り道、悔しさのあまり道に迷ってこの坂を登っていたら、狢川くんがいきなり出てきて勝手に驚かれた。真っ赤に腫れた顔が涙と鼻水でぐしゃぐしゃだったらしく、「仲間が化けてると思って出てきたのに、こっちが騙された」と言われたのをよく覚えている。当然怒った。バツが悪かったのか、狢川くんは日陰を作ったり近くの湧水で冷やしたタオルをあててくれたり、けっこう一生懸命助けてくれた。


「もう……。あの時は私もあれで必死だったっていうか……」


 狢川くんはにじんだ目の端を擦りながらこちらを見る。私からしたらあの時の状況はまったくもって笑い事じゃないんだけれど、狢川くんのその顔があまりにも嬉しそうに見えたから、恥ずかしさと思い出し怒りの気持ちはふよっとどこかへ去ってしまって、結局私も一緒に笑った。


 しばらくして気が済んだのか、狢川くんは「ところで、」と話題を変える。


「友達できた?」


「ううん、まだ」


「そうかぁ。なかなか難儀だねぇ」


 狢川くんはたまに難しい言葉を使う。


 私はひとりぼっちだ。

 あの持久走がよくなかった。ああなった私を心配して『みんなでかわいそうな吉川さんを助けてあげよう』派と、それに反対する『それって余計なお世話じゃない?』派で、クラスの女子は真っ二つだ。そこからうまれる行き場のないもやもやは徐々に教室を埋め尽くしていって、ついに原因である私に直接向かい始めている。


「狢川くんは、どう?」


「ううん」


「そうかぁ」


 狢川くんは、ひとりぼっちだ。ずうっと昔に山が切り開かれて、人がどんどん増えてきて、増えた分だけ狢川くんみたいなモノはどんどん居なくなっていったんだと思う。

 狢川くんはたった1人しかいない。この場所に、たった1人で居続けている。


 会話はそれきりで、あとは黙って2人で入口の眩しい光やそよぐ木々を眺めた。彼に、私のチンケなお悩み相談に乗ってもらうつもりはない。


 彼もまた、やりきれない思いとどうしようもない孤独を抱えて、それでもこうして生きているんだ。人間みたいに。


 日の当たるところにいられない私と、人の世には生きられない狢川くん。

 私が学校で感じる”ひとり”と狢川くんの”ひとり”は全く別物で。けれど、強すぎる日差しをこうして2人で分け合うことで、それだけで、少なくとも私の心は救われていた。


 横に座る狢川くんをチラリとみる。真っ直ぐなこげ茶の瞳は、一体何を見ているんだろう。



 肌の赤みが落ち着いたら、狢川くんは「はやく帰れ」と私を追いはらおうとする。私は、何かもう少し狢川くんとのつながりが欲しいと思っているので、一応言ってみる。


「せめて名前だけでもさぁ」


「得体の知れないモノに、気軽に名を教えるもんじゃない」


 前と同じ台詞を返されて、ほらもう行きなと手を振る狢川くんに、私はもう一つ質問をぶつけた。


「じゃあ、好きな食べ物は?」


「え?」


「もしどこにも行くあてが無くなったら、私の家のお庭にいたらいいよ。好きな食べ物置いておくからさ」


 落ち葉が舞い上がるくらい強い風が吹いて、思わず目をぎゅっとつむる。

 耳元に響いたのはきっと彼の声で、目を開けたらもう石段を上りきっていた。振り向いて坂を見下ろすと、あんなに鬱蒼としているように感じたムジナ坂の東側は綺麗に開かれていて、明るい日差しが灰色の石段に降り注いでいる。そういえば、暗すぎて通り辛いという意見が多く寄せられたため、少し前に伐採されたのだ。


 狢川くんはもうどこにも居らず、時折、風がざあざあと木々を揺らすだけだった。




 それから。


 私は毎朝、家の庭に生えているオリーブの木の下に狢川くんの好物を置いている。

 あの林がもっと伐採されて、看板に記されたことが本当にお伽話になってしまって、ムジナ坂が人のためにより良く変わっていったとしても。

 私だけは狢川くんを忘れないでいたい。

 そしたらきっと、彼もひとりぼっちではないはずだから。

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