第7話 抱

 無事検査は終わり、舞は退院出来たようだった。

 だが1週間ぶりに会う舞の姿は、気のせいかもしれないが、いつにも増して色白で、少しやつれているように見えた。


「検査、大丈夫だったのか?」


「……ええ、今のところは大丈夫よ」


 少しの間のあと、舞はいつもと同じ口調で返事をしてきた。

 普段となに変わらぬ話し方。ほとんどの人が違和感を感じないだろう。

 だがここ最近毎日話していた俺にとって、舞のセリフにどこか不自然な感じを受けた。

 話す言葉の端々に白々しさが透けて見える。


 彼女の話し方にある拭えない違和感を追求するか、脳裏に一瞬よぎり迷う。

 彼女が「大丈夫」と言うことは、この話題は触れられたくないのだろう。

 それに気付いたうえで、わざわざ追求するのは躊躇われた。


 やはり嫌な勘というものは当たるものである。連絡が来た時のあの感じは、間違っていなかった。

 何かしら悪い方向に彼女の抱える状況が、傾いたのだろう。

 そう考えると舞の様子の変化も頷ける。


「……今日は何を歌えばいいんだ?」


 結局俺は聞くのをやめ、いつものようにすることにした。


 自分にだって踏み込まれたくないことはある。自分の持っていた夢の話や今が2度目の人生だということなどだ。

 彼女は最初の出会いこそ勢いで突っ込んできたが、それ以降触れてくることはなかった。

 それがありがたかったし、だからこそ絶妙に距離感を測って接してくれる舞に居心地の良さを感じているのだろう。

 だからこそ彼女に俺は惹かれているのだ。

 

 触れられたくないというなら触れないでおこう。

 きっと、彼女にとってもありがたいことなのだろうから。


 自分の反応が正しいのだと言い聞かせるが、拭えない引っかかるものが喉に残る。

 少しだけ、俺と舞の間に距離があるようにも感じ、それがもの寂しく思った。


「……今日は、これで歌って欲しいの」


 俺が触れないことにホッと安堵した表情を浮かべる舞。

 張り詰めた緊張感が解かれ、舞の顔の筋肉が少しだけ緩む。

 自分で選んだ選択肢にも関わらず、その舞の態度が俺に対する信用度を表しているようで、心がずしりと沈み込む。


 俺はなんて自分勝手な奴だ。

 相手を想うと言っておきながら、相手のその態度に気持ちは勝手に揺れ動いている。

 本当なら、何を言われても動じず、ただ彼女の力の助けになっていればいいはずなのに。

 

 自己嫌悪に陥りながら、俺は舞の手から紙を受け取った。

 受け取った紙は二つ折りされていたので、ゆっくり開く。

 中を確認すると、5本の線と音符が書き連なっていた。

 舞が渡してきたのは一枚の楽譜だった。


「なんの曲だ、これ?」


 これまで七瀬がリクエストしてきたのは、今までに聞いたことがあるような有名曲だったので、それを歌っていた。

 こんな見たこともない曲の楽譜を渡されたことは一度もなかったので、渡されて戸惑う。


「んー、内緒。気にしなくていいから歌ってよ」


 舞は少しいたずらっ子めいた口調で、心弾むように話し始めた。

 しー、と舞は口元に人差し指を立てて当てる。

 人差し指が当てられた唇に自然と俺の目は惹きつけられた。

 ぷるんっとつやつやに輝き、柔らかそうな桜色の唇は、逸らし難いほどに魅力的だ。


 腰を折って上目遣いに見てくる舞の姿は、どこか余裕そうで年齢以上の色気を纏っている。

 男の本能をくすぐる彼女の蠱惑的な表情に、俺の心の奥底はきゅっと締め付けられるような感覚に襲われる。

 この甘く苦しい痛みは不思議と嫌ではない。どこか心地良ささえ覚えた。

 

「でも、これ歌詞がないんだが?」


 歌ってよって言われても、歌詞がないのにどう歌えばいいというのだ。

 それとも見えない文字で書いてあるとでもいうのか?

