第5話 結
ベッドに飛び込み、枕にめり込むほど強く顔を埋める。
気づくと俺は自分の部屋に戻ってきていた。
帰る途中、どこを通ってどうやって歩いてきたかの記憶は一切なく、思い出すことが出来ない。
ただ、七瀬と会話した一連の流れだけが、ずっと頭の中に残り続け、ぐるぐると渦巻きし続ける。
最悪の1日だ。
今日は運命の日を回避できた最高の日だったというのに、あの七瀬のせいで全部めちゃめちゃだ。
なんなんだ、あいつは!?
急に話しかけてきて、俺の声を褒めちぎるわ、俺に歌手を勧めてくるわ、もうわけがわからない。
ベッドの上で七瀬の態度に戸惑い続ける。
俺は七瀬のことが苦手だ。
1度目の時は深く関わらなかったので、どんな奴なのか分からなかったが、こんな奴だとは思っていなかった。
興味を持って話しかけたいどころか、今後一切話したくない。
七瀬と話していると、道を間違えそうになる。
あの一切曇りない瞳で見つめられると、自分で決めた人生の選択が揺らぎそうだ。
俺の汚れた内心まで見透かされそうで怖い。
なぜ七瀬は、あんなに俺に歌手になることを勧めてくる?
俺の歌にそんなに惚れ込んだというのか?
そうだとしても初対面の相手にそこまで拘るか?
普通は少しは遠慮をするだろ。
七瀬の異常な行動が理解できない。
不可解な行動はそれだけで怖いし、関わりたくない。
自分の決断を揺るがす言動を取る七瀬への苦手意識と、彼女のずれた行動への忌避感に、俺はもう絶対話さないと、心に釘を打った。
------だが、得てして避けたいことほどよく起きるものである。
俺は次の日、また学校の屋上で七瀬と向かい合っていた。
「LINEで脅しなんてことまでして、俺を呼び出して何を話す気だ?」
昨日の夜遅く、寝ようとベッドに横になっていたら、一通のLINEのメッセージが俺のスマホに届いた。
『初めまして、七瀬舞です。どうしても伝えたいことがあります。明日、また学校の屋上に来てください。来なかった場合は、音方君には文化祭で歌を披露してもらうように、クラスの話し合いで提案させてもらいます』
昨日、このメッセージを貰って、心から湧き立つほどの怒りと嫌悪を覚えた。
今でもまだその残り火がちらちらと燃えついている。
もう二度と話す気などなかったが、こんなメッセージを貰っては、行かないわけにはいかなかった。
せっかくここまで平凡に生きてきたというのに、また文化祭で歌うようになったら、全部が台無しになってしまう。
最悪だ。どこまでお前の行動は自己中心的なんだ。
まだ俺に歌手を勧めてくるのはいい。
お前からしたら単純に『俺の声が好きだから歌手になれそう』という軽い思いだけで、言ってくれたんだろう。
お前の言葉のせいで、俺の決断が揺れそうになるから苦手なだけだ。
俺が心の平穏のために、避けたいと思っているだけだ。
だが、脅しまでして俺と関わろうするのは、あまりにも一人よがりだろ。
やめてくれ。俺の気持ちを少しは考えて欲しい。
俺の平穏を乱すお前とは、関わりあいたくないんだ。
頼むから静かに過ごさせてくれ。
誰に話すわけでもない、俺の悲痛な願いが、心に溜まり続ける。
叶うことはなく、もう既に時は遅い。
俺は絶望に暮れるしかなかった。
ひたすらに、俺は悲嘆し続けるしかなかった。
会いたくない思いが内心の大部分を占めている。
だが、七瀬が脅しをしてまでも伝えたいことはなんなのか、少しだけ気になった。
そんな思いを持って、俺は今七瀬と対峙している。
睨みつける俺に対して、七瀬はまったく臆する気配がない。
じっと見つめる俺に対して、その熟れた赤い唇でゆっくりと口角を上げる。
そしてわずかに笑みを作り、明るい弾むような声で、あっさりと衝撃的な言葉を紡いだ。
「音方君、私、あと半年で死ぬの」
七瀬はあまりに自然に、死という言葉を口にした。
笑顔を見せて、当然のように話すその口調には、死への恐怖も、絶望の陰りも一切ない。
その軽い物言いは、まるで挨拶をする時のようだ。
「は?冗談だろ?」
突然の予想外な言葉に、思わず返事をする。
七瀬の態度には違和感しかない。
本当に死ぬことが決まっているなら、もっと動揺するはずだ。
こんなに明るく気丈に振る舞えるはずがない。
だから俺には、彼女の言葉が嘘か、それとも俺を騙す冗談にしか聞こえなかった。
「冗談なんかじゃないわ、本当よ。ほら、私のこの病的な真っ白な肌を見れば分かるでしょう?健康な人ならこんなに白いわけがないじゃない」
そう言って雪のように白い腕を見せてくる。
彼女の腕は真っ白くきめ細かい肌で、太陽の光を眩しく反射していた。
確かに彼女の肌は白い。人と比べなくても一目で分かる白さは異常だ。
だが、元々彼女が持つ儚い雰囲気と相まって、肌の白さは、彼女の魅力を筆舌し難いほどに引き立てている。
その異常な白さでさえ引き立て役として機能させ、彼女を美しいと思わせるほど、七瀬は完璧な美少女だった。
だから、俺は彼女の白さに違和感を感じていなかった。
七瀬に言われて初めて自覚する。
確かにこの白さは異常だ。むしろ今までなぜ気づかなかった?
