エメの言葉と胸の痛み
あれから十五分くらいたっただろうか。僕たちは、その間ただの一言も交わすこともなく、黙々と夜の街を歩いていた。
季節は春ということもあり、時折吹く夜風がとても心地よく、空には綺麗な星々と魅惑的な月が爛々と輝いている。
隣を歩くエメの横顔を見ると相変わらず、表情は暗いままで、ずっと俯き加減でいる。こういう時、男として気の利いた一言を言ったほうがいいのだろうが、生憎僕にその様な芸当は不可能で、そもそもそこまで気の利く人間ならば、エメがこうも暗い表情を浮かべることもなかっただろう。
「ねぇ……要」
そんな僕に気を使ったのか、使ったのかはわからないが、エメが口を開いてくれた。
「なんだい?」
この時、僕は彼女の事を気づかって、努めて冷静に、それでいてできうる限りの温かみを持ったか声音でもって応える。
「要にとって……私って何なの……?」
「そんなの決まっている」
僕はいつものように彼女にこういう。
「エメは僕にとってかけがえのない存在だよ。それこそ僕はエメの為だったら、なんだってできる。それこそ人殺しだってできるさ」
僕がこういうといつも彼女は、僕を傷つける様な、痛めつける様な、捻くれた回答をしてくる。いや、してくれると言ったほうが正しいかもしれない。
だって彼女はいつだって、それこそ僕たちが喧嘩をしたときにでさえ、僕にそう答えを返してくれるのだから。だから僕は待つ。彼女のいつもの言葉を、僕たちの間にのみ存在するその特別なやり取りを。
でも待っても彼女は一向に返してくれない。一分、二分、三分……いくら待っても彼女から言葉は、帰ってはこない。
僕はそれにしびれを切らすこともなく、ずっと彼女の事を待ち続ける。ジッと彼女の瞳を見て。血の様に赤く、それでいて魅惑的な瞳をジッと見つめながら、待ち続ける。
「要は……」
そんな僕の願いが通じたのか、彼女は遂にその重い口を開いてくれた。そして僕は、待つ。僕を傷つけるあの言葉を。僕の存在そのものを否定するかのようなあの酷い言葉の数々を。
「要は……本当は私の事嫌いなんでしょう……?」
「……へ?」
でもそんな僕の希望は、裏切られた。それも僕が彼女の口から最も聞きたくはなかった言葉と共に。
「要は私の事が嫌い。嫌いなのよ」
「ま、待って。ちょっと待って。どうしてそういう考え方になるんだ」
僕がエメを嫌うなど絶対にありえないし、その様な虚言断じて認めるわけにはいかない。
「どうしても何も、要の行動がすべてを物語っているじゃない」
「僕の行動……」
振り返る限り僕の行動に、エメをその様な思考に追いやる行動など微塵もない。
「その顔……その理解できない状況下に遭遇したときにする顔。それが答えよ」
「は、ははは。それはどういう……」
「……そう。やっぱりわからないのね。これだけ一緒にいるのに、私は貴方の気持ちがわかるのに、貴方にはわからないのね」
「それは君が……」
「吸血鬼だから? それとも頭がいいからか幼馴染だからだとでも言うのかしら?」
僕はその言葉に、内心焦りを覚える。エメの言葉は全て適確で、僕の内心を精確に言い当てていた。悲しそうな表情を浮かべながら。
僕にはどうして彼女が、どうしてそんな表情をしているのか、まるでわからない。あれほど、エメの気持ちを理解できると、誰よりも彼女の気持ちがわかると思っていた自分でも、今の彼女の気持ちだけはわからない。
そんな僕の困惑する表情を見て、エメは下唇を強く強く噛んでいた。その力は強く、下唇からは、紅くどろりとした血液が流れてしまうほどに。
「要にとって私は、私という存在は唯の同居人で、お人形さんに過ぎないのよ。自身の欲求を叶える為だけの、そんな都合のいいお人形さんにしか貴方は思っていないのよ……」
「違う‼ 僕は……」
「違わないわよ‼」
普段滅多に声を荒げないエメのその怒声に、僕はたじろぐ。
何か言い返さなければならない。胸の内では、そうわかっている。もしここで何も言わなけれな、エメの誤解は加速する。それは何としても正さねばならない。