 そう思い、目を凝らしてみるが、文字が浮かび上がってくるはずもなく、音符と線のみが紙に書いてあるままだった。

 

「楽、そんなに見ても浮き上がってきたりしないわ。どこにも書いてないわよ」


 クスクスと、肩を震わせておかしそうに笑っている。

 さっきの大人っぽい雰囲気とは異なるあどけない笑みの舞は、自身の持つ類稀なる純粋さがにじみ出ている。

 そんな彼女の見ていると、こっちの頰が自然と緩んでしまう。


「そ、そうか」


 まさか自分の行動がバレていたとは。

 普通に考えて、浮き出てくるはずがない。

 間抜けな行動を知られ、少しだけ恥ずかしさを感じる。

 

「楽なら歌えるかなって。無理そう?」

 

 舞は少しだけ不安げな表情で尋ねてくる。

 眉をヘニャリと下げ、口をキュッと窄めてこちらの様子を伺うように、上目遣いだ。

 あまり見ない弱気な雰囲気にドキリと胸が高鳴る。


 そんな表情を見せられたら無理だと断ることなど出来るはずがないだろ。


 彼女は、俺と出会ったあの時のことを思い描いて言ってきたんだろう。

 感じたことを音楽という言葉に出来る俺なら歌えるのではないか?そう彼女は考えているみたいだ。

 

 出来なくはない。多分出来る。

 だがあれは無意識のうちにやったから出来たことであって、意識して出来るかは、本人である俺にも分からなかった。

 ただせっかく舞が期待してくれたのだ。やってみる価値はある。

 これまで自分の意思で、感じたことを歌にしたことはなかった。

 新しい試み、それは俺の心を少しだけ胸躍らせた。


 わくわくとした気持ちを抱えながら、舞から貰った楽譜を眺める。

 音程、曲調、テンポなど、楽譜から読み取れることを次々と把握していく。

 把握した情報は脳内で構築され、曲として再生されていく。


 どこか弾むようで甘い柔らかい雰囲気の曲。

 だが、ところどころに音の強さが走り、ブレない芯を意識させられる。

 正反対の2つの要素が足を引っ張り合うことなく、上手く重なり、相乗効果を引き起こしている。

 受けた印象はまるで舞本人の雰囲気をそのまま曲にしたような感じだった。


 あまりに見事な完成ぶりに、どんどん曲の中に引き込まれていく。

 作った人が何を意図してこの曲を作ったのか知りたくなり、背景まで探り始める。

 深く深くどこまでも。

 この曲について知ることができる全てを把握するほど深くまで潜り込む。

 

 気付くと俺は歌い出していた。


 探り出せ、この曲の意図を。なぜ作曲者はこんな曲を作った?

 手がかりがないなら歌おう。言葉にしなければ。

 感じたことを言葉にすれば、それはこの曲を知る手掛かりになる。

 ただ言葉にするだけでは足りない。歌詞にするんだ。

 曲に合わせなければ、それは歌詞にはならずただの言葉のままだ。

 歌え。歌え。歌え。


 感じたことは感情になり、俺の心を揺らし始める。

 感情を乗せた歌詞は曲と合わさり、力を織りなしていく。

 舞は言葉を力にした。それなら俺は歌だ。歌を力にしてみせる。


 なぜ舞の雰囲気をこの曲から感じた?この曲はなんだ?

 弾ける心。甘く痺れる柔らかさ。のめり込み沈み込むような魅力。奥深く、どこまでも底を見せない器。

 歌詞にしたそれらは、俺に手がかりをもたらす。

 これらの言葉を俺はどこかで感じたことがある。それも一回だけじゃない。

 どこだ?いつだ?

 思い出せ。思い出せ。


 記憶を糸を辿っていく。どこまでも、どこまでも。

 そして、俺は一つの結論にたどり着いた。


 ーーーー恋だ。


 ああ、感じたことのあるこの印象は、舞のことを考えている時の自分の心だった。

 舞と話している時に、自分の感情を揺さぶり、心をじんと痺れるように浮き立たせていた想いだった。


 この曲は恋の曲だと気付く。そして自分のこの想いも恋なのだと自覚した。

 薄々は感じていた。だが認めたくはなかった。

 一度でも認めてしまえば、それは朧げなものからはっきりとし輪郭のあるものに変わり、止まることなく想いは大きくなってしまうから。

 

 だがもう認めるしかない。

 俺は舞が好きだ。どうしようなく諦め切れないほどに舞のことが好きだ。


 はっきりと自分の恋心に気付くと、俺は歌を歌い終えていた。

 