これまでとの認識のずれに動揺し、心が戸惑う。
理解してみれば確かに七瀬の言葉には説得力があった。
「なるほど、言われてみれば確かにその白さはおかしい。そこは認めてやる。だが仮に七瀬が死ぬほど酷い病気を持っているとしたら、病室にいるんじゃないのか?それにもっと悲んで絶望しているはずだろ」
七瀬の理由は納得するだけの説得力がある。
もし彼女が涙を流して、悲しみに声を震わせながら言っていたなら、俺は信じていただろう。
だが七瀬の態度があまりにおかしすぎるのだ。
なぜ笑っていられる?どうしてそんなに楽しげに自分が死ぬことを語れる?
あまりにも異常。俺には到底信じられない言動の数々。
それが俺に疑問を抱かせていた。
「ええ、もちろん私だって最初は悲しんだものよ。初めて医者に聞かされた時なんて大号泣したものだわ。当然でしょ、私だって人間だもの。音方君、そんな信じられないものを見る目で私を見ないでちょうだい」
俺に聞かれた問いに対して、七瀬は淡々と自分の過去を語る。
その話し方は吹っ切れたように清々しく、彼女の潔さを表しているようだった。
どうやら俺が七瀬に対して警戒していることが伝わっていたらしい。
七瀬は不満気に口を尖らせ、少しだけ恨めしそうに俺を見てくる。
そこには嫌味や怒りなどはなく、ただ俺に対して警戒心を少しでも緩めて欲しいという、彼女の心の内の願いが込められているように思えた。
俺は七瀬に人間味を感じて、ほっと少しだけ警戒の紐を緩める。
彼女から伝わってくる、今日初めての人間らしさが、俺にもう少しだけ話してみる気にさせた。
「じゃあ、なんで今はそんな笑っていられる?」
もっともな疑問。人なら死を直面すれば、当たり前に悲しみ、そして絶望する。
だが七瀬には負を帯びた雰囲気がなく、笑顔で明るく快活な雰囲気を持っている。
将来の明るい人生が待ち受けていると思っている若者の雰囲気そっくりだ。
俺は七瀬にも人らしさがあることをさっき感じた。
それなら七瀬が気丈に振る舞う理由があるはずだ。
普通とは異なる心構えをし、明朗快活な言動を取る。
俺はその理由に彼女の人となりの鍵が隠されている気がした。
「だっていつまでも悲観して落ち込んでいても仕方ないじゃない。生きられる時間は刻一刻と減っていくもの。だから私は前を向いて、精一杯今の時間を生きることにしたの。やりたいことは全部するって決めたの」
七瀬は決意したように目を鋭くし、真っ直ぐに俺を見つめてくる。
そして重く口を開いて、俺の鼓膜を震わせた。
彼女の声が空気をピンと張り、凛と音が響く。
はっきりとした声音は、俺の心を鋭く通り抜けていった。
言葉を吐き出す七瀬から、俺は目を逸らすことが出来ない。
七瀬のその強くあろうとする姿がとても美しかった。思わず見惚れてしまった。
俺が失ってしまった、何かに対して真っ直ぐに生きようとする姿勢が、輝く恒星のようにどこまでも果てしなく綺麗だった。
俺は彼女の見た目ではなくその心に、胸がじんと痺れるように打ち震わされた。
心の奥深くで、トクンッと微かだが確かに脈打つ何かを感じた。
「……なるほどな。そこまで話したってことは俺に何かをさせる気なんだろ?一体何をさせる気だ。言っておくが、歌手にはならないからな」
心を突き抜けた七瀬の言葉の余韻に浸る中、肝心な質問をする。
七瀬は『やりたいことは全部やる』と言った。
つまり、俺に何かをさせることが、七瀬のやりたいことなのだろう。
そして、そのために彼女は脅しという手段を使ってまで、俺を呼び出したと思われる。
ゴクリッと唾を飲み込み、覚悟を決める。
「まずは、歌手をしつこく勧めたことについてはごめんなさい。嫌がる音方君に、自分の希望を無理に押し付けるのは、あまりに自己中だったわ。歌に感動しすぎて配慮が欠けてしまったわ。本当にごめんなさい」
七瀬は申し訳なさそうに眉を下げ、目を伏せる。
