第3話 醒

 どこだ、ここは?

 深い眠りから覚めるように、意識を取り戻す。

 

 死の直前の記憶は鮮明に脳裏に焼き付いている。

 俺はあそこでトラックに引かれて死んだはずだ。なのになぜ意識がある?

 ここは死後の世界か?それとも死なずに病院にでも運ばれたのだろうか?


 俺は重いまぶたをこじ開け、周囲を確認した。

 

 眩しい日差しに照らされた部屋。清潔に保たれた綺麗な床。机の上に積まれた本の類。クリーム色のカーテン。

 そして昔、俺がハマっていた歌手のポスター。

 どれも見覚えがある物たちだ。高校生時代、まだ俺の将来が明るいと思っていた時代の部屋そっくりだ。

 

 一体どういうことだ?ここはなんだ?なぜ俺の昔の部屋が……。

 次々と湧き出てくる疑問に頭が混乱する。理解できない現象を前に、思考は止まってしまう。


「楽!早く起きなさい!」


 そんなパニックに陥っている俺を嘲笑うかのように、また一つありえない現象が俺の前に落ちてくる。


 なんでここに母親が!?

 バンッと扉を開けて部屋に入ってきたのは、母親だった。

 もう何年も会っていなかったその姿だったが一目見ただけで分かった。

 あまり昔と変わっていない。それどころかほんの少し若そうですらある。

 

 「あら、起きてたのね。じゃあ早く支度しなさい。遅刻するわよ」


 俺が起きていることに驚いたように目を丸くし、それだけ言い残すと、さっさと部屋から出て行った。

 それは高校生時代に何度も繰り返された光景、もう嫌になる程言われてきたセリフだが、今はその言葉ですら、俺の心には染み入るほど優しかった。


 夢なのか、それとも最後に神様がくれた癒しのひと時なのかは分からない。

 だがどんなものであれ、俺には格別な時間だ。流れゆくような当たり前の幸せが受けられる、貴重な邂逅だ。


 俺は体を起こし、母親に言われたとおり、準備をする。クローゼットを開けば、懐かしい高校時代の制服が畳んでおいてあった。

 やはり、ここは高校生の時のようだ。待てよ、ということは……!?

 俺はあることに気付き、急いで今の日付を確認する。

 日付は高校3年生の時の7月2日、まだみんなの前でカラオケの歌を披露する前の日付だった。


 信じられない。全てをやり直せるんだ。

 あの後悔の選択の連続を全て無かったことに出来る。

 あんな最悪な未来を消し去れる。

 二度と見たくもないような将来を変えられる。

 

 ーーーーただ平凡に生きて平凡な幸せを掴むことが出来るんだ!


 俺は与えられたこの機会で歓喜に震えた。

 神様でも悪魔でもなんでもいい。ありがとう。

 俺はやり直しが出来るこんな機会をくれたことに、強く感謝した。


 着替えて食卓に向かうと、そこには朝ご飯が並べられていた。

 俺は母親と向かい合うように席に座る。

 高校生の時は文句を言いながら食べていたが、久しぶりに食べる母親の手料理は、じんっと心の奥底まで温めてくれた。

 

 母親には感謝しかない。1度目の時も、俺が歌手になると言っても反対せず、応援してくれた。

 父親はおらず、母親だけで家計も苦しいはずなのに背中を押して、東京へ行かせてくれた。

 その後も何度もお金の支援を続けてくれていた。

 なのに、俺は……。


 もう絶対苦労などかけない。

 平凡に生きて平凡な人生を歩んで、母親を安心させてやるのだ。

 あんな迷惑など二度とかけてやるものか。


「お母さん、いつもありがとう」


 思わず溢れたその言葉に、母親は目を丸くして固まった。

 別に言うつもりはなかったのだが、積もり重なった想いが自然と俺の口を開かせた。

 気恥ずかしくて、死ぬ前には一度も伝えられなかった想いは、終わったみればいとも容易く伝えられるものだった。


「何言ってんのよ。今日の楽は変ね。早くご飯食べちゃいなさい」


 様子がおかしい俺に変な者を見る目を向けて、すぐに台所のほうに消えてしまった。


 この夢はいつ覚めてしまうかも分からない。

 あるいはここは本当に現実の過去で、ずっとこのままかもしれない。

 でも、等しくいついかなる時に誰にでも、死は襲いかかるものだと実感した。


 死んでしまったからでは遅いのだ。

 伝えたくても伝えられない。そんなことはいつでも起こりうる。

 それを踏まえて俺は、今この時間を生きていかなきゃならないんだ。

 

 当たり前が当たり前にあることに感謝しつつ、俺は食事を終えて学校へ向かった。

 教室の扉を開くと、そこには懐かしいクラスメイトの顔が次々と目に飛び込んでくる。

 ああ、あんなやつもいたな、そんなことを思いながら自分の机に座る。


 まだ、誰も話しかけてくる奴はいない。この時、俺は、まだクラスの中心には立っていなかった。

 注目を浴び始めたのが、あのカラオケ大会の時だったのだ。

 それまでの俺は、こんな感じにひっそりと、教室の端で毎日の生活を送っていた。


 隣の席に目をやる。そこは空席で誰も座っていない。

 ああ、これも日常だったな、そんなことを思い出した。


 俺のクラスには、高嶺の花と恐れられ、憧れられるほど綺麗な女子がいる。七瀬舞だ。

 髪型は黒髪ロングのストレート。ぱっちりとした二重まぶたに、くるんとしたまつ毛。鼻筋は通っており、熱い果実のような唇。

 一言で言って完璧な美少女だった。

 そして陶器のように白い肌は彼女をより儚く感じさせる。


 そんな彼女は身体が弱いのか、ちょくちょく学校に来ない時がある。

 来ても大抵は、窓から外をぼんやりと眺めているだけで、誰とも関わろうとしていなかった。

 そんな姿は、ますます彼女を高尚化させていた。


 俺にとって、そんな彼女が座るはずの隣が空いているのは、見慣れた日常だった。

 隣になっても相手がいなければ知ることは少ない。

 そんなわけで、俺にとって彼女は、結局色白の美少女というイメージしか卒業する最後まで、持っていなかった。

 隣の席という関係以外に、特に関わることもなかったし、知る機会はほとんどなかった。


 そういえば彼女は、カラオケ大会にも来ていなかったし、卒業式にも来ていなかった。

 あの頃は歌にしか興味はなかったから、自分のクラスに高嶺の花がいることなど気にも留めていなかった。

 だが歌うことをやめると決めた俺は、少しだけ気になった。


----彼女は一体どんな人だったのだろうか。

 

 

 

 

 

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