第6話 名
「カップルっぽいことって何をすればいいんだ?」
目尻を下げて、眩しいほどに笑う七瀬に語りかける。
俺は彼氏役を頼まれて、舞い上がって受け入れてしまった。
だが少し冷静になると、ふと疑問が脳内に浮かび上がってきた。
七瀬に彼氏役を頼むと言われて受け入れた。今の俺たちは極めてカップルに近い関係と言えるだろう。
だがそれでも普通のカップルとは異なる関係なのだ。
それはつまりどこまでかの線引きが存在するはず。
どこまで互いに踏み込み干渉し、どこからは触れないでいるか。
それはカップルに関係なく重要で、人が無意識にやっていることだ。
だが今の俺と七瀬の関係は不思議な関係であやふやな繋がりなのだ。
一般的な距離感は通用しない。だから明確にしておく必要があった。
もしかしたら俺はこの問いの答えで、七瀬がどこまで許してくれるのかを知りたかったのかもしれない。
そう自覚すると、自分のずるさや醜さが痛感させられ、反吐が出た。
「んー」
七瀬は考えるように腕を組んで下を向く。
口を突き出すようにしているので、彼女の柔らかそうなさくらんぼ色の唇が強調され、目を引かれる。
ぷるんとした唇は、いやに赤みを帯びており、彼女の肌の白さのおかげでより色っぽさを醸し出していた。
そんな熟れた唇に目を奪われていると、風に揺られて、きらきらとと黒髪が煌めくのが目に入った。
丁寧に手入れされた艶やかな黒髪は、そよそよと吹く風に合わせて色踊る。
ただ佇んでいるだけなのに、どこか絵画のような美しさを感じさせてくる七瀬の姿に、思わず胸がドキリと鳴った。
「そうだわ!私がしたいなって思ったことを言うから、それを2人でするってのはどうかしら?」
七瀬は何かを思いついたように目を輝かせて、パッと顔を上げた。
顎に指を当て、こてんと頭を傾けて提案してくる。
七瀬のくりくりとした引き込まれるような黒い瞳と目が合った。
七瀬の提案は俺が期待したものとは違った。
俺はどこまでカップルらしい行為をする気なのかが気になっていた。
しかし彼女には伝わらなかったらしい。
あるいは、分かっていて口にしていないのか。
気付いていてあえて言わないのはなぜだろうか?
七瀬は勘が鋭いところがある。
俺の意図など見通して、あえて教えてくれないのかもしれない。
彼女が何を考えていて、何を思っているのか他人の俺には推し量ることしかできない。
考えても彼女の思いが読めない時は諦めるしかないのだ。
「……分かった。それでいい」
七瀬の考えていることが全く分からず、少しだけ気になる。
だが俺が考えすぎで、実際には七瀬は言葉のままの意味を取った可能性がある以上、さらにつっこむのは躊躇われた。
止むを得ず、了承の返事をする。
「じゃあ、まずはお互いに名字呼びは不自然だから、名前で呼び合いましょう」
七瀬は少年のような無邪気さを醸し出しながら、弾んだ声で言ってきた。
「分かった。じゃあ、よろしくな、舞」
確かに偽とはいえ、恋人同士で名字呼びというのはおかしい。
人というのは名前を呼ばれれば、心を開き始める。
名字呼びから名前呼びに変われば、それだけで親しみが生まれてくるものだ。
七瀬との距離感が近づけばいいな、というちょっとした下心もあり、俺は七瀬の名前を呼んだ。
「……っ!?」
すると、舞は身体をビクッと震わせた。
舞は驚いたように目を見開いて、ほんのりと桜色に頰を染めている。
そのまま動きが固まり、しぱしぱと長い睫毛を重ね合わせ、瞬きを繰り返していた。
「どうした?」
「急に呼ぶから驚いて……。異性に名前を呼ばれるのってこんなにドキドキするのね」
俺の問いかけに動揺したようにうろうろと視線を彷徨わせ、下を向いてしまった。
だが時々俯き加減に目を伏せているのに、上目遣いにチラッとこっちを見てくる。
しかし俺と目が合うと、慌てたようにすぐ下を向く、そんなことを何度も繰り返していた。
舞の零す言葉が華のように舞う。
甘く蕩けるような語調で口にする舞の姿は、淡く桃色に色付いた妖精のようだった。
「……そうかよ」
あまりに可愛い姿に息を飲む。