そのままスッと腰を折り、シャランと煌めく艶やかな黒髪を揺らしながら、深く頭をゆっくりと下げた。
「……え?ああ、それはもういい」
あまりに予想外な謝罪に、決めていた覚悟がどこかへ吹き飛び、拍子抜けする。
意外に気にしていたのか。
確かに嫌だったが、別にこれ以上勧めてこないなら構わない。
七瀬の言葉は、心の奥底まで潜り込んでくるほど強すぎて、俺には耐えられないのだ。それがないなら特に問題ない。
「……許してくれてありがとう」
七瀬は俺の言葉にパッと顔を上げる。
ほっと安心したように結んでいた口元を緩め、ほんのりと笑みを浮かべた。
謝罪していた時の重たい空気はどこかへ吹き飛ぶ。彼女の周りには、また明るく柔らかい空気が漂い始める。
七瀬は嬉しそうに、高くも心地いい声で礼を言ってきた。
そして彼女がやりたいことについて、語り始めた。
「実はやりたいことをやるって決めたのはいいけどやりたいことって意外とないのよ。死ぬまでに絶対やりたいってほど強く思うものってそんなにないの。結局決断してから、私はずっとやりたいことが見つからないつまらない日常を、淡々と過ごしてきたわけ」
七瀬はわかりやすいほどに肩を落として嘆息をつく。
目を伏せて、やりきれないというように首を振った。
言われてみればそうだ。
毎日、色んなことをして過ごしているが、そのどれもが死ぬまでに絶対やりたいこととは思えない。
他にも、何かをして遊びたい、どこかに行きたい、美味しいものを食べたい、など色んな願いを持つことはあるが、強く叶えたいと思えるものはほとんどない。
ある意味、「絶対やりたいと思えるものに出会える』それ自体が幸運と言えるだろう。
七瀬の言葉に納得していると、彼女は死んだ魚の目から一転して目を輝かせて、弾んだ声でその口を開いた。
「でも昨日、あなたの歌に出会ったの。あんなに心が震えて泣きそうになったのは初めてだったわ。聞き終わって私はもう一度聞きたいと思ったの。強く強く、諦めきれないほど強く思ったのよ。だから音方君には、毎日私の前で歌を歌って欲しいの」
昨日のことを思い出すように下を向き、優しい口調で七瀬は、言葉を大事そうに紡ぎ出す。
その言葉はどこまでも真摯で本気であり、聞いているこっちの胸が痛くなってくる。
俺はその痛みから逃れるようにすぐに口を開いた。
「断る。歌なんか嫌いだ」
俺は間髪入れずに、七瀬に嘘をついて返事をする。
歌はもちろん好きだ。それは昨日、広大な青空を前にして歌い始めた時に自覚している。
だが七瀬の前では歌いたくない。
俺は怖いのだ。自分の人生の選択が変わってしまいそうで。
七瀬の感想はどこまでも正直で、心の中を全て曝け出して見せてくる。
そんな想いを訴えられれば、俺の決断はどうしても鈍ってしまうのだ。
『平凡に生きて幸せになる』それが俺の決断だと思い込もうとしても、彼女の言葉が脳裏をよぎってくる。
七瀬の前で歌を何度も歌っていれば、そのうち決断を変えてしまう、それが容易に想像できた。
だから俺は嘘をついてでも、そんな機会は得たくなかった。
「嘘ね。あんなに笑顔で歌う人が嫌いなはずがないじゃない。感情をのせて明るく歌える音方君が嫌いなわけがないわ。私、歌ってるときのあなたの姿がとても綺麗だと思ったの。周りに蝶が舞っているみたいで思わず見惚れてしまったわ。不覚にもドキドキまでしたのよ?そんな人が歌を嫌いでいるわけがないじゃない」
逃げようとする心の内を見透かすように、七瀬はその黒く輝く透き通った目で、俺をじっと見つめてくる。
そして真剣な眼差しで俺を射抜いたまま、次々と想いを零し始めた。
一つ一つ丁寧に、まるで自分の秘密を明かすかのように話す七瀬の口調は柔らかく、全てを包み込むように優しい。
言葉を口にするたびに、頰をほんのりと上気させ、絹糸のように白かった肌が桜色に染まっていく。
