第4話 会
普通に学校を過ごし、無事定期試験も乗り越え、今は夏休みに突入していた。
2度目の人生だからといって特に何かを変えたわけではない。
カラオケ大会までの凡庸な俺は、カラオケに通い詰めていたこと以外、1度目と何一つ変わらずに、1学期を終えた。
夏休みなら、色踊る出来事が待ち受けているかと思ったが、何事もなく過ぎていく。
歌手になる夢を諦め、歌うことを辞めた俺は、ただ淡々と毎日を送っていた。
心血を注ぐものがない日常は、なんだが空虚なものに感じられた。
何をやっても冷めている。熱くなれるものがない。これが俺が二度目の人生を得て、やりたかったことなのか?
心に引っかかりを感じ、どことなく違和感が喉に残る。
気のせいだと思い込み、別なことに励むがどれもピンと来ない。
かと言って、歌をもう一度始めようとは思わなかった。
歌に手を伸ばそうとするたびに、母親の苦労、苦渋をなめた未来、捨てた努力が脳裏に蘇る。
俺は結局、歌を選択する勇気も覚悟も持っていなかった。
ああ、くだらない。つまらない。面白くない。刺激がない。
日常に対する不満は幾重にも積み重なり、大きく膨張していく。
日々溜まった鬱憤を晴らすために、ふらふらと外を彷徨い歩いていると、俺は偶々学校に行き着いた。
今日は運命の日だ。全てが変わった日。俺の人生が転落への一途を辿った最初の日。
そう、カラオケ大会の日だ。俺はもちろん欠席した。
そんな俺の人生の分かれ目の日に、家にいるのは落ち着かず、眠るにも眠れず、かといって特になにかすることもない。
気分を変えようと出歩くと、俺はいつのまにか学校に来ていたのだ。
長期休暇の学校は静まりかえり、誰かが歩く足音と話し声だけが、時々校舎に響き渡る。
そんな音を聞きながら、俺は快晴の空に惹かれて、屋上まで階段で登っていた。
バンッと金属扉を開ければ、フェンスに囲まれた屋上と、真っ青な澄み渡った空が目に飛び込んできた。
さらさらとそよぐ風が頬を撫で、太陽の熱が肌に付く。
さっきまで気にしていた運命の日なんて下らないことは、一瞬で脳内から吹き飛び、清々しく晴れ晴れとした気分に変わる。
夏の日差しに汗をかきながらも、俺は照りつける街空と太陽をじっと眺め続けた。
考えることなど何もない。頭を空っぽにしたまま、ぼんやりと佇み続ける。
鳥が前を横切り、車のクラクションが耳に届き、部活の掛け声が眼下の校庭から響く。
だがそのどれも気にならない。
真夏の空が、ただ青々と光り輝くのを、ずっと目に焼き付けていた。
ああ、綺麗だ。なんて鮮やか青なのだろう。一色のようで実際には微妙な変化があり、一言で青と言い表すのはもったいなさすぎる。
天高くに広がる空は、山の向こう側までずっと続いている。
そして青がうねる変化を伴いながら、その広大な空一面に描かれていた。
その果てしない光景はどこまで切なくて、俺は胸がギュッと締め付けられる。
澄み渡った青空は、今の俺の心を表しているみたいだ。
蒼天への感想が、自分のこれまで気づかなかった想いへと変わり、次々と自分の心の内が曝け出されていく。
言葉となって現れた想いは、もう消すことなど出来ず、どんどん大きくなり、やがて胸一杯に満たされた。
俺は歌うことが好きだ。
それだけは否定のしようがない。歌手を諦めて、自分の心を内側に閉じ込めても、切望された想いだけは隠しようがない。
気付くと俺は歌を歌い出していた。別に勇気も覚悟も持ったわけではない。
締め付けられた心に溜まった想いの言葉があふれでたのだ。
知らない間に頭に降って湧いた言葉を、その想いのままに声に乗せていた。
感じたことを、言葉にして歌うたびに心が踊る。気持ちを歌に乗せるのは心地いい。
思うがままに歌うから、音程なんてめちゃくちゃだ。
だがそれでも、今歌っている歌はこれまで歌ってきたどの歌よりも、生きた声で自分の耳を震わせる。
優しい穏やかな気持ちで声が出る。なんの目的もなく、ただ口に出して歌う。
これまで苦しんできた歌の呪いなど感じることなく、次々と弾ける心を歌にしていた。
限界まで心を絞り出して歌い終わると、奏でた色は消え去り、周りに静けさが戻る。
また外の世界の色んな音が耳に届き始める。
歌の余韻に浸り、脱力感が強く襲ってくる。
全てを吐き出した俺の心は、清々しいほどに、洗い流されていた。
「凄いわね。音方君の歌声、とても綺麗ね」
え?