「……優しい歌ね。甘くて柔らかい包み込むような感じね。聞いてて私、ドキドキしちゃったわ。もしかしてその歌詞って恋の歌?」


 舞は閉じていた瞼をゆっくりと開く。

 彼女の睫毛は濡れており、光を反射して煌めいていた。


 熱っぽい潤んだ舞の瞳と目が合った。

 舞は少しだけ恥ずかしそうに目を伏せながらも、俺と視線を交わし続ける。

 上気して桜色に頰を染めたまま、口元を緩め、微かな笑みを作った。

 その瞬間はまるで告白されるかのようで、緊張と期待が一気に俺を襲い、ドキドキと胸が激しく拍動し始めた。


 舞は悦に入ったような感じで話し始める。

 甘く蕩けるような声は、何度聞いても飽きることはない。

 俺の心に抵抗なく入り込み、暖かさを与してくれる。

 俺は、自分の心の中にじんと染み渡る舞の想いを噛み締めた。

 

「ああ、そうだ」


 自分の気持ちに引っ張られて恋の歌にしたのだろうか?

 だがこの曲は恋の歌だと、歌っている時に自然と感じた。

 おそらくこの曲を作った人も誰かを好きで、その想いを乗せて作曲したと思われる。

 人に気持ちを自覚させるほどの揺さぶりを与えられる曲。

 そんなものを作った人はどれほどの想いを抱えていたのだろうか。


 才能という言葉は、皆がそう感じて初めて意味を成す言葉である。

 誰が1人がすごいと思ったところで、それは才能ではない。


 この曲は無名で俺は初めて聞いた。

 だがそれでも驚嘆を零すほどすごいと思った。

 この曲をすごいと思うのは、今はまだ俺1人かもしれない。

 だが確実に誰もが感激すると思える曲、それならばこの作った人は才能があると呼んでもいいのではないか、そんなことを思った。

 

 人の心を震わせるほどの曲を誰が作ったのか少しだけ気になった。

 

「じゃあ、今日はもう終わりにしましょう」


 曲の余韻に浸る間も無く、唐突に別れを告げられる。

 いつもなら、歌い終わったあとに多少話していたので、あまりに意外で驚いた。

 突然の提案は、払拭できない違和感を俺の心に残す。

 

「は?カップルぽいことはいいのか?」


 1週間前に受けた提案はどこにいったのだろうか?

 せっかく彼女から引き出した小さな願い。

 それは俺にとって楽しみで、今日も少しだけ期待してこの場に来ていた。


「あー、あれはなしで。ひと時の気の迷いだったわ」

 

 底冷えする声。普段の彼女からは想像つかないほど低い声。

 だが、その言葉に芯の通った強さはなく、虚無を滲ませていた。

 今の舞の言葉は音の出ない鍵盤のような虚しさだった。


 舞は冷徹に振る舞おうとしているが、あまりに不自然すぎる。

 冷たさを出しても、それはあまりに白々しい。

 

 やりたいことは全部やると言っていた彼女が、そんな簡単に願いを覆すとは思えない。

 俺に脅しまでして歌わせたのだ。それだけ強い決意をもって彼女は人生を突き進んでいる。

 そんな彼女が願いを捨てるわけがない。


 日常と外れた行動、それをするのは理由があるはずだ。

 その理由がなんなのかは俺には分からない。

 だが、今日会った時の彼女の様子の変化の理由が関わっているのは明白だ。

 舞は何か隠しているのだ。


 俺は舞が隠そうとしていることに、触れないでいようと思った。思っていた。彼女が俺にしてくれたみたいに。

 だが、触れようと思う。触れなければならない。


 今、舞は自分の願いを捨てようとしている。

 真っ直ぐに明るかった彼女が、今、影ろうとしている。

 それは許せない。彼女には幸せでいて欲しいのだ。


 例え死という運命が待ち受けていようと、それでも進もうと思える彼女の心に憧れた。尊敬した。

 俺の独りよがりだとしても舞のそんな美しい姿が好きだ。

 そんな綺麗な姿を損なわせようとする存在から彼女を助けたい。

 

 ーーーー俺は彼女を救う力になりたい。


「なんでそんなに強がっているんだ?」


 俺は舞の虚勢を壊す。

 例え彼女にとって嫌なことだとしても、彼女の心に踏み込むにはこうするしかない。

 人の心に踏み込むには相応の覚悟が必要だ。

 