まるで告白のようなセリフを吐く七瀬は、あまりに可憐で、ただの女の子らしくて、俺は不覚にも胸が熱くなった。
ああ、やっぱり七瀬な言葉は恐ろしい。
人の心に染み入るような、柔らかい強さがある。
言われれば心が傾き、流されそうになる。
もしかしたら流された方がいいのかもしれない。
だが、俺にはそれが出来るほどの器用さはなかった。
一度でも決断したことを変える勇気が俺にはない。
未来を思い出して足が竦む。強く進む意気を失う。
「そんなのは七瀬が感じた気のせいだろ。俺は嫌いだ」
だから俺は、嘘を見透かされ、決断を変える道を七瀬から与えられてもそれは選ばずに、強がるしかないのだ。
俺は臆病者だ。だがそれがどうした。俺の決断の何が悪い。逃げることの何がいけないというのだ。
恐怖は本能だ。怖いものからは逃げる。嫌なものは避ける。それが普通だろ。なぜ立ち向かわなければならない。
俺はひたすらに理由を探し、心の中で言い訳をつらつらと並べ続けた。
「そう、やっぱり歌が好きなことは認めないのね。でも、私、言ったはずよ『やりたいことは全部やる』って。音方君の歌を聞くためなら何だってするわ。私の前で歌ってくれないなら、LINEで言ったみたいに文化祭のステージ企画に推薦するつもりよ。高嶺の花なんて言われてる私が言えば、少なくともクラスのみんなは話は聞いてくれるわ。どう?これでも私の前で歌ってくれないの?」
逃げたいことなど七瀬は勘付いているのだろう。
彼女は次々と止まることなく語り続け、俺の逃げ場を奪い追い込んでいく。
気付けば俺は逃げ道を完全に失っていた。
もう断れない。
歌う理由を与えられてしまった。歌えない理由を消されてしまった。
それなら俺はもう歌う以外の選択肢は取ることは出来ない。
「……はぁ、分かった。やってやるよ」
大きく息を吐いて、俺は観念して承諾した。
ここまでよく俺を追い込んだ七瀬を褒めてやりたい。
それにしても、まさかこれから毎日関わることになるとはな。
最初は七瀬とは関わり合いたくないと思っていた。
だが彼女の真っ直ぐな想いを知った今、不思議と関わるのも悪くないと思い始めている自分がいる。
将来を知り絶望して逃げた俺とはまったく反対の彼女は、顔を背けたくなるほどあまりに眩しい。
死が待ち受けても、それでもなお進もうと思える彼女の強い姿勢に、俺は尊敬と憧れを抱えている。
そして気丈に振る舞い、やりたいことは全力を投じようとする七瀬の姿に、少しだけ惹かれ始めていた。
「やっと拒否するのを諦めたみたいね。しつこいと思われても構わないわ。それだけ音方君の歌に魅力があるってことが伝わるでしょうしね。明日からが楽しみだわ」
弾むような明るい声で話しかけてくる。
自分の作戦が成功したことに笑みを浮かべて喜ぶ七瀬は、年相応の女の子に見えた。
彼女のふと見せたあどけない笑顔は、明朗快活、天真爛漫という言葉がとても似合うほど魅力的だった。
そんな七瀬の柔らかい微笑みがいつまでも俺の記憶に深く刻まれていた。
♦︎♦︎♦︎
七瀬の前で歌う約束を交わしてから、数日が経っていた。
あの日から屋上で、毎日七瀬と会い続けている。
俺が思っていた以上に、七瀬は普通の女の子だった。
普段の七瀬には、死を待ち受けてもなお精一杯生きようとする強い姿も、率直な言葉で強く心を揺さぶってくる眩しい姿も、一切なかった。
ただの可愛い女の子として、俺の歌を聞いては喜び、感想を述べて楽しく笑っていた。
七瀬のせいで、もう歌わないと決めていたのに歌う羽目になり、文句の一つでも言ってやりたかった。
だが、こんなに花が舞うような満面の笑みで楽しまれては、文句など言えなかった。
七瀬は本当に俺の歌が好きならしい。
1日1曲と決めて歌っているのに、毎日歌い終わるたびに「えー、もう一回歌って欲しいわ。ねぇ、お願い」と何度もねだってくる。