突然後ろから声がかかる。驚いて振り向けば、そこにはクラスの隣の席の美少女、七瀬舞がいた。
さらさらと風に揺られる髪は、しなやかにどこまでもうねり、艶やかに太陽の光を反射し、キラキラと眩しく煌めく。
何度も見かけたことがあってもなお、その可憐な姿に目を奪われる。
その陶器のような色白の肌は、彼女の儚さを引き立たせ、今にも消えてしまいそうだ。
「……聞いていたのか?」
最悪だ。誰にも歌を聞かせるつもりはなかった。それがまさかクラスメイトに聞かれるとは。
別に1人に知られたところで文化祭に出場する流れにはならないだろう。
だが念には念を入れておきたかった。
「……ごめんなさい。別に盗み聞きをする気はなかったのよ。ただ屋上で寝ていたら、優しい声が聞こえてきて、気になってしまったの。様子を伺ったら音方君が凄い楽しそうに歌っているから、つい聞いてしまったわ」
申し訳なさそうに目を伏せる。
その頭の動きに合わせて、黒髪が煌きながら垂れ落ちる。
ゆらりゆらりと束になった髪達が、顔の周りで揺れ動いていた。
七瀬の声は高い。
だが柔らかい声音で不快ではなく、するりと耳から心に入り込み、じんわりと全体に染み渡る。
その声のおかげか、伏し目がちに紡いだ七瀬の言葉は、どこまでも真摯で、隠し事など一切ない正直な気持ちであると伝わってくる。
「別に聞かれたのは仕方ねえよ。俺が迂闊だっただけだ。聞いてどうだった?くだらない歌だっただろ?」
聞かれてしまったならもうどうしようもない。
幸い七瀬はクラスに来ない時が多いし、クラスメイトともあまり親交がない。
俺の歌のことを言いふらしはしないだろう。
魅力のない歌声だと自覚している俺は、あざけるように肩を竦めた。
「そんなことないわ!」
七瀬は間髪入れず、俺の言葉を強く否定してきた。
心なしか顔に赤みがかかり、キッと目を鋭くさせてこっちを睨んでくる。
七瀬の手は拳の形で強く握られていた。
「私、初めて誰かが歌う歌に感動したわ!思わず涙が零れてしまったもの。音方君の声は、とても優しい撫でるような音色だったわ。それなのに力はあって、強く私の心は揺さぶられたのよ。こんな経験、初めてよ」
俺の歌声を次々と褒め称えてくる。
褒め言葉なんて聞き飽きた。1度目の時も高校生の間は何度も言われてきた。
だがその言葉のどれもが、『一般人にしては』に過ぎないのだ。
今更、そんな言葉など心に響やしない。
褒め言葉なんてものは、日常会話の挨拶と同じ程度の価値にしか、俺には感じない。
「……そうかよ」
冷めた声で七瀬の言葉を聞き流す。
俺にはもう無用な言葉だ。夢を諦めた俺にそんな言葉は必要ない。
応援なんてものは、夢を諦め心を腐らせた俺ではなく、もっと目を輝かせ、将来に希望を抱いた者たちにかけるべきだ。
「っ……」
俺の底冷えする声音に、七瀬はビクッと身体を震わせた。動揺して目をうろうろと、地面に彷徨わせている。
おそらく、褒めているつもりが、俺が嬉しそうにするどころか、冷めた態度を取ってきたことに困惑しているんだろう。
彼女は口をきゅっと窄め、眉をへにゃりと下げていたが、おそるおそるゆっくりと、その口を開いた。
「……ごめんなさい。ほとんど話したこともなかったのに、急に感想なんて言われても困るだけよね。感動して気分が盛り上がって、つい言ってしまったの」
申し訳なさそうに顔を歪めて、頭を下げて俯いてしまう。
だが俯いていたのはほんの少しの間だけだった。
すぐにまたゆっくりと、その艶やかな髪を揺らしながら、顔を上げた。
愛らしいその瞳は、冴え冴えとしていて、真っ直ぐに俺と目が合う。
なにかを訴えかけてくるその目は、つい逸らしたくなるほどに鋭い。
七瀬は胸の前で、そのマシュマロのように白い両手で想いを包み込むようにした。
そして凛と響く声を震わせて、その想いを届けてきた。