 誰もが自分の領域を持っている。

 その弱い部分には、普段人を入れることはない。入らないように壁を作っているからだ。

 

 今俺が行っているのはそんな壁をぶち壊し、中に強引に入る行為だ。

 他人が自分の領域に入ってこようとすれば、非難を浴びる。攻撃を受ける。火傷を負う。

 それ受け、怪我を負う覚悟がなければ、踏み込んではいけないのだ。


 俺には覚悟がある。舞に嫌われてもいいという覚悟が。

 例え俺が嫌われたとしても、それでも俺は舞の力になりたい。

 彼女が心から笑って過ごせる日常を守りたい。

 彼女に幸せな日々を送って欲しい。


 俺の願いが叶うのならば、嫌われることなど怖くない。

 

「……は?え? つ、強がってなんかいないわ。別に普通よ」


 踏み込まれた舞は予想通り、驚いたように目を見開く。

 くりくりとした瞳は小動物のようで愛らしい。

 俺と目が合うと、戸惑いに染まった瞳は横を向き、舞は俺からの追求を逃れるように顔を逸らした。


 こんな彼女の愛らしい瞳が嫌悪を宿して俺を見るようになるのを想像すると、怖いし辛くなる。

 だがそれでも俺は、彼女の心に踏み込まなければならない。


「いや強がってる。普段の舞はそんなこと言ったりしない。もし本当に断るかならもっと丁寧に言ってくる。最初から嘘ついてただろ。お前は普段から話すことが正直で強い言葉を放つから、嘘をつくと白々しすぎる」


 彼女の言葉は率直で純粋でそれゆえに強い。

 一切の否定のしようがなく、素直に受け入れるしかない。

 そんな彼女が嘘をつけば、一瞬で分かるのは道理だ。

 素直に思ったことをそのまま言うから、受け入れられるのだ。

 嘘をついて中身のない彼女の言葉など、人の心に届くはずがない。

 

「そ、そんなのは楽の気のせいよ!」


 嘘を指摘し舞の虚勢を崩しても、それでも彼女は強がり続ける。

 舞はもうずっと強がり続けてきたのだろう。

 それはこれまで話してきた中で感じていた。

 死という誰もが恐れる事象を前にして、彼女が突き進むにはそうするしかなかったのだ。

 なんと痛ましく尊いことか。

 傷付きながらも進み続けるのは誰しもができることではない。


「なあ、俺には話せないのか?」


 そんな彼女の強がりを俺は素直にすごいと思う。

 俺には出来なかった真っ直ぐに進むことをしてきたのだ。

 これまでにどれほど辛い思いをして、何度挫けそうになり、それでも何度も立ち上がり歩んできた。

 想像するだけで、自分の心に痛みが走る。


 ボロボロになりながら進んできた彼女には、休息が必要なのだ。

 年相応に甘え、弱音を吐かないといけない。

 俺は前に彼女の弱さを受け入れられる存在になりたいと強く願った。


 今がその時だ。

 今こそ彼女に寄り添い、受けてきた傷を癒さなければならない。

 何も恐れるな。肝心な時に助けてこそ男というものだ。

 ただ上辺だけで舞のことを好きになったのではない。

 彼女に救われ、癒されてきた経験があるから俺は彼女を好きになったのだ。


 さあ、これまでの恩を返そう。舞を幸せにするために。


「……何も話すことなんてないわ」

 

 舞は下を俯き、俺のことを一切見ようとしない。

 髪で隠れて表情は見えないが、唇を噛みしめているところだけちらりと見えた。


 舞は俺のことを拒絶しようとしてくる。

 だがその言葉はあまりに弱々しく、刺がない。

 本当に俺を近寄らせたくないなら、怒鳴り散らすなり、もっとひどい罵声を浴びせればいい。

 それをしないのは彼女自身の生来の優しさゆえだろう。


 中途半端な拒絶は拒絶ではない。それは助けを求める心の叫びだ。


 俺はその心の叫びを知っている。俺自身が未来でそうやって苦しんできたのだから。

 その苦しみからの拒絶を破ったのはお前だろう、舞。

 お前が俺の心に踏み込んで、俺に歌を歌わせたんだ。


「俺はお前に救われた。今度は俺がお前を助けたいんだ。ほんの少しでもいい。力になりたいんだ。お前はこれまで頑張ってきたよ。強くあろうとしていたし、現にお前は強くなれていたよ。でも少しは休んでもいいんだ。たまには弱さを出してもいいんだ。誰にでも出せとは言わない。誰か1人でもいい。そんな相手がないとお前は壊れてしまう。俺がかつて壊れたみたいに。俺がそんな存在になるのはダメか?」