上目遣いに、胸の前で両手を合わせてお願いをしてくる姿は、あざといが素直に可愛らしい。
最初はその可愛さに負けて何度か歌っていたが、七瀬はいつまで経っても満足せず、終わりが見えなかったので、1日1曲と決めたのだ。
だがそれでも歌って欲しいらしく、諦めることなくねだってくる。
「ダメだ」と拒否すると、ムッと膨らませてこっちを睨んでくるがまったく怖くない。
そんな居心地のいい繰り返しが毎日なされていた。
そして今日もまた、七瀬に会いに学校の屋上へと来ていた。
「今日もいつもと変わらず綺麗な歌声だったわ。やっぱり私、音方君の声、大好きだわ」
歌い終わると、いつものように七瀬は口を開いた。
七瀬独特の心地いい高音の声音が耳に入ってくる。
相変わらず心に染みる優しい言葉だ。
もう何度も言われて聞き慣れた褒め言葉だが、七瀬が言うと、嬉しくなる。
彼女が率直なことしか言わないと知ったからだろう。
俺は素直にその褒め言葉を受け止められるのだ。
感想を口にする七瀬は夏日のせいか雪のように白い頰が上気している。
それゆえに普段よりも色っぽい。
そんな色気を纏った七瀬に「大好き」なんて言葉を言われれば、まるで告白されているかのように、錯覚してしまいそうだ。
胸がドキリと高鳴る。
「はいはい、そうかよ」
俺はそんな高鳴りを誤魔化すように、雑に返事をする。
本当はもっと喜んでいるが、そんなことをおくびにもださない。
意識しているのが相手に知られるのは恥ずかしいのだ。
相手は何も思っていないのに、自分だけが考えているのはあまりに虚しすぎる。
七瀬はただ俺の声が好きなだけなのだ。
それなのに俺が勝手に期待して、もっと深い意味があるのではないかと探してしまうのだ。
隠れた意味なんて何もありやしないのに。
七瀬のことが好きなのかと言われれば、好きだと明確にはまだ言えない。
ただ、彼女の柔らかく包み込むような優しくて明るい性格は、荒んだ俺の心を癒してくれるので、七瀬は俺にとって、離れがたいほど居心地のいい存在になりつつあった。
「褒めているのに……」
俺の反応がいまいちで不満のようだ。
七瀬は口を尖らせて、上目遣いに睨んでくる。
そんな姿ですら愛らしいのだから、美少女というのは得なものだ。
どんな姿でも可愛く見えてしまう。
「私も音方君みたいに何かの才能があったらよかったわ……」
七瀬は地面に落ちていた小さな小石をコツンッと蹴りながら、空気に溶け入りそうな声で呟いた。
か細くも透き通る声なので、俺の耳にはスッと届く。
「俺に才能なんてない。それより才能があったら何する気だったんだよ」
才能があったら、今ごろもう一度歌手を目指している。ないからこうしてただの日常を享受しているのだ。
俺は才能という言葉は嫌いだ。
人がこれまでにやってきたあらゆる努力をなかったものにして、一言で片付けてしまう。
その人は今まで努力を積み重ねているからその立場にいるというのに。得てきた経験があるから今の高みに立っているというのに。
人は才能を理由に自分が何も努力をせず、憧れるだけで留めてしまう。
だから俺は、人の可能性を潰すこの言葉が嫌いだ。
そんな才能という言葉が引っかかる。
七瀬と初めて出会ったときにも彼女は平然と使っていた。
当初俺は、軽々しく才能という言葉を使う彼女に苛立った。
だが、今俺が知る七瀬なら才能という言葉の持つ本当の意味を知っていると思うのだ。
知っていて彼女は敢えて使っている。
才能にこだわる七瀬の心の内に何があるのか、俺は気になった。
「もちろん、何かを成し遂げたかったに決まっているじゃない。私がこの世に生きた証を傷跡でもいいから残したかったのよ」
七瀬は、スゥッと顔に影を落として俯く。
揺れる黒髪の間から、口を小さく噛み締める七瀬の顔がちらちらと見え隠れする。
陰鬱な雰囲気。与える力の強い彼女が纏えば周囲は絶望に変わる。