「あ……う……」
なのに、なのに、僕は彼女に何も言い返せない。心ではわかっているのに、彼女の言葉を否定したいのに、声が出ない。
「要は昔から私の事を異性としては、意識していない。だから私の裸を見てもなんとも思わないし、私に性欲を抱かない」
「そ、それは昔から一緒にいるから……」
僕の声はあまりに弱弱しく、掠れていて、今にも消えてしまいそうだった。
「確かに私達は昔から一緒にいるわよ。ええ、それこそ幼稚園の頃からの付き合いだもの。互いの裸を見た回数だって二桁は言っているでしょうね。でもそれにしたっておかしいのよ。だって私を見る要の目は、まるで無機物を見るのと同じだもの……」
「そんな事は……」
「ないなんて言わせない。貴方は、要は、私の事を人としても化け物としても見ていない。ただの物として見ている。あなたにとって私という存在は、路傍に落ちている石と同じ存在なのよ」
僕がエメをものとして見ている? そんな事ありえない。絶対にありえない。絶対にありえないはずなのに、どうして僕の声は出てくれない? どうして酸素がうまく吸えない? どうしてここまで胸が苦しい?
どうして……
「もう一度聞くわ。要にとって私って何……?」
「あ……う……あ……」
思考が真っ黒に塗りつぶされていく。何も考えられない。考えたくない。頭がずきずき痛む。胸も苦しい。どうしてこんなに苦しいんだ。どうして……どうして……どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして……
「そんなの要が私の事を憎んでいるからに決まっているじゃない……」
「憎んでいる……?」
「そう。貴方は私を、いや。私達という存在そのものを憎んでいる。貴方はこの世で誰よりも怪異を憎んでいる。彼らの存在を一変残さず消滅させたいとさえ思っている。その為にならば、例え自身の身が朽ち果てようとも構わないと。それほど深い憎悪が恐怖という鎖と共に、貴方の胸の奥底に眠り続けている……」
「……」
「否定……しないのね」
「……」
「大丈夫。そんな事わかっていたから。初めから全部。全部わかっていたから」
「……」
「貴方が私達を許すことはない。そんな当たり前の事、ずっと、ずっとわかっていた。いや、わかっていたはずだったのに、私は忘れてしまっていた。貴方と一緒にいるのが楽しかったから、嬉しかったから。何より暖かったから」
「……」
「ねぇ? 知っている? 私、一時貴方の事を夜中に襲うと考えていたのよ? 我ながら凄い事、考えていたわよね。いくら異性として意識されないからって襲おうとするなんて。我ながら自身の発想の狂気性が末恐ろしいわ。でもここまで私を狂わせたのは、貴方の、要のせいなのよ? わかってる?」
「……」
「返答はなし……か。うん。わかってたから大丈夫。その考えも想定内。想定内だから……それにどうせ貴方はまた忘れてしまうのでしょう。今日の、この時間の出来事を。私と語り合ったこの時間の事も、私への憎悪を好意と言うプラスの感情に反転させて、何もかも忘れてしまうのでしょう」
「……」
「でもこれだけは言っておくわ。もう何度言ったのかは、忘れてしまったけど、私は貴方の事が大好きよ。例え、貴方が私の事を嫌って、憎んで、無視するようなそんな日がこようとも、私は貴方の事がずっと好きで、愛し続けると」
「……」
「だから今はゆっくりおやすみ。そして明日には、またいつもの貴方に戻ってね。私もいつもの、傲慢で、憎たらしい口ばかり利く、あの私に戻るから。でも叶うのなら……」
「……」
「今日の出来事を、私を、本当の私を忘れないで欲しかったなぁ……」
一人泣いている美しき吸血鬼のその悲し気な一言は、思い人である彼にも、誰の耳にも届く事は無く、まるで泡沫の夢の如く、消えていった。
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