 相手の心に踏み込むには自分の心を開かなければならない。

 自分の心を閉ざしたまま言葉を吐いたところで、そんなものは相手に何も伝わらない。

 自分をさらけ出して初めて言葉は力になる。

 自分を見せない者に、他人の心に踏み込む資格はない。

 だからさらけ出そう。俺がこれまで舞に感じてきたことを。


 恥ずかしいが構うものか。

 こんなもので舞が救えるならいくらでも見せてやる。

 舞がまた明るく真っ直ぐに生きていけるなら、俺の想いを全部伝えてやる。


「…………」


 俺の想いを伝え終えたが、舞は俯いたまま一向に口を開こうとしない。

 俺と舞の間に沈黙が立ち込め、風の吹く音のみが聞こえてくる。

 虚しく吹き抜ける風音が、俺の言葉が無意味だと突き示しているようだ。


 ……ダメだったか。

 俺に出来ることは全部尽くした。

 羞恥を押し込め、嘘偽りなく自分の気持ちを無様に晒しても伝わらないなら、もう俺に出来ることはない。

 残酷だが現実だ。受け入れないと……。


 俺の言葉では舞の心に届かなかった、その辛い現実に足元から崩れ去りそうになる。

 グラグラと揺らぐ視界に倒れそうになった時、舞はゆっくりと沈黙を破った。

 

「……ねぇ、ぎゅーしてくれる?」


 俯いたままではあるが、上目遣いこっちを見てくる。

 その頰は桜色に染まり、可憐な雰囲気が醸し出ている。

 少しだけ気まずそうに、時節目を伏せては、またこっちを見てくる姿はいじらしい。

 切なく消え入りそうな甘い声で紡がれたセリフは、俺の予想外のものだった。

 

 「は?なんで、今?」


 あまりに意外な要求に、思わず間抜けな声で聞いてしまった。


 ぎゅーというのは、つまり抱きしめて欲しいということだろう。

 さっきまで、真剣に舞の返事を待っていたというのに、そんな提案をされては一気に腑抜けてしまう。

  

「いいから!楽は彼氏役なんだからそのぐらいいいでしょ?」


 舞は少し強めの口調で意思を押し通してくる。

 自分で言っていて恥ずかしいのか、舞の顔は羞恥に染まっていてりんごのように赤い。

 耳まで真っ赤に染まった姿は、愛しく抱きしめたくなるほどに可愛い。


 さっきまで「なし」と言っていた擬似恋人関係を理由にしてきたことで、彼女の心が変わったのが分かり、ホッと俺は安堵した。

 舞がいつもの状態に戻った、それだけで自分のしたことが報われた気がする。

 

 何かを諦めたり挫けたりする姿は舞には似合わない。

 天真爛漫に笑って、幸せそうに今を生きている姿が舞に合っている。

 彼女には常に全力で突き進み、強くあろうとして欲しいのだ。

 

 ーーーーああ、俺はやっぱり明るい舞が1番好きだ。

 

「……わかったよ」


 緊張で自分の心臓がうるさく鳴り響く中、俺は一歩また一歩とゆっくり舞に近づいていく。

 ドクン、ドクンと拍動する心臓音は、耳元で聞こえてくるように感じるほど大きい。


 彼女との距離がなくなり、俺は腕を広げる。

 広げると、気付く間も無く舞は俺の腕の中に飛び込んできた。

 慌てて舞を受け止め抱きすくめる。

 ふわりと鼻腔をくすぐるフローラな舞の匂いを感じると同時に、彼女の身体の細さに驚いた。


 彼女の身体は想像以上に華奢だった。

 自分の腕の中にすっぽりと収まるほど細い身体は、力を入れたら折れそうで、抱きしめるのに緊張してしまう。

 細いのに骨々しさはなく、腕に触れる彼女の身体は柔らかく女の子らしさを感じさせてくる。

 