「でもね音方君、私、冗談でこんなこと言ってないから!本当に凄いと思ったの!音方君の声は本当にみんなに力を与えられるものだわ!現に私は聞いて……、生きる気力を貰ったもの。人の心を震わせるのは簡単なことじゃないわ。それを容易く出来てしまう音方君は絶対に才能あると思う。これだけの才能があるなら、きっと歌手とかもう目指しているでしょう?」
たかだか18才のお前に何が分かると言うんだ。
才能なんて言葉を軽々しく使うんじゃない。それは限界まで努力して、長い時間を費やした人だけが使える言葉だ。
何もしていない奴に才能なんて言葉を口にする資格なんてない。
「目指してない。俺はもう、そういう音楽系のことはやらないって決めているんだ」
やらないし、やれない。
歌うことは楽しくても音楽の道に進めば、嫌でも才能が目につく。
俺の音楽が無能だと散々思い知らされたのだ。もう2度とあんな経験はごめんだ。
「どうして?ぜひやって欲しいわ。……また音方君の歌声、聞きたいもの。あなたのその安らぎの笑顔で奏でられる歌声を、もう一度だけでも耳に残しておきたいのよ」
首を傾げ、キョトンと目を大きく見開いている。黒く跳ねたまつ毛に、思わず目が惹かれた。
七瀬が言葉を吐き出すごとにその表情が陰り始める。
彼女の沈み込むような憂いを帯びた言葉が、最後やけにしつこく耳に残った。
「成功しないことが分かっているからだよ。未来が暗いと分かっていて、やるわけがないだろ」
夢を追う俺ってかっこいい。そんな自分に酔いしれる時代は、とうの昔に過ぎ去った。
現実を見なければならない。歌手なんかになれるわけがない。
才能もなく、努力も報われない。ただ心をすり潰して歌い続ける未来のために、今、音楽の道を選ぶことなど出来るはずがない。そんな愚かな選択肢など、初めから俺の中には存在していない。
手に入れた2度目の人生は絶対に幸せに生きるんだ。あんな苦しくて痛い生き方はもう御免だ。
だが拒否してもなお、七瀬は歌手をやるように勧めてくる。
「やってみないと分からないじゃない。せっかく人を魅了出来るだけの歌う力があるのに勿体ないわよ」
もううんざりだ。俺は既に進む道を決めたんだ。これ以上、俺の決断に割り込むんじゃない。
だいたいこいつはなんなんだ。これまで大して話したこともなかった奴を相手になんでそこまで俺を歌手にさせようとする!?
何度も歌手を勧められ、苛立ちが募る。
何も知らないくせに。何も分からないくせに。
適当なことを言うんじゃねえよ。無責任なことを言って、俺にお前の想いを押し付けてくるのやめろ。
そんな簡単なことじゃないんだ。未来を選ぶということは、他の未来を切り捨てることなんだ。
存在したであろう可能性。起こり得たであろう可能性。それらを消し去ることなんだ。
『未来を決める』、言葉のまま上辺だけを捉えるな。
その意味を真に理解せずに口にするお前の言葉に、なんの説得力もありやしない。
「しつこいな!やってみたから分かっているんだろ!俺には人を惹きつける力なんてものはなかったんだ!俺はもう2度とやらないって決めているんだ!」
「なっ!?それってどういう……?」
吐いたセリフで自覚する。
才能など一切なく、努力しても叶わなかった夢。
歌手になりたいに決まっている。なりたかったに決まっている。
諦めたからといって、夢がなくなるわけではない。
見ないようにしているだけだ。無視しているだけだ。
これ以上、俺に歌手になれるなんて言うんじゃない!俺に夢を思い出させないでくれ!
俺は七瀬の言いかけの言葉を無視して、逃げるように屋上を出た。
こうして、少しだけ気になっていた七瀬舞との初めての出会いは、最悪の別れで終わった。
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