急転した空気に俺は思わず息を飲む。肩にのしかかる重圧が、俺の呼吸を失わせた。
そうだった。迂闊だった。
あまりに七瀬が普通に過ごすものだから失念していた。彼女には死が身近にあるのだ。
どんなに強く前を向いていても、死という悲しみがなくなるわけではない。
ただ死というものと向き合い、受け入れているに過ぎない。
胸の内には、ずっとその存在が燻り続けているのだ。
そんな彼女が人生について考える機会は多いだろう。
俺だって死ぬ直前には、このまま何も残せずに死ぬことを悔いた。
死を直面すれば、誰だって何かは残したくなるものだ。
七瀬も本当ならもっと長生きをして、1つ、それもほんの僅かでいいから、生きた証をこの世に残したかったのだろう。
「……そうか」
俺はただそう言うしかなかった。
才能なんて言葉を使うなと言いたかった。
だがそれは彼女にとってあまりにも酷だ。彼女にはその努力する時間が残っていないのだから。
死を直面して何かを残したくなった時、彼女は才能にすがりつくしかなかったのだ。
それを誰が非難できようか。
努力をしてきたからこそ、俺は歌手になるという夢を諦めることが出来た。
だが才能もなく努力する時間もない彼女が、吹っ切れて諦めるのはどれだけ大変だっただろう。どれだけ辛かっただろう。
18歳の女の子が夢を諦めなければならない、それは酷く残酷で理不尽だ。
「……残念ながら私には人より優れた才能も、努力する時間もなかったから、諦めるしかなかったけどね。その代わり、やりたいことは見つけられたから私は満足よ」
七瀬は俯いた顔をあげ、引きつった笑顔を見せてくる。
まだ抜けない影が顔に残り続け、無理に貼り付けた強がりの笑みがあまりに痛々しい。
見ているこっちが辛くなってくる。
彼女は強い人だと思っていた。
死を直面しても進もうと思えるのだ、確かに強い人ではあるのだろう。
だがそれが弱い部分がないことにはならない。七瀬にだって抱えている心の脆い所はあるのだ。
まだ高校生の彼女が、全てを受け入れ達観するなんてことは出来るはずがないし、してはいけない。
年相応に甘えることも必要なのだ。弱音を吐く場所を持たなければならない。
そうでなければいつか彼女の心は、ため込んだ痛みに耐えきれず、壊れてしまう。
俺が夢を諦めきれず心を腐らせたみたいに。
彼女が弱音を吐く場所がないなら作ってやればいい。
俺は彼女の弱さを受け入れられる存在になりたいと強く思った。
彼女の心の支えになりたいなんて、おこがましほどの願いはない。
ただ彼女が疲れたときに、ふと立ち寄れるような関係でありたいと思った。
悲痛な笑顔を見ていられず、俺は思わず七瀬の頭に自分の手を伸ばす。
さらりと、触り心地の良い艶やかな黒髪が、俺の指に吸い付く。
優しく手を動かすと、髪が指の間をくすぐりながら抜けていく。
キラキラとよく手入れされた黒髪は煌めきまるで生きているかのようだ。
「……な、なに、この手は?」
頭に乗せた俺の手を、ちらりと上目遣いに見てくる。
ほんのりと頰を赤らめ、普段白い肌が朱に染まる。
目がきょろきょろと左右を彷徨い、しぱしぱと長い睫毛を重ね合わせる。
その睫毛の奥の綺麗な黒く澄んだ瞳には、戸惑いの色が浮かんでいた。
突然のことで驚いているのだろう。元から大きい瞳がさらに大きくなっている。
くりくりした瞳のおかげかきょとんとする顔が小動物的で愛らしい。
「悪い……」
半分無意識のうちに伸ばしていた手を、そっと七瀬の頭から離して引っ込める。
少しでも慰めになればと思って撫でたが、よくよく考えれば異性に撫でられるのは抵抗があるはずだ。
ましてや、俺と七瀬はまだ知り合ったばかり。
親しい間柄でもないのに、体の一部が触れられるのは嫌だろう。
「べ、別にやめてとは言ってないじゃない……。も、もう少し撫でてよ」
俺の手が頭から離れると、慌てたように動揺の混ざった声を上げる。