 だが、好きな女の子の身体に触れていることの興奮も喜びも感じる余裕は、俺にはなかった。

 抱きしめた彼女はそのか細い身体を震わせ、何か怖いものを恐れ怯えるようにしていた。

 すがりつくように強く、舞は俺を抱きしめる腕に力を込めてくる。


 その姿は彼女が見せてくれた弱い部分の一部であり、俺が受け止めると覚悟したことだ。

 心を決め、俺は怯える舞を癒そうと抱き返した。

 

 その力に少し安心したのか、抱きしめる力を緩め、舞は耳元で囁き始めた。


「私、心臓が悪いの。それでこれまでドナーが見つからなくて、もって半年だって言われてきたの。でもドナーが見つかったの。それで手術を受けることになったんだけど成功率は3割なんだって。まだ生きられるかもしれない、そんな希望が生まれたことは嬉しいわ。だけど死んでいるかもしれない。私、本当は死ぬのが怖いの。強がって精一杯生きるなんて言ってるけど、全然そんなことない」


 消え入りそうなほど弱々しい声で零した彼女の弱音は、俺の心をギュッと握り締めた。

 彼女の抱えている恐怖、それを打ち消そうとこれまで強がってきた意地、激変する状況についていけなくなった舞の心、それらは俺の肺を押し込み、呼吸を苦しめる。


 慰めの言葉など吐き出せるはずがなかった。

 大丈夫、なんて安易な言葉を使いたくなかった。

 そんな言葉を使うのは、死を受け入れ強くあろうとしている彼女に対してあまりに無礼だ。


 1度目の人生では舞は死ななかった。だからといって今回死なない保証はない。

 確証もないくせに安心させようなんて考え自体が間違っている。

 舞に慰めの言葉など不要だ。彼女に必要なのは、弱音を吐き出せる場所だけだ。

 吐き出せば彼女は自然と立ち直れる。それほど彼女は真っ直ぐで強い人だ。


 だから俺はひたすら抱きしめた。

 俺がそばにいると伝わるよう懸命に抱きしめ続けた。


「……ありがとう。少しだけ楽になったわ」


 しばらくの間、互いの温もりを感じ続けていると、舞は落ち着くしっとりとした声を小さく発して、埋めていた俺の胸から顔を上げた。

 その舞の顔はどこかすっきりとした表情で、見ているこっちまで清々しい気持ちにさせる。


 少しは癒すことが出来ただろうか。力になることは出来ただろうか。

 彼女に受けた恩はまだ返しきれていない。

 だが僅かでも返せていたなら俺は満足だ。


「手術はいつなんだ?」


 運命の日、舞の生死が決まり、俺にとっても天国にも地獄にもなる日。


「1ヶ月後よ」


「…っ」


 思わず息を飲む。

 あまりに短い。半年と思っていた確約された生の時間は、1ヶ月のあやふやな生の時間に変わってしまった。

 こんなことを聞いて動揺しないはずがない。舞があれほど取り乱して諦めようとなるのも頷ける。


「そのために1週間後からまた入院よ。もう外を見れることがなくなるかもしれないの」


 今もまだ心の整理がつかず、内心は混濁で渦巻いているはずなのに、舞は淡々としている。

 弱音を吐き出したことが効いているのだろう。その切り替えの早さが舞の強さだ。

 

「じゃあ明日デートしよう」


 俺は唐突に提案する。

 彼女に残された時間は少ないかもしれない。その焦りが俺に突然の要求をさせた。


「デート?」


 首を僅かに傾げ、きょとんと目を丸くする舞。

 そんな姿でさえ可愛いと思ってしまうのだから、俺は重症だ。

 

「貴重な残り少ない出歩ける1週間だ。カップルぽいことしたいんだろ?デートはしたくないのか?」


 偽の恋人関係を理由にしないと誘えない俺は意気地なしだ。

 それでも、俺は舞とデートをしたかった。

 彼女と少しでも多くの時間を一緒に過ごしたかった。

 

 そんな俺は多少強引にデートに誘う。


「し、したいわ……」


 舞はデートの意味を理解したのか、顔を赤らめる。

 うろうろと視線を左右に彷徨わせ、焦点が定まらない。

 舞もデートに少し期待してくれているみたいだ。

 俺は彼女の慌てる様子が微笑ましく嬉しかった。

 

「じゃあ、決まりな。明日にするか」


「わ、わかったわ」


舞は桜色に頰を染め、声を上擦らせながら返事してきた。

こうして俺と舞はデートをすることになった。

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