そんな照れたような顔をするな。
名前だけでそんな初々しい反応を見せられたら、勘違いしそうになるだろ。
浅ましくも、好かれているのではないか?、なんて思ってしまう。
すぐなんでもないことに意味を見出そうとする、そんな自分が嫌になる。
ふと気付くと、何もないところから好かれている証拠を探している自分が気持ち悪い。
ざわめく感情を抑えて、出来る限り平静に俺は答えた。
「ねぇ、もう一回呼んで?」
舞は頰を赤くして、もう一回お願いしてきた。
両手を胸の前で合わせ、上目遣いに見てくる舞の表情はどこか蠱惑的で、年齢以上の色気があった。
ずるいやつだ。そんな顔で言われたら断れるはずがないだろ。
「舞、これでいいか?」
名前を呼ぶのはどこか気恥ずかしく、つい視線を逸らしてしまう。
ああ、心臓がうるさい。
舞はどこまで俺の心を揺らすのだろう。
心を乱されるのは嫌だった。
なのに七瀬になら乱されてもいいと思ってしまうのだから、俺は重症で手遅れだ。
「ふふふ、こんなに嬉しいものなのね」
舞は頰を茜色に染めながらも、楽しそうに微笑んだ。
柔らかく心に溶け込むような優しい笑顔は、いやでも俺の脳裏に焼き付く。
忘れられない記憶の一片として、俺の頭の中に残り続けた。
舞と別れて家に帰り、今日の出来事を振り返る。
妙なことになったものだ。
気になる異性を相手に彼氏役を受けるなんて、俺は間抜けか?
どう考えてもいつか限界を迎えるだろ。
今のこの舞を想う気持ちは、接する時間が増えるほどに、加速的に積み重なっている。
そんな気持ちを抱えて隠し通せるわけがない。
いつか吐露してしまうだろう。
かといって舞の提案を断ることは出来なかった。
彼女の願いは可能な限り叶えたかったし、少しでも彼女の隣にいたかった。
彼女の願いを理由に、俺は辛くてもそばにいることを選んだのだ。
彼女は俺の声が好きなだけなのだ。
彼女に好意を向けてはいけない。そんなことをしても彼女には迷惑なだけだろう。
この想いは隠しておかなければならない。
何度も何度も強く自分に言い聞かせる。
彼女には可能な限り幸せでいて欲しいのだ。自分のこの独りよがりな気持ちで苦悩させたくない。
彼女は死という大きいものを既に抱えてしまっている。
そんな彼女にこれ以上負担をかけたくないのだ。
ただ、もしも、本当にただの可能性の話だが、舞が少しでも好意を抱いてくれていたなら、その時は頑張るとしよう。
明日も会えるし、また少し仲良くなれるといいんだがな、そんなことを考えているとLINEのメッセージが来た。
「ごめんなさい、明日から1週間ほど入院しなければならなくなりました」
舞から送られてきたメッセージを読んで、ガンッと殴られたような感覚が心を襲った。
浮ついていた気持ちが一気に吹き飛ぶ。
彼女の身体が弱いことは、頭では理解していた。
だがそれは言葉で理解していただけで、実感の伴ったものではなかった。
ただ概念的に捉えていただけだった。
彼女は本当に病気なのだ。それも入院するほどの。
一体なんの病気なのか?気になるが重要なのはそこではない。
彼女は確かに身体弱くて、入院するほどの病気を抱えている。
舞がいつかいなくなってしまう、その恐怖が俺の背中をぞわりと撫で付けた。
「分かった。体は大丈夫なのか?」
悪寒を抑え、メッセージを打つ。
1文字打つたびに不安がどんどん溜まっていく。
嫌に心臓の拍動が激しく、呼吸が浅い。
どこか不自然なところはなかったか?何か苦しむような動作をしていた時はなかったか?
今日一日の舞の行動を思い返して、何もなかったことを確認しなんとか落ち着こうとする。
「ええ、念のための検査みたいなものだから。そういうわけで悪いけど次は1週間後でもいいかしら?」
「了解」
検査だとメッセージで送られてきたが、背中に張り付いた嫌な予感が拭えなかった。
舞は大丈夫だ、そう自分に言い聞かせても、いつまでもひどい油汚れのように不安は俺の心に残り続けていた。
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