スッと彼女の細く白い手が俺の腕を掴み、俺の手を彼女の頭に押し付けるように持ってくる。
そのままちらっと俺を上目遣いで見ながら、そう口から甘える声を零すと、すぐに俯いてしまった。
俯いたことで普段は隠れている髪の間から彼女のうなじや耳が見えるようになる。
見慣れないうなじがやけに色っぽく、少しだけ目を逸らしてしまう。
俯いた七瀬の耳の裏側が、茜色に染まっているのがなぜか目を引いた。
どうや七瀬は頭を撫でられるのが気に入ったらしい。
さらさらと引っかかることなく、指の間で髪の毛を梳くように撫でると、少しくすぐったそうに身をよじる。
くすぐったそうなのでやめようかとも思うが、撫でる手を七瀬の頭から少し離すと、擦り付けるように頭を手のひらに寄せてくる。
くすぐったいが気持ちいいようで、目を細め、ほんの少し頰を赤らめながら口元を緩めている。
そんな姿を見れば、俺の止める気は一瞬で消え失せた。
少しは癒しになっただろうか?
俺は彼女と話していて荒んだ心が、少しづつだが確実に落ち着いていくのを毎日感じている。
歌うのを楽しく感じ、感想をもらって喜ぶ。
とうの昔に忘れていたそんな感覚を七瀬は思い出させてくれた。
彼女には感謝しかない。
俺が彼女からもらったものはかつて失っていたかけがえのないものだ。
そんな大事なものをくれた彼女に何かを返したかった。
癒し以外にも何か力になりたかった。
「何か他にやりたいことはないのか?」
1番力になれるのは、やりたいことを叶えてやることだ。彼女のやりたいことを1つでも多く叶えてやりたい。
死ぬまでに絶対したいことはないとしても、やってみたいぐらいのことならあるはずだ。
些細なことでもいい。それでも力になりたかった。
「そうね……」
七瀬は俺の手のひらの下で、しばらく目を瞑って考え込む。
目蓋が閉じられると、くるんとカールした長い睫毛が際立ち、思わず撫でる手を止める。
睫毛には美しい陰りがあり、俺は目を奪われた。
「……私、これまで彼氏って存在がいたことなかったから、カップルっぽいことってしたことないの。華の女子高生だし、一度くらいはカップルの色んなことをしてみたいわ」
七瀬はゆっくりと伏せた睫毛を上げ、目を開いた。
少し頰を赤らめて恥ずかしそうにしながら、やりたいことを教えてくれた。
ちらちらと、こちらに何か期待を込めるような視線を送ってくる。
「……分かった。じゃあクラスの誰かに彼氏役を頼めばいいんだな?」
心がズキリと痛む。
自分が立候補することも出来た。本当なら七瀬の相手をしたかった。
だがそれで断られたら恥ずかしいし、辛すぎる。
なら、多少嫌でも他の人に託そうと思ったのだ。
自分の気持ちよりも七瀬がいいと思うようにやらせたかった。
「ち、違うわ!そうじゃないの!音方君としてみたいの!流石に知らない男の人は嫌だわ。音方君なら色々知っているし、もう何回も関わったからいいかなって。ダメかしら?」
慌てた声を上げ、グイッと俺の袖を引いてくる。
七瀬は、少し目を潤ませて、恥ずかしそうに目を伏せた。
そして上目遣いに顔を朱に染めながら頼んできた。
「わ、分かった……。じゃあよろしく頼む」
心臓を鷲掴みされるような破壊力の可愛さに思わずたじろぐ。
勘違いしてはダメだ。勘違いしてはダメだ。
自分に都合の良いように捉えそうになるのをなんとか言い聞かせて抑える。
だが、それでも胸の高鳴りは抑えきれなかった。
彼氏役をあえて俺にこだわる七瀬に期待せずにはいられなかった。
「ええ、よろしくね。音方君!」
俺の返事を聞くと不安気な表情は瞬く間に消え去り、ぱあっと顔を輝かせる。
七瀬は声を弾ませ、満面の笑みを見せてきた。
その笑顔にまた胸が熱くなるのを感じた。
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